夕星 8



険しいというより急な山道を登って源泉のある場所へと向かった。
昔は舗装されていただろう道は石が割れ、土に隠れている。
足場は悪いが忍びの足では何てことない。
うんしょ、うんしょと大股で登っていくイルカ先生の後ろについて、締まったお尻を眺めて至福の時を過ごした。
辿り着いたところに人気はなく、源泉と書かれた立て看板があるだけだった。
夏場では湯気も立たず、それが無ければ見落としてしまいそうな小さな岩の中に湯が溜まっている。
こぽこぽと溢れ出す湯は見るからに熱湯で硬く澄んだ水が揺らいでいた。

・・・・これが源泉。

思ったことはイルカ先生も同じだったようで、申し訳なさそうに辺りを見渡すとオレを見上げる。

「ゆで卵しよ?」

ぽんと麦わら帽子の上に手を乗せると、ほっとしたようにイルカ先生が頷いて、唯一一軒だけある小屋に向かった。
戻ってきたイルカ先生の手元にはオレンジ色のネットに入った卵が4つ。

「10分ぐらいで茹で上がるそうですよ」
「うん」
「生みたてだそうです」
「そう」

しばらくは湯に浸った卵を眺めていたが、湯気は無くても熱気は相当で、離れたところにあるベンチに移動すると並んで腰掛けた。
喧しいほどのセミの声が押し寄せる。
木漏れ日を浴びてじっとり汗を掻きながら、心はゆったりと凪いでいた。
足湯にいたときよりもずっと楽しい。
根本的にイルカ先生とオレの性格は正反対で、オレが好むことはイルカ先生の行動を制約しそうでなかなか口に出来ない。
だから不意に訪れるこんな瞬間が堪らなく嬉しかった。
誰もいないところで、イルカ先生と二人きり。
話をするイルカ先生の横顔を眺め、つーっと麦わら帽子の下から頬に流れた汗に手を伸ばした。
指先で拭うとイルカ先生が恥ずかしそうにする。
そうされると余計に構いたくなって、玉の汗が浮かぶ首筋に手を滑らせた。
火照った首筋は熱く、つるると滑る。
くすぐったそうに首を竦めたイルカ先生を覗き込むと沈黙が落ちて、見つめ合ったまま顔を近づけた。

あと数センチ、あとちょっとでイルカ先生の唇に触れる。

唇にイルカ先生の息が触れて瞼を伏せかけた時、ガタッと小屋の方から音がしてイルカ先生が飛び上がった。

「お兄ちゃん達ー、そろそろ茹で上がるよぉ。良かったら塩使ってー」
「あ、ありがとうございます!」

じゃりじゃり足を踏み鳴らしながらやってくるおばちゃんにイルカ先生が引き攣った笑顔を向けた。
オレはと言えばがっかりし過ぎて声も出ない。

「暑いねぇ」
「ええ、本当に」

イルカ先生が赤いのをおばちゃんが誤解した。

「ビールでも飲むかい?」
「あ、いえ、あ・・、っと・・」

イルカ先生がオレを見ておたおたする。

「どっちなんだい?」
「いえ、まだ昼間なんで・・」
「若いのに真面目だねぇ」

かかっと笑って小屋に戻ったおばちゃんに、背を向けたイルカ先生がそうっと息を吐いた。

「・・吃驚しましたね」
「うん・・」

許されるなら土遁であの小屋を引っくり返してやりたい。
小声で交わされた言葉に残念そうな響きを聞き取って溜飲を下げると、イルカ先生を誘って卵を取りに行った。
湯から引き上げた卵の表面はすぐに乾いて白い湯気を上げる。
火傷しないように取り出すと、イルカ先生より先に殻を割った。
ひび割れた殻の隙間からぷるんとした白身が見える。
上半分だけ殻を剥くと、両手でちまちま殻を捲っていたイルカ先生に差し出した。

「イルカ先生、どうぞ」
「あっ、すいません。・・でもこっち剥いちゃいます・・」
「ん。でも、オレ熱いのすぐに食べれないから、こっち食べて」 「あっ」

ひょいとイルカ先生の手の中の卵を奪うと、剥けた方を乗せる。
もろもろになりかけた白身から綺麗に殻を剥がすとイルカ先生が諦めた。

「ありがとうございます」
「うん」

食べて、と目で促すと、イルカ先生がぱくりと卵を頬張る。

「どう?おいしい?」
「はいっ!おいしいです。あっ、黄身が半熟・・!」

とろりと溢れる黄身にイルカ先生が慌てて口を付け、満足そうな笑みが顔中に広がった。

「おいしっ、・・カカシさん、そろそろ大丈夫ですよ」
「うん」

イルカ先生が言うなら安心と、ぱくりと卵に歯を立てる。

「おいしいね。オレ、温泉タマゴなんて食べるの初めて」

窺う視線にそう言うとイルカ先生が嬉しそうに笑った。

あっという間に平らげて、塩を使わなかったことに気付いたのはすべて食べ終えてからだった。

「卵の味が濃かったから、塩はいりませんでしたね」

イルカ先生の感想に頷きながらちょっぴり思う。

やっぱりあの小屋引っくり返してもいいですか?



卵が旨かったことに免じて小屋を引っくり返すことはせずに、大人しく塩を返すと山を降りた。
本来の目的地である蔵元へ、川沿いの道を歩いて向かう。
キラキラと夏の光を反射する水面は眩しく、どうせならと土手を降りると川辺を歩いた。
そこまで行くとイルカ先生がさっそくサンダルを脱いで川に入った。
川は浅く、ごつごつと水底に並んだ石の上をバランスを取りながらイルカ先生が歩いた。
ふとした拍子に石を踏み外し、深みに嵌ったイルカ先生が笑い声を上げて、――慌てた。

「あちっ!」

さっと足を上げ、石の上に戻ったイルカ先生が驚いた顔をする。

「え?どうしたの?」
「・・熱かった・・」

え?と傍に寄って川に手を浸すと、普通に水だった。

「冷たいよ?」
「でもさっきは・・」

イルカ先生が嵌った水底に触れ、冷たい感触に手を押し付ける。
そうしてゆらりと触れた温かさに、試しに砂を掘ってみた。

「あつっ!」

砂の下から熱湯が沸きあがる。

「コレって温泉?」

どうやら川の下には天然の温泉が流れているようだった。

「掘ったらお風呂・・」

呟いたイルカ先生の顔がきらんと光った。
言う前からイルカ先生が言い出しそうなことが予想出来た。

「・・掘ってみる?」
「はい!」

嬉しそうに頷いたイルカ先生が、川岸に寄ると石を持ち上げて退けた。
そこにお風呂を作るらしい。
だけど掘ってみてすぐに気付いた。
素手では無理。
川底の湯が熱すぎて、いくら忍びの手でも触れられない。
土遁でも使えば一発だが、そんなことをして人目に付きたくなかった。
ここにいる間は忍者であることを伏せておくに限る。
それは平穏に旅行を楽しむためには必要なことだった。

「イルカセンセ、なにか掘るものがいるね」
「・・そうですね」

しょぼんとした笑みを見せたイルカ先生が川から上がる。

「また今度」
「ウン」

それがいつになるか分からないけど、年をとっても10年後でも、また二人でここに来て温泉を掘れたらいいなと思う。
年寄り二人が川を掘る姿が目に浮かぶ。
イルカ先生とだったら、おじいちゃんになってたって今と変わらず楽しいに違いない。








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