夕星 17
朝の気配に目が覚めた。
気だるさの残る体を布団の中で大きく伸ばして、目の前の体を抱き寄せると額に口吻けた。
そうっとしたのに眠っていた瞼が開いてオレを見る。
「おはよー、イルカせんせい」
雛鳥のようにぱちぱちと瞬きを繰り返すイルカ先生が覚醒するのを待った。
とろんと開いた瞳が眩しそうに眉を顰めてもう一度瞼を閉じるのに、腕の中に入れると影を作った。
胸元に熱い息が拭き掛かる。
言いようのない愛しさが溢れて、黒髪に顔を埋めた。
可愛かった。
昨夜みたいなイルカ先生って初めてだった。
今まで積極的に求められることがなかったから、思い返すと嬉しくてくすくすと笑いが零れた。
甘い気持ちに浸ったまま、イルカ先生の髪を撫ぜ続ける。
そうして明るくなった頃、部屋の電話が鳴った。
「イルカセンセ、朝ご飯来るって」
裸のまま起き上がると、寝転がったままのイルカ先生の背中をぽんぽんと叩いた。
むくりと起き上がったイルカ先生の顔を髪が隠す。
まだ眠り足りないのか、俯いたまま目元を擦るイルカ先生の頭を撫ぜた。
朝食を食べ終わると、荷物を纏めて変える準備をした。
もう着ない服や使い終わった洗面具をリュックに詰めていく。
昨夜行為が過ぎたのか、動きのゆっくりしたイルカ先生の身の回りのものも詰めて、最後に切子の入った箱を入れようとするとイルカ先生が呼んだ。
「カカシさん、こっちに」
リュックの入り口を広げて見せるイルカ先生に切子の箱を移し変える。
大事そうに、荷物の一番上に収まった箱に満足そうな笑みを浮かべるとイルカ先生がリュックのファスナーを閉めた。
部屋の中は来た時と同じように二人のものは何もなくなる。
寂しそうにイルカ先生が庭を眺めた。
そこかしこに二人の思い出が染み付いて離れがたい。
とても居心地のいい部屋だった。
「また来たいね」
「・・はい」
庭へと続く障子は開け放ったまま、4日間過ごした部屋を後にした。
旅館の人たちにお礼とお別れを言って外に出ると、すっかり通いなれた道を通って里の出口へと向かった。
着いたばかりなのか大きな荷物片手に楽しそうな笑顔を浮かべた家族連れと擦れ違って羨ましくなった。
任務でもっと長く逗留した村にだって、引き上げるときは何の感慨も無くあっさりしたものだった。
これから自分の里に帰るのに、何故か心が晴れない。
隣を歩くイルカ先生も元気が無くて、言葉も無いままトボトボと琉の里を出た。
帰りは街道を歩いて帰った。
やはり昨夜の行為が過ぎたようで、イルカ先生が歩くのが辛そうだった。
「背負おうか?」と聞くと首を横に振られ、街道を通って帰ることにした。
遠回りになるが行きに通った森よりも街道は道が整備されていて歩きやすい。
イルカ先生の体を気遣いながら、のんびりのんびり歩いて帰った。
この調子で歩いても、夕暮れには里に着く。
延々と続く電信柱の並んだ道を二人でテクテク歩いた。
「イルカ先生、旅行楽しかったね。温泉卵も美味しかったし」
俯いたイルカ先生に声を掛けると顔を上げた。
「はい。旅館のご飯もすごく美味しかったです。温泉も広くて気持ち良かった」
「うん。あ、知ってる?お祭りの次の日、山狩りがあったんだって」
「へー・・」
「狼が出たって観光客が騒いで。この辺りに狼なんていないのにって旅館の人が首を傾げてたけど、あれってオレが――」
「カカシさん!」
「あ」
会話が欲しくて余計な墓穴を掘ってしまった。
「でもすぐに消したし!騒ぎになるなんて思わないじゃない!」
睨みつけてくるイルカ先生から視線を逸らした。
ちょっと脅しただけだ。
イイ所を邪魔したりするから――・・。
「それにしてもあの時はビックリしたよね。慌てちゃった」
あの時の硬直具合を思い出すと可笑しくなる。
1ミリも動けなかった。
イルカ先生も思い出したのか隣で小さく吹き出した。
「・・・そうですね」
小さな笑いがだんだん大きくなって、二人で大笑いした。
あの時は心臓が止まりそうになったけど、過ぎてしまえばいい思い出だ。
「でも、里じゃあ絶対ゴメンですよ。外でなんて・・」
「・・・・・・」
思い出にするには早いらしく、笑いを収めたイルカ先生に睨まれてしまった。
夕方近くなると見慣れた道に入ってもうすぐ木の葉の里だと知れた。
帰ったらイルカ先生とのんびりして旅の余韻に浸ろう。
夜には荷物が着くから二人でそれを広げるのもいい。
お酒も飲もうと青い切子を思い浮かべていると、白い鳥が飛んできた。
ただの鳥じゃないのは遠目でも分かる。
がっかりしながら手を伸ばすと、指先に止まった鳥は紙に形を変えた。
目を通してそれを煙に返すとイルカ先生を振り返る。
「・・任務が入りました」
「・・・・・そうですか」
溜息が出た。
なにも式を飛ばさなくたっていいじゃないか。
幸い任務は夜からだけど、明日からだと思っていた分落胆は大きい。
今夜の楽しみが遠ざかっていく。
「ゴメンね、イルカ先生。片付けるの置いててくれたら帰ってきたときに――」
振り返ってぎょっとした。
イルカ先生が泣いている。
唇を噛み締めて声を出さずに、ただ瞳からぽとぽとと涙を落とす。
「ど、どうしたの!イルカ先生!?」
オロオロと傍に寄ると目元を拭って首を降る。
「なんでもありません」
きゅっと寄った眉にあれっと思った。
こんな風に眉を寄せてるのを見たことがある。
それがどこでだったか思い出そうとする間にもイルカ先生の目から涙が落ちて、疑問は霧散してしまった。
「なんでもないことなんで無いデショ?そんなに泣いて・・。もしかして具合悪かったの・・?ねぇ。イルカセンセ――」
「なんでもないったらなんでもないです!もう行ってください。任務があるんでしょう!」
「行くわけないでしょう!!」
思わず怒鳴りつけると、泣いているイルカ先生の肩が跳ね上がった。
きょとんとオレを見て、それから本気で怒っていると分かったのか、ひっくひっくとしゃくり上げ出した。
だけど今のはイルカ先生がいけない。
もちろん任務は夜からだが、オレが泣いてるイルカ先生を置いて行ける訳無いのに。
そんなことも分からないのか。
「いっ、・・かなきゃ・・よ・・た・・」
「なんですって・・?」
「旅行なんて、行かなきゃ良かった!」
「えっ」
ガンと鈍器で頭を殴られた気がした。
瞬く間に怒りが終結してうろたえる。
あんなに楽しかったのに。
イルカ先生もそうだと思っていたのに、違ってた・・?
「あの・・、イルカ先生、ごめんなさい。オレ、なんか旅行の間イヤなことしてた?」
「・・うっ・・ぐす・・っ、ひくっ・・」
「・・・イルカ先生ゴメン、・・ゴメンネ」
そうっと泣いている体に腕を回すと、イルカ先生が首を横に振った。
背中を抱き返されてほっとする。
「・・カカシさんは、悪くないです。・・知らなかったら、平気だったのに・・」
「・・どういうこと?」
イルカ先生がぐずっ、ぐずっと大きく鼻を啜る。
「里に帰ったら、カカシさんは居なくて・・、に、任務でいつも居なくて・・」
再びくぐもった声を上げて泣き出すイルカ先生に苦しくなった。
「イルカ先生、寂しかったの?オレ、イルカ先生にずっと寂しい思いさせてた?」
違う違うとイルカ先生は首を横に振るけれど、泣いている姿が答えだった。
「・・この4日間、ずっと一緒にいて、カカシさん優しかったから・・。すこし、贅沢になってました。ごめんなさい」
もう平気だと言うところを見せたいのか、目元を赤く染めたイルカ先生が顔を上げて笑顔を見せる。
だけど堪えるように寄せられた眉間に、ふと、すべての光景が繋がった。
今朝布団の中や、昨日のお風呂で、――他にも時々こんな表情をしてた。
いつの間にか言葉数も少なくなっていたけど、オレはそれを気にも留めてなかった。
ずっと寂しい気持ちを堪えてたの・・?
「イルカ先生、傍にいるよ?旅行だってこれからもっと一緒に行こう」
「はい」
笑って頷いたイルカ先生の目元から涙が一粒零れ落ちた。
信じてない。
きっとイルカ先生はオレの言葉を信じてない。
だって今まで一度も旅行に行ってない。
近所のお祭りにすら行ってなかった。
これまでの行いを振り返ると、イルカ先生が信じないのも仕方なかった。
だけどこれからは違う。
だって今回の旅行で、旅行がこんなにも楽しいものだと知ったから。
「イルカ先生聞いて、ウソじゃないよ。オレは今まで旅行とかお祭りとか楽しいものだとは知らなかったから行きたいとも思わなかったけど、でも今回イルカ先生と旅行に来てすごく楽しかったから、温泉もお祭りもすっごく楽しかったから、また一緒に行きたいし、絶対に行く。・・ホントだよ?・・それにオレだって寂しいんですよ。今夜はイルカ先生と切子の銚子で一緒にお酒飲めると思って楽しみにしてたのに。久しぶりに家に帰ってのんびり出来ると思ってたのに・・」
項垂れるとイルカ先生が泣きそうな顔で笑った。
「じゃあ、任務が終わったらまっすぐ帰ってきてくださいね。俺、待ってますから」
「当たり前デショ?」
なんだか胸が苦しい。
イルカ先生と離れたくない。
今までのどの瞬間よりも、体の中にイルカ先生が詰まっていて離れるのが酷く切ない。
旅行に行く前は想像もしていなかった。
こんなにもイルカ先生と離れがたくなるなんて。
頬を擦り合わせて涙の跡を唇で拭うと唇を重ね合わせた。
ちゅっと吸い上げて離れると、イルカ先生がオレの髪を梳いて頬を撫ぜた。
両手で頬を挟まれ、頭を傾けたイルカ先生の唇が柔らかく押し当てられる。
泣きたいほどの愛しさに、イルカ先生を強く抱きしめた。
そのまま切なさが和らぐのを待つ。
いつまでもそうしていると背中を強く抱き返したイルカ先生が顔を上げた。
「・・カカシさん、時間大丈夫ですか?遅れますよ」
「・・・・・・・・」
イルカ先生は、幾度こんな気持ちを味わってきたのだろう。
オレに気取られないように、なんでもない顔して。
「任務は夜からだから、まだ一緒にいられるよ」
物分りのいい顔をしたイルカ先生の表情の中に『嬉しい』が浮かんだ。
あと数時間だけなのに、嬉しいと。
旅行来て良かった。
ずっと一緒にいてイルカ先生のことなら何でも知ってるつもりだったけど、まだオレの知らないイルカ先生に出会えた。
人一倍しっかりしてるけど、人一倍寂しがりやくせに強がりなイルカ先生に。
そしてオレが思っている以上にオレのことがスキなイルカ先生に。
きっとオレ達はこれからもっと深く繋がっていける。
「帰ろう」
手を差し出すと指が絡んだ。
夕日が恥かしそうに俯いたイルカ先生をオレンジ色に染める。
里に向かって歩き出すと、暮れ行く空にひときわ明るい星が瞬いていた。