月珠
ひゅん、ひゅんと風を切る音が耳を塞いだ。
足取りが軽い。
枝を蹴って前に進みながら、二つの気配が待ち伏せしているのを知った。
「待て!き――」
続く言葉は、『さま』だろうか?
スピードを緩めず駆け抜けて、バキバキと枝を鳴らして落下する二つの音から遠ざかった。
殺してはいない。
イルカ先生に習って平和主義だから。
以後、追って来る者は無く、一足飛びに国境を越えると里へ帰還した。
「ありがとね。旨かったよ、こないだの酒。気を使わせて悪いな」
「いえいえ、ど〜も」
豊満な胸の前で腕を組んで、五代目が上機嫌の笑みを浮かべた。
その酒を、オレはイルカ先生と二人で持ってくるつもりだった。
突然宛がわれた任務でふいにされたけど。
でもイルカ先生がオレの名前を出して酒を渡したところを想像すると自然と顔がニヤけた。
「気持ち悪いね。こんなところで笑ってないでさっさと帰っておやり」
言われなくとも。
誰のせいでイルカ先生との楽しみが2日も遅れたと思ってるんだ。
文句の一つや二つはあったが遅れを取り戻すべく、印を結ぶと火影室を後にした。
家に帰りながら、出かける前のイルカ先生を思い浮かべて、また頬が緩んだ。
可愛かった。
旅行の荷物を降ろして休憩したのも束の間、家を出る時間はすぐにやってきた。
支度を整えて玄関に向かうと、寂しそうな顔をしたイルカ先生に抱きしめられた。
急いで帰ってくると言うと首を横に振る。
そんなことしなくていいから無事に帰って来いと言われて心底離れたくなくなった。
時間が来て、イルカ先生の体を離した時の胸の痛みといったらなかった。
それはきっとイルカ先生も同じで、だから家に帰ったらもう一度抱きしめてくれる。
うきうきしながらアパートの階段を登ると味噌汁の匂いがしてきた。
うちの味噌汁の匂いで、部屋を見れば廊下に面した台所の窓が細く開いている。
その向こうにいるイルカ先生を想って、たんっと階段を登りきると急いで部屋に向かった。
玄関を開けて、「ただーいま」と声を掛ける。
「おかえりなさい!」
台所から顔だけちょこっと覗かせてイルカ先生が言った。
「ただいま」
もう一回言って部屋に上がると、てっきり飛びついてくると思ったイルカ先生が顔を引っ込めた。
あれ?っと期待が外れたことを寂しく思いながら台所に向かう。
きっと手が離せない用事があるのだろうと自分に言い聞かせながら台所の中に入った。
台所ではこちらに背を向けたイルカ先生がぐるぐる鍋を掻き回している。
近づいて、イルカ先生の背中から鍋を覗き込んで首を傾げた。
きっとそれはもう出来上がっている。
豆腐の浮かんだ味噌汁が、ぐるぐる渦を巻いて回っていた。
「イルカセンセ?」
「も、もうすぐご飯が出来ますよ。だから少し待っててくださいね」
「あ、うん・・」
・・そうじゃなくて。
急いで帰ってきたんだよ。
怪我一つしないで帰ってきたんだよ。
喜んで貰えると思ったのに素っ気無いイルカ先生の態度が寂しくて、背中からイルカ先生の腰に手を回すと抱きしめた。
首筋に顔をうずめて擦り付ける。
「あっ」
イルカ先生の手から離れたお玉が流されてくるくる回った。
頬に触れるイルカ先生の首筋がかあっと熱を持つ。
「・・・・・・・・・・・・」
硬直したまま、回り続けるお玉を止めないイルカ先生にふと疑念が湧いた。
よく見れば、コンロの火は止まってる。
「イルカ先生・・?もしかして照れてるの?」
肯定するように耳まで赤く染まったイルカ先生に、嬉しくなってぎゅっと抱きしめると腕を解いた。
バカだな。
ちょっと離れただけで、すぐに慣れなくなってしまう。
数歩下がって距離を置くとイルカ先生が不安そうな顔で振り返った。
「カカシさん・・」
「おいで」
両手を広げると、一瞬戸惑ったイルカ先生がくしゃっと顔を歪めて腕の中に飛び込んできた。
抱きしめる力は痛いほどで、でもその痛みが嬉しい。
同じぐらい強い力で抱きしめるとイルカ先生の体から力が抜けた。
「カカシさん・・」
小さく、溶けるように名前を呼ばれて泣きそうになる。
顔だけ離してイルカ先生の後頭部を掴むと唇を重ねた。
肉厚な唇を食んでから舌を差し込むと、熱い舌に出迎えられる。
絡めて擦りつけ合って、角度を変えながら何度も口吻けて、ようやく人心地ついてから離れた。
はふはふと呼吸するイルカ先生の濡れた唇を舐める。
上気した頬を撫ぜるとイルカ先生の手もオレに伸びて頭を撫ぜた。
後ろに回った手が額宛の結び目を解く。
「・・疲れたでしょう?お風呂沸いてますよ」
「うん」
「上がったらすぐにご飯ですよ」
「うん。・・その後にイルカ先生も食べていいの?」
瞳を覗き込んで聞くとさっと目元に朱が走る。
「・・・・・・・・・・・・・・いいですよ」
聞き取れないほど小さな声で答えたイルカ先生に背を押され、聞き返す間もなくお風呂に押し込められてしまった。
くすくす笑いながら服を脱いで風呂に入る。
湯に浸かる前に念入りに体を洗って2日分の垢を落とした。
さっき臭くなかったかなと今頃気になって、くんと肌の匂いを嗅ぐ。
香るのは使い慣れた石鹸の匂いだけで、慣れ親しんだ香りに気持ちが緩んだ。
湯船に入ると背中を丸めて肩まで浸かる。
狭くても、ここが一番くつろげる。
ふぅーっと深く息を吐き出すと、頭にタオルを乗っけて目を閉じた。
風呂から上がるとイルカ先生のいる台所に向かった。
「カカシさん、ビール飲みますか?」
「うん」
イルカ先生が出してくれた缶ビールとグラスを受け取って卓袱台に運ぶ。
所狭しと並んだ晩御飯に目を細め、まだこっちに来ないイルカ先生に台所に目をやろうとして、「あっ!」と声を上げた。
いつもオレが座るところに、いつもと違うお箸が置いてある。
艶やかな黒いお箸に埋め込まれた螺鈿を見て、旅先での光景が蘇った。
お箸を選ぶ真剣な横顔――。
あれはオレのだったの・・?
「センセ!イルカセンセ!」
興奮して名前を呼ぶとイルカ先生が台所から顔を出した。
なんですか?なんて澄ましているけどその頬は赤い。
「これオレのなの!?貰っていいの?」
「はい。これは俺からカカシさんへお土産です。・・といっても俺のもあるんですけど・・」
色違いのお箸が向こう側に並んでいる。
「イルカセンセ!」
「わっ」
がばっと飛びついて、イルカ先生をもみくちゃにした。
嬉しくて抱きしめるだけじゃ足りない。
「どうして?どうしてこんなことしてくれるの?」
「理由なんて・・。カカシさんだって、俺にいろいろしてくれたじゃないですか」
「だってそんなのしたかったんだもん」
「なら俺だってしたかったんです」
自慢げにイルカ先生が唇を尖らせる。
でもずるい。
ずるい!ずるい!
こんな風に驚かせるなんて。
嬉しいのと幸せなので上手く感情がコントロール出来ない。
感情が高ぶって泣きそうになるのをイルカ先生に抱きつくことで隠していると、イルカ先生がぽんぽんと背中を叩いた。
「ほら、カカシさん。ご飯が冷めちゃいますよ」
促されて座布団の上に座ると真新しいお箸を手に取った。
埋め込まれた貝が虹色に光るのを角度を変えながら眺めた。
「そんなに喜んでもらえると俺も嬉しいです」
はにかんだ笑みを浮かべたイルカ先生が照れ臭いのを隠すようにご飯を頬張る。
勢い良く食べ出したのにつられてオレも味噌汁を口にした。
「うまーい!」
久しぶりに食べたイルカ先生のご飯に味覚が大いに喜んだ。
「やっぱりイルカ先生のご飯が一番美味しいね!」
「なに言ってんですか。ついこないだまで御馳走食べてたのに、こんなの――」
「あんなのよりイルカ先生のご飯の方がずぅーっとずっと美味しいよ」
断言すると、まだ何か言おうとするイルカ先生の口を玉子焼きで封じて、代わりにイルカ先生の皿にある玉子焼きを強請った。
仲良くお皿を洗っていると、イルカ先生がお酒を飲もうと言い出した。
オレとしてはこの後どうイルカ先生をベッドに連れて行こうか考えていたところだったけど、その前にお酒を飲むのも悪くない。
ちょっと焦らされてるような気もして、それもまた楽しかった。
「この前買ったやつ?」
「はい。冷やしておいたんです」
準備して待っててくれたのかと思うと嬉しくなる。
「いいね。じゃあオレはこっち片付けるから、イルカ先生用意してくれる?」
「はい」と頷いたイルカ先生が食器棚を開けた。
新参者の切子がもううちの子の顔して棚に並んでいるのがくすぐったい。
冷蔵庫から出した濁り酒をイルカ先生が銚子に移し変えて、盃と一緒に盆に並べた。
濡れた手を拭いて居間へ酒を運ぼうとするイルカ先生の背中を押して、そのまま明かりの消えた寝室へと移動した。
「ちょっ、カ、カカシさん?」
慌てるイルカ先生をおいてベランダ側のカーテンを大きく開いて窓を開けた。
空を見上げて目当てのものを確認すると指を差した。
「月見酒しよ?」
隣に来たイルカ先生が空を見上げる。
ここに旅館のような庭や縁側は無いけれど、空に浮かぶ月とイルカ先生が傍にいれば十分。
並んで床に腰掛けて、小さな盃を手に取るとイルカ先生が銚子を傾けた。
イルカ先生の盃にも酒を満たして二人一緒に口に運んだ。
冷たい酒が喉を滑り落ちる。
ほのかな甘味に酒精を吐くと、くいっと一気に飲み干したイルカ先生が盃を月に翳した。
月の黄色い光が切子の透明な部分から透けてキラキラと光った。
「きれい・・」
この時になってやっとイルカ先生がこれを欲しがったわけを知った。
イルカ先生は切子の精巧な細工に惹かれたんじゃない。
光を見ていたのだ。
ちょっと不思議に思ってた。
宝石も貴金属にも興味を示さないイルカ先生がその類のものを欲しがったから。
・・あの時言っていたのは本当に光のことだったんだ。
螺鈿もきっとそう。
貝の放つ虹色の光に惹かれたのだろう。
イルカ先生の純粋さに感動する。
だとしたら、オレはイルカ先生に光を買ってあげたことになる。
それは切子を買ってあげたことよりずっと誇らしかった。
やがて満足したように盃を降ろしたイルカ先生の肩を抱いて引き寄せる。
額に口吻け頬擦りすると、ことんとイルカ先生の頭が肩に乗った。
その重みが愛しくて、頭を抱きかかえたままイルカ先生の胸元にある盃に酒を注いだ。
とろりとした白い酒が青い器を満たす。
それはイルカ先生の手の中で、月の光を抱いて真珠のように光って見えた。