夢見る頃を過ぎても 8
身の内に残る熱にぽうっとしながら昼餉を食べているイルカの傍で、カカシは合巻を広げていた。カカシは食事を摂らない。腹が空かないのか聞くと、食べなくはないが、人間ほど毎日食べなくても大丈夫だと言う。
イルカが食事している時、カカシは傍で見ているか、絵草紙を読んでいるのが常だった。
合巻はミズキに持たされたものだった。珍しく春画でも黄表紙でも無かったから、どうした心境の変化だろうと思ったが、中身は一緒だった。
男女が仲睦まじく戯れ合う物語だった。挿し絵もそうだが言葉にしてある分内容は赤裸々で、クマノに見つかったら大変だと押し入れ深くに隠していたが、カカシが見つけてしまった。
合巻を開いているのを見たときは泡を食ったが、カカシは気に入ったようで、夢中になって読んでいた。
「イルカ、この本面白いよ。続きが読みたい」
「えっ!」
カカシが期待の目で見ていた。
「そ」
「そ?」
「それは無理です」
「え、どうして?」
本を手に入れるにはミズキに頼まなければならない。恥ずかしかった。
それにただでさえ興味を持たせようとこの手の本を見せてくるのに、続きが読みたいなどと言ったらどんな反応を返されるか。
「ま…まだ、発行されていないからです」
苦し紛れに嘘を吐いた。カカシは気付いていない。
「ふぅーん、そうなんだ。じゃあこの前のやつが読みたい」
「えっ!」
(途中だったのか!)
読んでいないイルカは気付いていなかった。一体ミズキはどう言うつもりでこの本を渡したのか。
ほとほと弱り果てたイルカだったが、強請るカカシに最後には合巻を手に入れる約束をしてしまった。
(困った…)
店に戻りながら頭を抱えた。何と言ってミズキに頼めば良いのか。素直に欲しいと言えば、からかわれるに決まってる。
奥手なイルカはその手の話題が苦手だった。卑猥なことを言われると顔が赤らんでしまう。鼻血だって噴いたばかりだ。
(そりゃあ、何も知らない訳じゃないけど…)
他人の体の温もりを知っている。絵草紙よりいやらしい行為もした。
でもそれとこれとは別だ。
(私が読むんじゃないのに…!)
いっそ約束など無かったことにしたかった。
だが、カカシの期待に応えたい。カカシの喜ぶ顔が見たかった。
結局イルカは覚悟を決めてミズキを探した。しかし普段は手代の仕事をしているミズキは番頭と外に出ていなかった。
接客しながらも、いつミズキが帰るかとソワソワした。
出来れば二人きりになった時に頼みたい。仕入れの話をする時が良い。主に仕入れは大旦那であるじい様と番頭がしていたが、イルカが任された分もあった。
(そうだ。黒糖を多めに仕入れて欲しいと言おう。そのついでに…)
そうと決まると、イルカはせっせと黒糖を売った。多めと言っても怪しまれないように。
そうしている内にミズキが番頭と一緒に暖簾を潜った。
「おかえり、二人とも」
「ただいま帰りました」
草履を脱いで店に上がるミズキの後に続いた。
「ミズキ、あの…」
「ミズキ、帳簿を書くからさっきの…」
ミズキを呼ぶイルカと番頭の声が重なった。
「若旦那、どうかなさいましたか?」
足を止めたミズキと一緒に番頭も足を止めた。振り返った二人のこの場で話せといった雰囲気に、イルカは口篭もった。
「いや、あの…、砂糖の仕入れをね、して欲しいんだが…」
「いいですよ。若旦那」
「いや、忙しいなら後で良いんだ…」
「ちょうど良い。今月は注文が多くて、追加で仕入れないといけないと思っていたところです」
「えっ、そうなのかい?」
「ええ。ミズキ、若旦那の分も一緒に聞いて差し上げなさい」
「はい」
それでは困ると汗を掻いたが、促されるままミズキに仕入れを伝えてしまった。
(困った! 困った…!)
頼みのついでを無くしてほとほと弱り果てた。元々根が素直なイルカは謀が苦手だ。他に良い案なんて思い浮かばなかった。
ミズキが姿を見せる度に、物言いたげに口を開きかけたが言葉は出てこなかった。
(どうしよう…)
カカシの喜ぶ顔が遠退いていく。
やがて日が暮れて暖簾を下ろした。
(言えなかった…)
また明日言えば良いが、明日もこんな気持ちを抱えるのかと思うと気が沈んだ。それに明日言えるとは限らない。
とぼとぼと自室に向かう足が重かった。
「若旦那」
その時、背後から声を掛けられた。ミズキの声だった。
「ミズキ!」
喜色を浮かべて振り向くと、笑みを浮かべたミズキが立っていた。
「何かお話しがあるんじゃないですか?」
「そうなんだよ! 実はね、」
そこで言葉を切ったイルカにミズキが首を傾げた。
「若旦那? どうしたんです?」
「いや、その…」
うっかり合巻を欲しいと言ってしまうところだった。言わなければ伝わらないのだが、薄紙に包んで伝えたかった。
「この前のあれ…」
「あれ…?」
伝わらないもどかしさにイルカがもごもごしていると、くすりと笑ったミズキが奥へ誘った。廊下の角を曲がって人の目から隠れる。
「あれってあれだろ。『戯れの楽園』」
「そう、それ!」
伝わった事にホッとするが、込み上げる笑いを堪えるミズキにからかわれたのを知った。かぁっと顔が赤くなり、文句の一つも言いたくなるが、ここは早く話を済ませた方が得策だと考えて堪えた。
「あの合巻の前後を取り寄せて欲しいんだ」
口を尖らせて言ったイルカを、ニヤニヤとミズキが見た。
「面白かっただろ? ようやくイルカもあの面白さが理解出来る様になったか」
しみじみと、兄の口調で言われて頬が焼けた。
「違うよ! 私が読むんじゃない!」
思わず言ってしまったが、ミズキは取り合わなかった。
「はいはい。前巻は持ってるから、後で持って行ってやるよ。次巻は今度地本問屋に行った時に買って来るから」
「…ありがとう」
イルカが礼を言うと肩に腕が回った。顔を寄せたミズキが耳元に囁いてくる。
「どうだ? 所帯を持つ前に行ってみるか?」
「どこに?」
「遊郭だよ、ゆ・う・か・く」
「ゆ、遊郭?」
名前だけなら子供でも知っている。女の人と夫婦の真似事をするところだ。
「行かないよ! 所帯なんて、まだ早いし…」
「早くはないだろ。それに男なら興味あるだろう?」
「うっ…」
興味ならある。他の人がどんな風に情交を交わすのか知りたかった。
イルカはカカシと情を交わす時されるばかりだった。カカシは何も求めない。イルカだけ吐精させて終わりにすることもある。今日だってそうだった。
(私のだけ舐めて…吐精させてくれた…)
思い返すとかぁっと顔が熱くなった。そんなイルカをミズキがニヤニヤしながら見ている。
ミズキは思いもしないだろう。イルカが他人の肌を知っているなどと。ほんの数日前まで何も知らなかったのに。人には言えないようないやらしい事をたくさんされた。
「と、と、とにかく、遊郭には行かないから。でも合巻は欲しい」
「分かったよ。夕餉の前に持って行ってやる」
「…ありがとう」
礼を言ってミズキと別れると、足早に奥座敷へ逃げた。
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