夢見る頃を過ぎても 4
叫んだイルカの声は遠い母屋まで届かなかった。白目を剥いて、縁側に倒れているイルカを見つけたのは、昼前にイルカを診察に来た松庵先生だった。
呼んでも目覚めないイルカに、上を下への大騒ぎとなった。昨日の今日だったというのもある。何か悪い病気に掛かったのではないかと、今度はじい様が寝込んでしまいそうな勢いで心配をした。
幸い松庵が名医であった為、イルカの体に異常はみられず、もう二、三日様子を見るように言い置いて帰って行くに留まった。
じい様などは籠を呼んで長崎まで連れて行きかねない勢いだったが、昼を過ぎて腹を空かせたイルカがぱちっと目を覚ましたのも幸いした。
具合を熱心に聞いてくるじい様に大丈夫だと云い、「お腹が空いた」と伝えれば、すぐに昼餉の用意がされた。出されたものをペロリと平らげたイルカに、じい様は胸を撫で下ろしたが、夜具の中で大人しくしておくことを、きつく言い渡すのを忘れていなかった。
じい様はイルカを心配しすぎる。幼い頃に怪我を負って儚く命を失いかけたせいもあるのだろう。その時の傷が今も鼻筋を横切る傷となって残っていた。
誰か傍に付けておこうと云われたが、それを断り、イルカは一人自室に佇んだ。頭の中では倒れる前に起こったことを考えていた。
誰も居なかったのに、いきなり人が現れた。
『そんなに触れたら、くすぐったーいよ』
あの声に聞き覚えがあった。夜中に見た、いやらしい夢の中で。銀色の髪をした男と同じ声だった。気絶する瞬間にも、目の端に銀色の髪が写った気がする。
(…幽霊?)
にしては、随分背中が重かった。生きている人間、一人分の重さだった。
怖いという気はしなかった。さっきはいきなりだったから気をやってしまったが、心の準備さえしておけば、もう一度会ってみたい気がした。
イルカは覚えていないが、男はイルカを知っているようだったから。一体どこで出会ったのか。夢の中では懐かしい気もしたが、イルカは男の顔を知らなかった。
とても愛しげにイルカの名前を呼んだのも気になった。未だかつて、あんな風に名を呼ばれたことはない。
思い出すと心臓がドキドキした。
キョロキョロと辺りを見渡して、紺色の巾着袋を探した。それは枕元に置いてあった。気絶した際に手から転がり落ちたと思ったが、誰かが拾ってくれたのだろう。皆、イルカがこれを大切にしているのを知っていたから。
手に取ると、いつも通り袋は軽い。ごくりと唾を飲み込むと、袋の口を開いた。逆さにして温石を取り出し、出てきた器を返す返す眺めた。これに触れている時にあの男は現れた。
もう一度擦ってみたい誘惑に駆られた。
(また、あの男は現れるだろうか?)
そう思ったのは、二度目に器を撫でた時にむずがるようにフルフルと器が震えたからだ。その後で、男はくすぐったいと云った。気のせいじゃない。だから、もう一度――。
その前にパカッと蓋を開けてみた。中は空で何も無い。もしかしたら、小さくなった男が入っているのではないかと思ったのだ。
(そんな訳ないか…)
小さい頃から幾度となく中を覗いてきたのだ。白い石が無くなって以来、何も入っていなかった。また入れてもいない。
気を取り直して器に指を触れさせると、ハッと後ろを振り返った。誰も居ない。襖もちゃんと閉じている。
(よし、じゃあ擦ってみよ)
決心して前を向くと、むにっと唇が塞がった。いつの間にか、目の前いっぱいにあの男があった。あまつさえ、目蓋を閉じた男はイルカに口吻けていた。
「う、ん〜っ!」
驚いたイルカは両手をバタバタさせた。後ろに引いて逃げようとしたが、男が膝の上に乗って動けない。ならば、後ろに転がろうとしたが、男がイルカの両頬をがっしり掴んで離さなかった。
「んんん〜! んあっ…」
なにをするのか、と問うために開きかけた唇の間をぬって、男の舌がイルカの口の中に這入り込んだ。ぬめっとする感触に戦いて、歯を強く閉じそうになるが、男の舌を挟んで留まった。
人の舌を噛み切るのは怖い。思わず顎の力を抜いたイルカの口内を、男は思う存分貪った。夢の中と同じように。口蓋を舐められると、ビリビリッと痺れが走った。
「あぁっ…」
イルカが甘い声を上げると、男は勢いづいてイルカの体に触れた。着物の裾を割って太股を撫でる手を、咄嗟に掴んで止めると、唇を離した男が何故と切なくイルカを見つめた。
(どうして俺をそんな風に見るんだ…?)
考えるイルカの手の中から男の手が逃げて太股を這い上がった。いつのまにか夜具の上に寝転がっていた。
「イルカ、したい。しよ?」
(しゃべった!)
無遠慮に褌の上から股間を撫でさすられて、我に返った。
「ど、どこ触って…っ!」
ぶんと振り上げた拳を男の頭の上に落とすと、ごちんと硬い音がした。
「ぎゃんっ!」
叫んだ男が頭を押さえて、悶絶しながら畳の上を転がった。
イルカの手も痛い。じんじんする拳を撫でると、男が恨みがましい目で見ていた。
「酷いよ、イルカ」
男はグスンと鼻を鳴らして、目に涙を浮かべた。
(やっぱり出た)
男が離れて改めて思った。
温石と関係あると思ったのは間違いじゃなかったようだ。
「あなたは誰なんですか? 一体どうやってこの部屋に入ったのですか? どうしていやらしい事するんです?」
人なんですか?
そこまで聞きたかったが、答えを聞くのが怖くなった。違うと言われたら、どうすれば良いのだろう。
イルカが尋ねると、男は殴られた頭を押さえながらパチパチと瞬いた。
「オレのこと覚えてないの? オレはカカシだーよ。思い出した?」
「え?」
男――カカシは知っていて当然の顔でイルカを見ていた。
だがイルカは知らない。懐かしいと思った感覚でさえ、こうして男を目の前にすると勘違いの気がした。これだけ目立つ顔をしているのだから会えば記憶に残りそうだが、まったく残っていない。
それに初めて聞く名だ。
イルカが考え込むと、カカシは起き上がって膝でにじり寄って来た。良く見て思い出せとばかりに顔を近づけ、小首を傾げてイルカの顔を覗き込む。
(近い。近すぎる)
カカシが近寄った分イルカが下がると、さらに寄ってきた。また下がると背中に障子が当たって行き止まりになった。逃げ場を失ったイルカは、顔を背けて畳を見た。
思い出せない。
「イルカ…?」
呼ばれて視線を戻せば、カカシの口角が下がっていた。
「イルカはオレのこと忘れちゃったの?」
「…いえ、忘れたと言うより、会ったことが無いと思うんですけど…」
消え入りそうな声で言った。だから教えて欲しい。聞きたい事がたくさんあった。
なのにカカシはイルカの膝の間に膝を進めた。
「わぁっ!」
「そんなこと言うなんて酷い! オレはずっとイルカの傍に居たのに。ずっとイルカの事が好きだったのに。やっとまた会えたのに」
(ずっと…?)
カカシの言葉は変だった。会ったばかりじゃないか。
反論しようとすると、カカシの腕が背中に回った。引き寄せられると自然と腰が上がって膝の上に乗った。体が密着して体温が伝わってくると、夢の中でしたいやらしい行為を思い出した。
「ちょわ…っ、ま、待って下さいっ」
「やだ。待てない」
(またあの行為をするつもりだろうか?)
今度は現実で。あの夢だってなんだったのだ。どうしてあんな夢を見せたのか。
聞きたいが、それより早くカカシの手が尻を揉んだ。
「どこ触って…っ…あ…」
首筋に触れたカカシの息が驚くほど熱い。薄い皮膚を唇で食まれて、びくりとした。かあっと体が熱くなる。そんなつもりは無いのに、手が太股を撫で上げると腰が痺れた。
体が夢の快楽を覚えていた。また同じ事をされるのだろうか? まだ男の事を何も知らないのに。
「や、やだっ! 止めてください! だ、誰かっ、誰かーっ!」
イルカが声を上げると、カカシがくすりと笑った。
「人を呼ぶの? 声なんて届かないのに」
笑う口許が目に焼き付いた。茫然と見てる間にカカシがイルカの肩を畳に押し付けた。ざらりと畳の擦れる音に心臓がバクバクした。
「イルカ…」
見下ろすカカシの顔が近づいて来る。
いやだった。口吻けなんてしたくない。
「止めてください! あなたなんて嫌いです!」
叫ぶとカカシの動きが止まった。驚愕のまなざしでイルカを見ていた。
イルカを押さえ込んでいた腕から力が抜けた。カカシの体が軽くなっていく。影が薄くなって、向こうの景色が透けて見えた。
「えっ、ちょっと…」
捕まえようと手を伸ばすが、ふっと霧の様に消えた。部屋に残されたのは転がされたイルカただ独り。
「いなくなった…?」
体を起こして辺りを見回す。
「…どこいったんですか?」
声を掛けても、カカシは姿を現さなかった。
まだ何も聞いていない。
(勝手に消えるなんて狡いじゃないか…)
怒ろうとしたが胸の奥がずきずきした。消える瞬間、カカシは傷付いた目でイルカを見ていた。
嫌いは言いすぎだったか。
(強引なことするからじゃないか…)
カカシを責めてみても心は晴れなかった。
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