夢見る頃を過ぎても 3




 ふわっと雲を掴み損ねるような感覚に、ビクッと体が跳ねて目が覚めた。はっと目を開けると部屋の中はすっかり明るく、障子に朝日が当たっていた。両腕に何かを抱き締めていた感覚が残っていた。
 昨夜のことを思い出して、ばっと飛び起きると夜着を捲った。ちゃんと下着を着ていた。裾を割ると、ちゃんと褌も締めている。濡れた痕跡も無い。
「はぁ〜っ」
 盛大な溜め息を吐いて、イルカは着物の裾を直した。とんでもない夢を見てしまった。この上なくいやらしい夢を。
 絶対に人には話せない内容だった。
(男と同衾するなんて…っ)
 ぎゅぅぅと目を閉じて、記憶を追い払おうとした。すると暗闇の中で、秀麗な男の顔が浮かび上がる。
(あんな…あんな恰好っ!)
 男に両足を持ち上げられて良いようにされた事を思いだして、かかぁーと頬が染まる。経験も無いのに、よくもあんな夢が見れたものだ。
(きっと、あんなものを見たせいだ…)
 乳兄弟のミズキが面白いものがあると、春画を見せてくれた。初めて目にする男女の交わりに、大量の鼻血を出してしまい、心配した祖父に医者を呼ばれたのは、つい昨日のことだ。
 まさか鼻血が春画を見たせいだと言い出せず、原因不明の出血に、一日寝床に縫い付けられた。おそらく仕事もせずに有り余った体力が、あんな夢を見せたのだろうと、イルカは結論付けた。
 だって、そうでないとおかしい。目が覚めた時、何も見えないほど真っ暗闇だったのだ。男の顔や姿が見える筈が無かった。
 それに起きた時だって着物も乱れていなかったし、褌も締めていた。夜着だってちゃんと被っていたし、大体夜中に外から来たものが、誰にも会わずにイルカの部屋まで来れる筈無かった。
 ハッとして、袂に手を入れると、守り代わりの温石もあった。
「ふむ」
 おかしい理由を並べ立てて、イルカは納得した。
(昨日の事は有り得ない)
 それより夢精してなかった事にホッとして布団から抜け出すと、イルカは着物に袖を通した。
 褌を汚すと洗濯に出す時大変なのだ。洗濯をしてくれるのは、イルカより年下のフキだった。濡れた褌を出すのは恥ずかしい。
 初めて夢精してしまった時は、どうにも出来ずに池に飛び込んだ。真冬でかなり辛い思いをしたので、以来夢精しないように気を付けている。
 帯を締め、支度を調えると部屋を出た。昨日はお粥しか食べさせて貰えなかったので腹が減っていた。
 長い廊下を歩いて母屋に向かう。途中、イルカを見かけた奉公人達が挨拶をしてきた。イルカの家は代々砂糖を扱う大店だった。店は繁盛して奉公人が多く、朝五ツ(八時)を回って店は動き出していた。こんな時間まで寝ていた事が恥ずかしくなる。
 足早に廊下を抜けると、店の隣にある小部屋に声を掛けて入った。
「じい様、おはようございます。今朝は遅くまで寝てしまい、申し訳ありませんでした」
 挨拶をしている途中で、じい様の手から筆がぽろりと落ちた。
「こりゃ、イルカ。まだ寝ておらんか! 松庵先生が良いと言うまで起きてはならん!」
「いえ、昨日のことならもう…」
 大丈夫だと言い掛けたが、じい様は聞いてなかった。店にまで聞こえてしまいそうな大きな声で、イルカの世話係兼店の手代を呼んだ。
「ミズキ! ミズキはおらんか!」
「はい、大だんな様。いかがなされましたか」
 すっと襖を開いて入ってきたのは、イルカに春画を見せた張本人で乳兄弟であるミズキだった。イルカの私室へ春画を持って来た時とは打って変わって、すました顔で膝を突いている。
「お主がちゃんと付いておらんから、イルカが起きて来てしまったではないか」
「いや、だから…」
「誠に申し訳ございません。すぐに部屋へお連れします。さ、若だんな」
 行きましょう、と促されて、反論する暇もないまま部屋を追い出された。昨日休んだ分、今日は働くつもりだったのに、また寝床へ逆戻りだ。
 母屋から離れて奥座敷へ入ると、先を歩くミズキの肩が小刻みに震えだした。昨日の騒ぎの原因は、半分はミズキのせいだと言うのに呑気なものだ。
「笑うなっ!」
 イルカが小声で諫めると、堪えきれなくなったミズキが笑い出した。
「あははっ…ごめ…っ、だって、あんなになるなんて思わないじゃないか」
 あんな、とはイルカの鼻血のことだ。初めて春画を目にしたイルカは、鼻血を出しながらひっくり返ってしまった。
 咄嗟に避けたミズキは無事だったが、鼻血は弧を描いて辺りに飛び散り、襖や畳を汚した。
 生きてきた二十年間の中で、あんなに鼻血を出した事はない。日頃からイルカを可愛がってくれたじい様が心配するのも無理なかった。
(まったく、どこであんなものを手に入れたんだ)
 くつくつ背を振るわせ、笑いを収めようとしないミズキに腹が立ってくる。口を尖らせてむっつり黙り込むと、静かになったイルカにミズキが振り返った。
「…ごめん、そう怒るなよ。そろそろお前も知っておいた方がいいと思ったんだよ。でないと、いざって時困るだろ?」
「い、いざ…なんて、まだ来ないからいいんだよ。そういうのは、ちゃんと夫婦になってからで…」
「それじゃあ、遅いんだよ。初枕で恥を掻きたくないだろ?」
「な、なんで、初枕の心配なんか…っ」
 まったく朝からなんて話をしてるのだ。かあっと顔を赤く火照らせると、ミズキが「おっと」と言った。
「これ以上言うと、イルカがまた鼻血出すな」
「出さないよ!」
 ぷりぷり怒って言い返すと、「こらっ!」と叱る声が追い掛けて来た。
「ミズキ! ぼっちゃんになんて口の利き方だい! もう子供じゃないんだから、いい加減におし!」
「うげっ、かあちゃん…」
 さっきまで笑っていたミズキの顔が引き攣った。振り返ると、ミズキの母親であり、イルカの乳母であるクマノが目をつり上げて怒っていた。手にはイルカのものと思われる膳を持っていた。
「やば、オレ行くわ」
 ミズキはイルカが病気でない事を知っている。こそっとイルカに耳打ちすると、袖から出した草紙を押し付けて走り去った。見ると、昨日の春画だ。慌てて懐に隠すと、逃げ去るミズキの背中に小言を言いながらイルカの傍までやってきた。
「ぼっちゃん、申し訳ございません。いつまで経っても子供のままで…。後できつく言って聞かせますから」
「ううん、いいよ。ミズキは私の兄やみたいなものだし」
 ずっと幼い頃から一緒に育ってきた。今では主人と使用人と立場が違ってしまったが、気持ちの中では兄のように思っていた。それにミズキは他の誰かがいる前では、イルカを主人として立ててくれる。それで充分だった。
 朝餉の支度を寝間に使っている部屋に用意するとクマノも自分の仕事があるらしく、すぐに下がった。
 一人で食べる朝餉は味気ない。ぽりぽりとたくあんを噛みながら、松庵先生が早く来てくれる事を願った。


 朝餉が終わると、イルカは縁側に座って松庵先生が来るのを待った。そこはぽかぽかとお日様が当たって温かい。ぶらぶらと足を遊ばせながら、袂に手を入れて紺色の巾着袋を出した。
 袋を開けて引っ繰り返すと、手の平に銀色の塊が転がり出てきた。以前はこれを温石として使っていた。
 通常温石は、火鉢で温めた石を直接布でくるんで持ち歩くのだが、イルカの持っている温石は趣向を凝らして、銀で出来た合わせ貝の形をした器の中に温石を入れて、それを布で包んでいた。
 イルカはこれを父から貰い、父はじい様、じい様はひいじい様と、代々受け継がれてきた。家宝とするほど高価な物で無く、体を温める温石は、子を思う親の気持ちとして渡された。
 実際イルカがこれを譲り受けたのは、まだ年端も行かぬ子供の頃だった。体の弱かったイルカに、父が袂に入れて持たせたのだ。
 初めて温石が腹を温めた時の感動を忘れていない。じわりと移る熱に体の芯から温かくなる気がした。
 また、父の物を貰ったのが嬉しかった。いつも忙しかった父だが、温石を温める時だけは傍にいてくれた。幼いイルカがヤケドをしないように、父が石を温めてくれたからだ。その間、イルカは思う存分父に甘える事が出来た。
 今となっては良い想い出だ。
 父はその後、商用で出掛けた里で天災に遭って帰らぬ人となった。母も同行していた。一度に二親を亡くしたイルカは、じい様に育てられた。温石は父の形見となった。
 懐から布を出すと、イルカは銀の器を磨いた。
 イルカが貰い受けた時、それは黒くくすんでいたが、手慰みに磨いてみると本来の色を覗かせた。僅かに見えた銀色に、イルカは布を貰うと夢中で磨いた。
 なかなか綺麗にはならなかったが、根気よく磨いているとくすみは消えて銀色に輝いた。それを見た大人達は驚いた顔をした後、イルカの根気強さを誉めてくれたが、単にイルカはいつまでも同じ事をしていられる質なだけだった。
 今もまた器を磨く。銀色に輝くそれは、もう磨く必要もないほどだったが、そうしていると気持ちが落ち着いた。
 一通り外側を磨くと中を開いた。そこには以前、白くつるつるした石が嵌っていたが今は無い。大事にしていたのに、子供の頃になくしてしまった。
 温石の役割は果たせないが、イルカは肩身離さず持ち歩いた。父の気持ちの篭もったそれはお守り代わりだった。
(松庵先生、まだかな…)
 ふと、顔を上げて母屋の方を見た。しかし誰も廊下を歩いては来ず、イルカは下を向くと器を手の中で弄んだ。角度を変えると光を返して、眩いほど輝く。
(綺麗だな…)
 指先でそうっと表面を撫ぜた。
 …ふふっ…ふふふっ…。
 すると、どこからか笑い声が聞こえて来た。
「…誰かいるのかい?」
 辺りを見回すが、誰も居ない。
(ちょうど風が吹いていたから、枝の擦れる音を聞き間違えたのかな…?)
 気を取り直して器に目をやった。そろっと器を撫でる。
「そんなに触れたら、くすぐったーいよ」
 いきなり肩から白い腕が生えて、イルカの首に巻き付いた。のしっと背中に人の重みがのし掛かり、髪が頬に触れた。
 振り返る勇気は無かった。
「ひぎゃあぁぁぁぁぁっ」
 心臓を凍らせたイルカは叫び声を上げて気を失った。


text top
top