夢見る頃を過ぎても 26
宿は朝食の支度で忙しそうだった。船頭がうどんを啜っていた。その中にミズキがいないのを確かめて、店の人に聞いた。
「ここに金色の髪をした男の人と連れの女の人が泊まっていませんか?」
「…なんだい? アンタ」
うろんな目でジロジロ見られて、イルカは焦って財布を出した。
「私は弟で…兄さんを捜してるんです」
一朱銀を出しながら聞くと、さっと笑顔になった。
「上がって左三つめの部屋に居るよ」
(上手くいって良かった…)
前にじい様が道を尋ねた時にそうしていたのを思い出して真似てみただけだ。宿屋の急な階段を上りながら冷や汗を拭いた。
(一、二、三…)
と部屋を数えて左側の扉の前に立った。本当にここにいるのか。
「ミズキ…、ミズキ?」
呼び掛けて暫く待つと引き戸が開いた。
「イルカ?」
驚いた顔でミズキが見ている。
「お前どうやってここに…」
「そんなことより店に戻っておくれ。大変な事になってるんだ」
「…だろうな」
そんな事は予想済みだとばかりにミズキは言った。
「ミズキ?」
部屋の中から女の人の声が聞こえて、イルカがはっとすると、ミズキが場所を空けた。
「まあ、入れよ」
「う、うん…」
恐る恐る部屋に足を踏み入れると、そこに綺麗な女の人がいた。
「玉屋の娘さん…ですか?」
「…はい」
鈴の転がるような声とはこういうのを言うんだろうか。そんな事を考えているとミズキが背中を押した。
共に座り、挨拶を済ませた。
「玉屋の娘、小紅と申します」
小紅と名乗ったその人を、イルカはもっと勝ち気な人なのかと思っていたが、そうではなかった。大人しげな風貌で、真っすぐイルカを見つめる瞳に芯の強さを感じた。
「好いた男と逃げた私をはしたない女とお思いでしょうね」
哀しげに目を伏せられて、よく考える前に「いいえ」と答えていた。
「自分でも分かっているのです。でも父の決めた縁談を、お受けしたくありません…」
その気持ちは本当に良く分かった。イルカもそうだ。
「はぁっ」と溜め息を吐いたのはミズキだった。
「イルカ、お前からも言ってやってくれ。親の決めた縁談は絶対だって。お前なら分かるよな」
イルカは吃驚してミズキを見た。ミズキはこの人が好きで一緒に駆け落ちしたのではないのか。
「ミズキ、ミズキはこの人が好きじゃないのかい?」
「好きとかどうとか、そんなの関係無いだろ。よく考えろよ。手代のオレにこの人は嫁に貰えない。婿養子にもアナタの父親は認めないだろう。駆け落ちしたって、どうやってこの人を食わせていけば良いんだ? 着物一枚だって買ってやれないだろう。木の葉屋を出てオレはどうやって働けば良いんだ? それにもう…、木の葉屋にもオレの居場所はないだろう…。この先どうやっていけば…」
頭を抱えたミズキに、黙って聞いていた小紅の体が震えだした。目から大粒の涙が零れ落ちる。
「…ごめんなさい」
身を搾るように言葉を吐いた。
この人だって、そんな事は誰にも言われないでも分かっているのだ。ここにいる皆そうだ。思い通りにならない恋の道に迷っていた。辿り着く先の見えない道を闇雲に歩いている。
(それじゃあ駄目だ)
イルカは強く思った。
「小紅さん、貴女の気持ちは良く分かります。私も同じですから。でもこうして逃げていても始まりません。一旦家に戻って、もう一度良く話し合いましょう。私も傍にいますから。…それに、戻らないとあなたのお父さんがミズキを拐かしだと番所に訴え出ると言ってるんです」
はっと目を見開いた小紅がこくんと頷いた。その目からはらはらと涙が零れ落ちる。これでもう終わりだと思っているのだろう。
(そうはさせない)
誰だって幸せになる権利があるはずだ。そうなるように生きて何が悪い。
来た道を三人で戻りながら、イルカは時々振り返って小紅がついてきているのを確かめた。きっと帰りたくなくて歩くのが遅くなるのだろう。
「…ミズキ、ごめん」
「え、どうして?」
「さっき…」
ミズキだって、小紅に向かってあんな事を言いたくなかった筈だ。それでも言わなくてはならなかった。どんな気持ちで言ったのか。でも、それは言葉にする必要なかった。
「私はミズキの事を何も知らなかった。ミズキはあんなに相談に乗ってくれたのに…」
「なんだ、そんなことか。気にするな」
代わりに別の事を謝ると、ぽんとイルカの肩を叩いて笑った。ミズキは強い。イルカだったら平気な顔をしてあんな事は言えなかっただろう。
(…カカシさんは……)
カカシもそうだろうか?
イルカは人の心に疎くなっていた自分を恥じた。
家に戻るとこっぴどく怒られかけたが、後にミズキと小紅がいるのを見てじい様は口を閉ざした。三人は奥の部屋に閉じ込められ、すぐに玉屋に使いが出された。
「この馬鹿もんが!」
入ってきたじい様に大喝され、三人は震え上がった。
「大だんな様、誠に申し訳ございませんでした」
低頭するミズキの隣で小紅も手を突いて謝っていた。怒ったじい様は怖かった。しかしイルカは、でも、と思った。
「でも、じい様――」
「イルカは黙っていなさい!」
そんな風にじい様に叱られた事が無くて、イルカは息を飲んだ。パクパクと口を開いて何も言えなくなる。黙ったイルカの前で、じい様はミズキに懇々と奉公人の心得を説いた。
それを黙ってミズキも小紅も聞いていると、ドタドタと足音が響いた。スパン!と前触れもなく障子が開いて、玉屋が入ってきて小紅の胸元を掴んだ。
「あっ!」
殴られる、そう思い動こうとしたが、先にミズキが小紅の前に飛び出した。玉屋が振り下ろした手はミズキの頬を叩き、パンッと高い音が鳴った。
「邪魔するな!」
「止めてください!」
怒りの矛先をミズキに向けた玉屋が尚もミズキを殴ろうとしたが、それを小紅が庇った。
「小紅! 親に恥を掻かせてどう言うつもりだ! ど、どれほど心配したと…」
「ごめんなさい、お父さん」
ミズキを庇いながら父を見上げる娘の姿に、玉屋の体から力が抜けた。振り上げていた手を下ろして項垂れる。
「…帰ろう。今ならまだ間に合うから」
父の言葉に小紅は首を横に振った。
「困らせないでおくれ。どうしても伊勢屋さんとの縁談は必要なんだ。店の状況が良くないのはお前も知っているだろう。これまで玉屋で働いてくれた皆を路頭に迷わせる訳にはいかないんだ」
小紅の目に涙が溜まっていく。誰も声を発せなかった。
そこにじい様が「ふうーっ」と大きな溜め息を吐いた。
「認めてやったらいかがですか。ミズキはここに居る孫の乳兄弟です。頭が良いし、商才もある。持参金はうちが付けましょう」
「…本当ですか?」
しばらく考えた玉屋がそれならと頷いた。イルカ達三人が茫然としている魔に縁談が纏まっていく。
結納の日取りはまた後日となり、玉屋は小紅を連れて帰って行った。
← →