夢見る頃を過ぎても 27
玉屋を見送ったじい様を待っていたのは、土下座したミズキとイルカだった。
「何の真似だ?」
「このご恩は一生忘れません」
「もうよい、それよりあまり母親に心配を掛けるでない。部屋で休んでいる。早く行ってやりなさい」
「はい」
立ち上がったミズキと一緒に立ち掛けたが、じい様に「イルカは残りなさい」と言われて、正座し直した。ミズキが目配せして部屋から出て行く。その腰に揺れる物があった。白猫の根付けだった。
(いつの間に…)
もしかしたら、あの根付けも妖だったのだろうか?
二人きりになった部屋に重苦しい空気が流れた。
「イルカ。何も言わずに屋敷を出て、皆が心配すると思わなんだか? ミズキを心配する気持ちは分かる。じゃがお前は木の葉屋の跡取りじゃ。もっと自覚を持って行動して貰わんと困る」
今だ、と思った。話すなら今しかない。イルカは腹を括った。
「そのことですが、大だんな様。私は…誰も娶るつもりはありません。私には好いた人がいます。ですがその人は私の元に嫁いではくれません。嫁いでくれたとしても、子供は産めません。それでも私はその人が好きです。私は跡取りを残すことが出来ないでしょう。私は跡取りに相応しくありません。どうぞ他の者を指名してやってください。ここまで育てて頂いたのに、ご恩をお返しすることが出来ず申し訳ございません」
言いながら、イルカは泣き出しそうになったが必死で堪えた。頭を下げて許しを請うが、許して貰えると思っていない。ただそうせずにはいられないから頭を下げた。
長い間、両親の代わりに育てて貰ったのに、こんな酷い言葉しか返せないのが悔しい。でも気持ちを曲げることは出来なかった。
どれくらいそうしていただろう。またじい様の溜め息が聞こえた。
「顔をあげなさい」
無言で首を横に振った。
「儂はこの店を孫のお前以外に譲る気はない」
「でも…!」
はっと顔を上げたイルカの前に、弱り切った笑顔を浮かべたじい様がいた。
「恩を口にするなら、まずこの店を継ぎなさい。それで儂の代は終わりじゃ。その上でこの店をどうするかは、お前が考えなさい。これ以上儂に苦労をかけるでないわい」
そう言われてハッとした。イルカがしようとしたのは、じい様に責任を押し付けて逃げる事に他ならなかった。
「ですが…、私が継げば跡取りは出来ません…」
「結婚しても子供の出来ん夫婦はいっぱいおる。その時はその時で方法はいくらでもある。儂は店を譲ろうとした娘に先立たれた。せめて孫のお前に店を譲って、じじいの夢を叶えさせておくれ」
胸がいっぱいになって言葉が出なかった。ぽた、ぽたと畳の上に涙が落ちた。じい様の大きな愛情に包まれて涙が溢れた。
「とは言え、まだまだ先のことじゃ。お主にはもっといっぱい修行を積んで貰わないかん。それには今日みたいなことでは困るぞ」
「……はい」
「しかし、よぉミズキを見つけてきた。よくやったな」
最後にじい様はイルカを誉めると、好々爺の顔で笑った。
部屋に戻るとカカシを呼んだ。
「カカシさん、カカシさん」
「おかーえり」
ふわりと出てきたカカシに直ぐさま飛び付いた。カカシに触れると緊張の糸が切れて、ぶわりと涙が出てきた。
怖かった。本当は何もかも上手く行かない気がして不安だった。今日の事はイルカには荷が勝ちすぎていた。
しゃくり上げると、カカシが頭に頬擦りした。
「イルカ、よく頑張ったね」
ああ、と思った。やっぱりカカシは傍にいてくれた。
「…でも、私は何も出来ませんでした。結局はじい様に助けられて…」
「そんなことないよ。イルカは頑張った。オレが保証する」
力強く言われて、わあわあ泣いた。自分にはまだまだ未熟な部分が多いが、これから補って行くしかなかった。
(カカシさんが傍にいてくれたら頑張れる)
イルカは背伸びしてカカシに口吻けた。すぐに離れたが、カカシが吃驚してイルカを見ていた。急に恥ずかしくなって頬が熱くなった。照れ臭くて、ゴシゴシと濡れた顔を拭った。
「…カカシさん、これから私は跡取りとなるためにいろいろ修行がありますが、いつも傍にいて下さいね」
「当たり前デショ? イルカがスキだもん。どんな時だって傍にいるよ」
止まりかけていた涙がまたぽろりと零れた。
好きだから傍にいる。ずっとそう言って欲しかった。
「はい…、えっ…えっく…」
「えぇ? 何故泣くの?」
再び泣きだしたイルカにカカシは慌てたが、「嬉しくて」と答えると何か考える顔をした。
ミズキと小紅の結婚式は、吉日を選んで早々に行われた。木の葉屋から出て行くミズキを皆で見送ったのは先週の事だ。
「ミズキ、元気にしてるかな」
イルカが呟くと、番頭は「大丈夫でしょう」と答えた。
「ミズキは優秀ですからね。今頃玉屋は掘り出し物を手にしたと喜んでいるでしょう。それより若だんな、こっちの帳簿の整理もお願いしますよ」
「はい」
手代一人抜けた穴は大きい。イルカはしばらく体験した事のない忙しさに見舞われていた。
「なるべく早く次の手代を見つけなければいけませんね」
番頭の言葉に頷くが、そうそう簡単には見つからないだろう。優秀な人間はどの店も手放さないし、そこまで人を育てるには大変な年月が掛かるのだ。
その時一人の男が暖簾を潜った。
「ごめんくださーい」
「はーい」
帳場格子から顔を覗かせたイルカはぎょっとした。そこにカカシに似た人が立っていた。いや、カカシそのものだ。
「カ、カカ…!」
「あっ! イルカさん、お久しぶりです。お元気でしたか?」
仰天するイルカの言葉を遮って、カカシが挨拶した。
「若だんなお知り合いで?」
かくかくと頷くのに必死だった。カカシの意図が掴めない。久しぶりもなにも、今朝まで一緒にいたじゃないか。それに人前に姿を現すなんて。
(どうして?)
と思っていると、カカシが話し出した。
「私は須原屋で手代をしておりました、カカシと申します。実は店が潰れまして…。以前、イルカさんと知り合いになった時に、困ったことがあれば尋ねてくるように言われていたので来てみました。何か仕事を頂けないでしょうか?」
いけしゃあしゃあと言うカカシに言葉が出ない。代わりに番頭がカカシと話した。
「…須原屋さん…、聞いたことありませんね」
「小さなお店でしたから」
「何を取り扱っていたんで?」
「団子です」
「お団子屋さん…」
番頭の目が細くなった。
正直なところ胡散臭い。銀髪のお団子屋なんて本当だろうか。役者だと言われた方がまだ頷ける。
と、その顔に書いてあった。
(はわわわ)
「カ、カカシさん! お店が潰れてしまったんですか? それは大変ですね。うちも人が辞めてしまって。丁度良いじゃないですか。ね? 番頭さん。ね?」
「…まずは大だんな様に会って頂きます。話はそれから――」
にわかに店の表が騒がしくなった。何事だろうと外を見るとヤクザ風の男達が向かいの店から出てきた。
「これからはこの一帯は兄貴が守ってやるからな。みかじめ料をちゃんと払えよ」
「うちは用心棒なんていりませんからこれっきりにしてください」
「うるせぇ!」
男が軒先にあった樽を蹴飛ばしてた。
「止めて下さい!」
止めようとする向かいの店の手代が殴られていた。
ただ事ではない様子に息を飲むと、別の男が木の葉屋に入ってきた。店内を見回す様子に緊迫した空気が流れる。
「木の葉屋か。懐かしいな…」
男の目がイルカに留まった。
「イルカじゃねぇか。久しぶりだな」
「え? 誰…?」
イルカはポカンとしたが、カカシには見覚えがあった。
(コイツ、オレを川に捨てたやつだ!)
「あなた、近江屋さんの…?」
番頭が記憶を手繰り寄せようとしている間に、男はイルカに近づいた。
「お前が川に落ちてから碌な事がねぇ。親父には勘当されるし、商売を初めても借金ばかりで。とうとうこんな所まで堕ちてきた。それもこれも全部お前のせいだ!」
「ぼっちゃん逃げてください!」
「あっ!」
番頭が叫んだ時にはイルカの胸ぐらは掴まれていた。男の手が振り上がる。誰もが殴られると思ったが、次の瞬間男の体は店の外まで蹴り出されていた。ゴキッと変な音が聞こえた気がした。ずさーっと地面を転がる男に砂煙が上がった。
「汚い手でイルカに触るな」
「兄貴! 大丈夫ですか? …この野郎!」
兄貴をやられた子分達が一斉にカカシに群がった。カカシはそれを片っ端から投げたが、
「あっ!」
イルカがまた掴まった。はっきり言ってイルカは鈍かった。暴力沙汰なんて縁が無い。ついでにあまり運動もして来なかった。
カカシに殴られ、キレた男は手に刃物を持っていた。
「ぼっちゃん!」
辺りにバッと血が飛び散った。振り下ろされた刃は止めに入ったカカシの左目を切り裂いた。ボタボタ流れる血がカカシの着物を染める。
「カカシさん!」
イルカは血の気を失ったが、カカシはニヤリと笑った。
「…コレで殺されても文句ないよね? 正当防衛だよね?」
「ひぃっ!」
顔を血で染めながら笑ったカカシの凄味に男達は腰を抜かし、気を失って転がる仲間を引き摺りながら逃げていった。
イルカがカカシの枕元でひぐひぐ泣いていた。男達が出て行った後、カカシは奥に運ばれ医者が呼ばれた。
医者はカカシの左目は潰され、もう二度と物を見られないと言った。
「…ごめんなさい…っ、カカシさん…、ごめんなさい…」
「もぉ、どうしてイルカが謝るの?」
「だって私のせいで…」
「違うデショ? これをやったのはヤクザでイルカじゃないでしょう」
「でも…!」
泣き止まないイルカに、カカシは体を起こして包帯を解いた。
「カカシさん、駄目です」
「良いから見て」
カカシが手の平で傷を覆う。手を離すと傷は塞がっていた。
「ね? 痛くない」
ぽかーんと見ていると、カカシが瞼を開いた。
「カカシさん…、目が赤くなってます」
「そう?戻らないのかな…」
もう一度手を当てると、今度は傷が無くなっていた。
「どう?」
「赤いです」
「そっか、まあいいや。でも傷が無くなってると怪しまれるから」
そう言ってカカシは傷を戻した。
「イルカとお揃い」
そう言って、イルカの鼻の傷と撫でた。
「…痛く無いですか」
「ウン」
そう言って笑うカカシにホッとした。
「良かった…。あの人誰だったんでしょう…。私を知ってるみたいでした」
「イルカって本当に何も覚えていないんだーね。オレはアイツを蹴れてすっきりしたよ。もっとボコボコにしたかったかも」
「カカシさん?」
笑うカカシに首を傾げると、子供の頃の話を聞かせてくれた。
その後カカシは療養中にじい様に会い、番頭の出した試験を合格して、晴れて木の葉屋の手代となった。
カカシは陰日向になってイルカを助けた。
朝も昼も夜も、何年経っても傍にいた。
温石はずっとイルカを温め続けた。
← end