夢見る頃を過ぎても 23




第三章



 カカシがいなくなってから数日が過ぎた。イルカが呼び掛けても、温石をさすっても出てきてくれない。
 以前、いつかそんな日が来るかもしれないと不安になったが、自分のせいで現実となってしまった。
「カカシさん…」
 銀色の器を開くと、中に滑らかな白い石があった。カカシが残していった石だった。何故かイルカの胸の中にあった。
 カカシが胸に手を入れた時はとても痛かったが、後で見てみると胸に傷はなかった。
 この石は幼い頃、手元にあった。
(子供の頃にカカシさんに会ったことあるのかな…)
 初めて会った時、カカシはイルカに覚えてないかと聞いた。そしてイルカも、どこか懐かしい気がした。
 カカシと話がしたかった。石の事を教えて欲しい。それにカカシに言った言葉を謝りたかった。
 邪魔だなんて思っていない。どうしてあんな酷い事を言ってしまったのか。悔やんでも悔やみきれない。
 カカシの傍にいたくて見合いを断ろうとしたのに。一番大切な人を遠ざけてしまった。
 最後に見たカカシの哀しげな顔を思い出して、イルカの胸はシクシク痛んだ。
 カカシがいなくなってから寂しくて堪らなかったが、温石が手元に残ったのは救いだった。
 カカシは前に言っていた。
 温石がイルカの持ち物だから傍にいてくれるのだと。これを持っている限り、カカシは傍にいてくれる。
 早く出てきて欲しかった。機嫌を直して欲しい。カカシの顔が見たかった。
「カカシさん」
 イルカはもう一度呼んでみたがカカシは来てくれなかった。懐に石をしまい、行灯の明かりを消して布団に入った。
 一番寂しさを感じるのは、夜布団に入った時だった。いつも一緒に寝てくれたから、一人で入る布団は広くて寒くて、いっそう孤独になった。
(カカシさん…)
 何度もカカシの事を考えた。そして見合いの事も。
 見合いの返事ははっきりさせないでいた。断るつもりだが、それを口にすれば説得されそうで言い出せなかった。
 悩んでいる内にうっすら夜が明けて、イルカはいつも寝不足気味だった。
 夜が白んで、ようやくうつらうつら出来た頃、母屋から近づいて来た足音が障子の前で止まった。
「若だんな、若だんな。起きて下さい」
 番頭の声だった。珍しいとイルカは思った。イルカの部屋に来るのは、じい様以外ではクマノかミズキぐらいだった。
「なにかあったのかい?」
 嫌な予感がして、イルカは着物を羽織ると障子を開けた。
「若だんな、この部屋にミズキは来ていませんか?」
「ミズキ?来ていないよ?」
 イルカが怪訝な顔をすると、番頭が説明をした。
「昨夜からミズキの姿が見当たらないのです。使いにも出していませんか?」
「うん…」
 と返事しながら、イルカはあっ!と思った。以前、ミズキに遊郭に誘われた。
「も、もう大人なんだし…もしかしたら…」
 急に赤くなってモジモジし始めたイルカに番頭は察しを付けたようだが、厳しい顔でゴホンと咳払いした。
「奉公人が黙って夜中に屋敷を抜け出すなんて、あってはならないことです。そうだとしたら、木の葉屋の手代失格です」
「待って。戻ったら私から話すから」
「…わかりました。よろしくお願いします」
 しかし、ミズキは店が開く頃になっても戻らなかった。こんな事は今までに一度もなかった事だ。
 皆を集めてミズキの行き先を聞くが、誰も知らないと言う。
 母親のクマノはじい様やイルカに必死に謝まった。胸の内は息子の身が心配で堪らないのだろ。顔が真っ青になっていた。
 泣きながら頭を下げるクマノを見ていられなくて、イルカはクマノの体を起こした。
「大丈夫だよ、クマノ。今から人を探しにやるから。番所の親分さんにも頼んでみよう」
「ぼっちゃん…、申し訳ございません…」
 イルカはクマノを奥で休ませ、番所へ人を走らせた。何人かに近所を見てくるように言ったが成果は無かった。
 店が開くとイルカは接客に回った。ミズキが気になるが、イルカが店に立たなければ、奉公人はそれだけ大事と受け止めるだろう。いつもと同じ光景を見せて、皆を落ち着かせたかった。
 しかし事態は一変した。
「ミズキと言う男はこの店の手代かっ?」
 中年の男が顔を真っ赤にさせて、店に怒鳴り込んで来た。
「そうですが、どうかしましたか?」
「お前の所の手代がうちの娘を攫って逃げたんだ!」
「えぇっ!」
 驚愕していると、中年男に襟元を掴まれた。
「ぐぇっ」
「娘を返せ!」
「うちのぼっちゃんに何するんですか!」
 ぼっちゃんなんて呼び方久しぶりだなと思っていると、普段は温厚な番頭が足袋のまま店先に降りてきた。イルカから引き離そうと男の腕を掴んで揉み合いになった。
「いい加減にせんか!」
 そこにじい様の大喝が落ちて、辺りはしんと静まりかえった。じい様の只ならぬ威厳に、皆畏怖していた。
「どちら様かの? 一体何事です」
「わ、私は本町で紅粉屋を営んでおります玉屋と申します。今朝起きたら娘の部屋に書き置きがあって、好いた男と家を出ると…」
 その場にいた者は大体の事情が把握できた。
(ミズキは駆け落ちしたんだ…)
「詳しくお伺いしましょう。イルカ、玉屋さんを奥に案内して差し上げなさい」
「はい」
 玉屋を部屋に案内している間に、ミズキの私物が確かめられた。戻って来た使用人は、ミズキの着替えが減っていると言う。
「蔵のお金も確認した方が良いんじゃ――」
「ミズキはそんな人間じゃない!」
 イルカは怒ったが念の為確認された。金に手を付けた形跡は無く、ミズキは私物だけ持って出て行った様だった。


 玉屋の待つ部屋へ向かうじい様の後にイルカも付いていった。部屋に入ると玉屋は、娘が残して行った手紙を見せてくれた。そこにはミズキとの馴れ初めが書いてあった。
 店回りをしていたミズキを見かけて一目惚れしたこと。
 たまたま入ったそば屋で席が隣になったこと。
 自分から話し掛け、次第に恋仲になったこと。
 ミズキは駆け落ちに反対したが、一人でも出て行くと言うと付いて来てくれることになったとあった。そして認めてくれるまで家に戻らないと締めくくられていた。
 玉屋の娘はなかなか気が強い様だ。
「どうしてこんな事に…」
 頭を抱える玉屋にじい様が言った。
「その縁談が嫌だから逃げたのでしょう」
「だからと言って縁談が娘の思い通りになる訳無いでしょう。ましてや手代になんて娘はやれません。伊勢屋さんの三男に婿養子に来て貰う予定だったんです。それなのになんてことをしてくれたんだ…。これは誘拐だ。番所に訴えてやる!」
「待ってください! 手紙にもあるように、二人は駆け落ちしたんじゃないですか。それを誘拐だなんて…」
 見方に寄れば、娘の家出にミズキがついていったと取れなくもない。
「うるさい! どれほど迷惑してると思ってるんだ」
 まったくこちらの話を聞こうとしない男に、イルカは娘の気持ちが分かった気がした。
(これじゃあ実力行使に出たくなるよ…)
 駆け落ちした二人のやり方に賛成出来ないが理解は出来た。
そして自分の身の上と置き換えて、返事を待ってくれるじい様を有り難く思った。
「まあ落ち着いて。まずは二人を探し出して、話を聞いてみましょう」
「なにを悠長な…。万一、心中でもしようとしたら…」
「それはないでしょう。認めれば帰ってくるとあるのですから。娘さんは玉屋さんがミズキとの婚姻を了承するのを待っているんですよ。今、店の者が手分けして探しております。娘さんを連れているなら、そう遠くへは行けないでしょう。時期に見つかりますよ」
「そうだといいのですが。…いいでしょう。一日待ちます。一日待って娘が見つからなければ、拐かしとして番所に訴え出ますからね」
 そう言い置いて玉屋は帰って行った。


 ミズキ探しにいっそう力が入ったが、なかなか見つからなかった。どっちの方面へ行ったかすら分からない。
 イルカは再度奉公人達に、最近の会話などで心当たりは無いか聞いて回ったが、皆首を横に振るばかりだ。逆にイルカも聞き返されたが、心当たりはなかった。
(私はなにもミズキのことを知らない…)
 自分は相談に乗って貰っていたのに、ミズキの話は聞いてなかった。
 落ち込むイルカの元へ女中がやって来て、クマノが倒れたと言った。駆け落ちの話が耳に入ったらしい。
「分かった。後で様子を見に行くよ」
 部屋に入るとクマノは憔悴しきって涙を零した。慰め、必ず見つけるからと約束して部屋を出た時には夜になっていた。
 その日、ミズキは見つからなかった。
 明日も見つからなければ、ミズキは誘拐犯として番所に届けられてしまう。玉屋の娘が一緒なら、証言からすぐに罪には問われないだろうが、お縄になったり、牢屋に入れられたりするミズキは見たくない。
(これからどうすれば…)
 考えながら部屋に戻る途中で、ミズキに叱られた廊下に差し掛かった。
 あの時ミズキはイルカが恵まれていると言った。一体どんな気持ちで言ったのだろう。
(少しは相談しようと思ってくれただろうか?)
 言ってくれなかった気がした。自分のことで手一杯なイルカに、相談したいとは思わないだろう。
 じい様も見合いに渋るイルカの相談をミズキにした。店の者はミズキを見つけられないイルカを頼りなく思っているだろう。
 ミズキも本当はイルカに愛想を尽かして出て行く決心をしたんじゃないだろうか。
 カカシがいなくなって、ミズキもいなくなった。みんな自分から離れて行く。
 苦しかった。
 自分が何の役にも立たない人間に思えてくる。足下からぼろぼろ体が崩れていく気がした。
 涙が込み上げてくるがぐっと堪えた。泣いても何も解決しない。それでも不安は何度も込み上げて、イルカを飲み込もうとした。
「…さん…」
 傍にいて欲しかった。何もしないで良い。相談にも乗ってくれなくて良い。
 ただ傍にいて欲しくて、イルカはカカシの名前を呼んだ。


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