夢見る頃を過ぎても 18
イルカは外で遊ばない子供だった。温石を磨く以外は、池の鯉に餌を上げ、部屋でおやつを食べていた。
イルカの親たちは忙しいようで、イルカにあまり構わなかった。
親がイルカを構うのは夕食と石を温める時だけだった。親は朝と晩、二回石を温めた。
その度に火鉢と顔を合わせる羽目になった。火鉢は踏みつけられたのを根に持っているのか、温石を見ると「勝負、勝負」と煩かったが、すでに勝敗は付いている。相手にしなかった。
やがて温石はどこにも曇ったところがないほど、ぴかぴかになった。もう磨く必要は無くなり、イルカは手の中で温石を転がして遊んだ。
「とうちゃん…かあちゃん…」
寂しげな声が聞こえた。
その声は鍛冶屋の隅に打ち捨てられていた時を思い出させた。温石がいてもたってもいられない気持ちになった時、イルカが顔を上げた。
「だぁれ?」
誰何は温石に向けられていた。温石はいつの間にか垣根の前に立っていた。気のせいか、イルカと目が合っている気がする。
(え…?)
妖は人に見えないのではないのか?
戸惑い、立ち尽くす温石にイルカは、
「カカシみたい!」
と声を掛けた。その瞬間、キーンと体の中から震えが来た。
(…カカシ)
それが自分の名前になった。
下駄を履いたイルカが庭に降りてきた。
「ねぇ、あそぼ」
イルカの手がカカシの手を掴んだ。小さな手は温かく、温石に触れていた手と少し違って感じた。
イルカの手は柔らかい。
「ぼく、イルカって言うんだよ。きみは…?」
(カカシ)
心の中で答えた。妖の声は人に届かない。でも、
「……カカシ」
唇の動きで伝わらないかと思ったら声が出た。するとイルカがバツの悪そうな顔をした。
「さっきはごめんなさい。怒ってるの?」
「違う。オレの名前、カカシ」
「本当にカカシって言うの?」
「ウン」
イルカが吃驚した目でカカシを見ていた。
「…ヘン?」
「ううん! かっこいい!」
ニカッと笑ったイルカがカカシの手を引いて歩き出した。
「カカシ、あっちに池があるんだよ。見せてあげるね」
「ウン」
イルカは庭の飛び石の上を跳ねて歩いた。池に着くと、イルカを見た鯉が水面に集まってきた。
「あのね、すごくおっきいのがいるんだよ。ほら!」
イルカが指差した先に、ぬっと水面を押し上げながら巨大な鯉が顔を出した。イルカに向かってパクパクと口を動かして餌を催促する。
「カカシ、待っててくれる? 絶対にどこにも行かないで。いい?」
「ウン」
返事すると、イルカは走って家に入った。
イルカが見えなくなってから、カカシは池に近づいた。己が、イルカにどう見えているのか知りたかった。
そうっと水面を覗くと、イルカと同じ年頃の子供がいた。温石の形じゃない。人間の顔と手足を持っていた。
ホッとして池から離れると、イルカが手に袋をもって戻って来た。カカシがそこにいるのを見て笑顔になった。
「手を出して」
「?」
何事だろうと思いながら手を出すと、丸く茶色の粒をたくさん手の平に載せられた。
「鯉の餌だよ」
イルカが手本を見せるようにばっと水面に撒くと、水面が隠れるほどたくさんの鯉が押し寄せてきた。
「カカシもやってみて」
言われるまま手の平にあったエサを撒いた。我先にと顔を出した鯉が一斉に口をパクパクさせる。これだけたくさんの鯉がいれば、餌が口に入ってくる確率は低そうだった。
イルカが袋に手を入れて餌を撒く。カカシの手にも載せるのも忘れなかった。
しばらくイルカと一緒に餌を撒いた。
イルカは笑っていた。お日様みたいにキラキラと。カカシを磨いて満足げに笑った時よりずっと楽しそうな笑顔だった。
カカシも嬉しくなった。イルカの傍にいるのは楽しい。
だが人の足音が近づいて来た。
「ぼっちゃん! おやつの時間ですよ。寒いですから部屋に戻って下さい」
この声を聞くまで、カカシはイルカが寒い思いをしていると気付かなかった。カカシは寒さを感じない。
「今行く! カカシも一緒に行こ? …あれ?」
振り返ったイルカの視線の先にカカシはいなかった。いくら子供の姿でも、屋敷の奥に他人がいれば不審に思うだろう。残念だがカカシは消えるしかなかった。
「クマノ、ここにいた男の子知らない?」
「いいえ。私が来た時にはイルカぼっちゃんしかいませんでしたよ?」
「…帰っちゃったのかな? また会えるかなぁ?」
「誰かいたんですか?」
「うん」
「そうですか。では今度その子が来たら、クマノにも紹介して下さいますか?」
「うん、いいよ」
イルカは無邪気に答えたが、クマノの目に不信感が宿っているのが見て取れた。
(もう会わない方が良い…)
カカシの正体がバレれば、また怨霊だ何だと言われて寺に運ばれるだろう。イルカと離れるのはイヤだ。
カカシはもうイルカの前に姿を現さないでおこうと決めた。
しかし、イルカの方からカカシを呼んだ。庭に向かってカカシの名を呼ぶ。
「カカシ、カカシ」
縁側の下を覗き込んだりもした。
「カカシ!」
(猫の子じゃないっつーの!)
「カカシ…」
イルカが懐の温石をぎゅうっと握った。目に涙が盛り上がる。ぐっと堪える顔が真っ赤に染まった。
イルカは泣きそうになったが何度も堪えた。恐らくずっと寂しさを我慢してきたのだろう。それがカカシと遊んだことで、我慢の蓋が緩んでしまった。堪えてきた寂しさが堰を切って溢れようとしていた。
「…イルカ」
声を掛けながら現れたことで、出現する瞬間を見られてしまった。ふわりと宙から舞い降りたカカシにイルカが目を丸くした。今にも溢れそうになっていた涙が引っ込んでいく。
「カカシ、今お空から出てきたよ?」
「こわい…?」
「ううん!」
イルカはカカシに向かってニカッと笑った。目も鼻も頬も真っ赤だったが、カカシの手を取ると庭に降りた。
「カカシ、金銀花って知ってる?」
「知らない」
「こっちだよ」
飛び石から逸れて、庭の奥へと進んだ。そこに緑色の蔦が生えていた。ぽつぽつと黒い実がなっている。
イルカが枝を拾って地面に絵を描き出した。上に四枚、下に一枚花びらがあるらしい。真ん中から花弁が飛び出していた。
「あのね、暖かくなるとこんな花が咲くの。ちゅって吸うと、とっても甘いんだよ」
「へぇ…。この実は食べられないの?」
「…種ばっかりだったよ」
イルカが苦虫をかみ潰したように顔を顰めた。いや、この場合は苦実だろうか。その表情に可笑しくなる。
カカシが笑うと、イルカも照れたように笑った。
「暖かくなったら咲くから、カカシにも食べさせたあげるね」
「ウン」
「約束!」
小指を突き出されて、じっと見た。なんの意味があるのだろう。動かないカカシにイルカの眉尻が下がって行く。
「いいよ。約束」
焦ってイルカの手を握った。だが、間違っていたようで、手を外されてしまった。
「カカシもこうして」
言われるまま小指を立てると、そこにイルカの小指が絡んだ。ぶんぶんと二回大きく振ると、「ゆびきりげんまんっ」と言って、手を離した。
「約束の合図なんだよ」
「そう…」
小指に何か絡まっている気がした。見えない何かは手を触っても消えなかった。きっとイルカとの約束を果たすまで消えない。
花を見るのが楽しみになった。甘い花の蜜を吸ってみたい。
「ねぇ、しゃぼん玉しよ?」
「しゃぼん玉って何?」
「あのね…」
その時人の足音が聞こえた。またイルカとお別れだ。それはイルカも気付いたらしく、しょぼんと下を向いた。
「…カカシ、また会える?」
「ウン。でもオレの事は内緒にして」
「どうして?」
「空から人が現れたら、みんな吃驚するから」
「そっか。わかった。だれにも言わない」
「秘密だよ」
「ひみつ?」
「そう。オレとイルカしか知らないんだよ」
「うんっ!」
二人だけの秘密がいたく気に入ったようで、イルカは笑顔で頷いた。
「ぼっちゃん? イルカぼっちゃん」
クマノのイルカを呼ぶ声がした。
「ぼく…、行くね」
「ウン。行って」
イルカは何度も振り返りながら屋敷に戻っていった。
「ぼっちゃん、また誰かいたんですか?」
「ううん。いないよ」
クマノは不審そうな顔をしていたが、その後イルカの口から男の子の話が出てくることは無く、一人遊びだったのだろうと忘れられていった。
温石を磨いてばかりいたイルカだが、本当は遊ぶ方が好きらしく、出会ってからはカカシを呼び出してばかりいた。
カカシは己が温石の妖だと明かさなかった。万一大人達に漏れて、捨てられてしまったら困る。カカシはイルカといたかった。イルカの傍は心地良いから。
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