夢見る頃を過ぎても 17
二
深く、深く眠り続けるソレの体を、揺さぶる者があった。
(…ウルサイ、やめろ)
ソレはもう目覚めたくなかった。ずっとこの暗闇で体を丸めていたい。
そう願っても、揺さぶり続ける手は止まらなかった。
次第に周囲に光が射して体が温かくなった。ふわふわと居心地の良い空間になっていく。
(…?)
不思議に思ったソレは瞼を開いた。
うっすらと人の輪郭が現れ、やがて子供の形になった。真っ黒な瞳がこっちを見ている。
(誰…?)
子供は必死な顔でこっちを見ていた。そしてソレの体を擦り続ける。
(ちょ…くすぐったいよ…)
声は届かず、ソレの体を子供の手がペタペタ触った。
ようやく手が止まったとき、子供は「ふんっ」と満足げな鼻息を吐いて言った。
「ぴかぴか」
(ぴかぴか?)
ソレは自分の体を見回した。所々黒くくすんでいたが、確かに銀色に輝いていた。
太陽の光に翳されると、ソレは白銀に輝いた。
(まぶし…)
ソレは目を細めた。あまりにも世界が眩しすぎて。
「イルカおいで。石を温めてあげよう」
「うんっ!」
大人に声を掛けられて、イルカと呼ばれた子供は元気良く返事した。
子供の手には大きすぎるソレを大事そうに捧げ持ち、大人の手に渡す。空いた手で大人の手を掴むと嬉しそうに笑った。
それは、以前とはあまりにもかけ離れた光景だった。
(…以前?)
目覚めたばかりのソレは何故か過去の記憶を持っていた。
ソレは戦場にいた。銀色の髪をした妖と共に。彼の闘う背中をいつも見ていた――。
(…っう)
胸に鋭い痛みが宿って、ソレは慌てて記憶を閉じた。
(あれはもう…ずっと昔の事だ。今はそう。温石になった…)
温石は己が過去の記憶を持ったまま存在しているのを不思議に思った。彼は確か、形が壊れれば妖は消えると言っていなかったか。
温石は火鉢の灰の上に置かれた。傍の炭から熱が伝わる。
イルカが火鉢の中を覗き込んでいた。
「顔を近づけすぎてはいけないよ。炭が爆ぜたら危ないからね」
「うん」
イルカは返事してから、男の膝に上がった。
「とうちゃん、なにかお話しして」
「そうだな…。スズメの話はしたかな?」
「ううん」
「そうか。じゃあ…、昔々あるところに――」
男は短い話を終えるとイルカを膝から下ろして、火箸を手に取った。石に空いた小さな穴に箸の先を通して、火鉢から石を取りだした。石は銀の器に移して蓋をされ、さらに綿の入った袋に入れてからイルカの手に乗った。
「あったかい」
イルカはそれを頬に当ててから懐に入れた。温石はイルカの腹を温めた。
「おい、おいっ」
家の者が寝静まった頃、どこからとも無く声が聞こえた。声のした方を向くと、そこに丸い顔をした男がいた。顔の大きさが肩幅よりずっと大きく、一目で妖と分かる容貌だった。
イルカには声が聞こえてないのか、眠ったままだった。
「…アンタ、誰?」
「俺は火鉢だ」
ああ、と思った。顔の色が火鉢と同じ青色だった。
「おまえ、蘇りだな」
「…蘇りってなに?」
「蘇りも知らんのか」
見合ったまま互いに黙り込むと、火鉢が咳払いした。すると、火鉢の頭の上から灰が飛び散った。
「とにかく、この家では俺の方が長く居るんだからな。新入りのおまえはでかい顔するな…、ふぶっ」
「蘇りってなに?」
温石はもう一度聞いた。火鉢の背中を踏みつけながら。倒すのは一瞬だった。内心、温石は己の力に驚いていた。
「ぐ、ぐるじ…っ。言う! 言うから踏むのは止めてくれ!」
ジタバタと手足を動かす火鉢に足を退けた。
「乱暴なやつだなっ」
体を起こした火鉢は乱れた着物を整えてから、威厳を保とうとするように胡座を掻いた。
「いいか? 蘇りってのはな、前の器から新しい器に生まれ変わった者を言うんだ。土や木から出来た物は無理だが、おまえのように金属から出来た物は人の手が加われば可能だ。溶けて何度でも姿を変える。おまえも前は別の物だっただろ?」
「…ああ」
そう言うことか。鐔であったが溶かされて温石にされた。消滅したと思われた魂は温石の中に残っていたのか。
今度は温石の器となる銀だけでなく、中の石にも魂が宿っていた。
納得したが、何の感慨も湧かなかった。生まれ変わった事の何の意味があったのだろう。
火鉢がまだ話していたが、温石は瞳を閉じて自分の世界に戻った。
ずっと目が覚めず、眠ったままでいられたら良かったのに。
温石は世界との関わりを絶ちたいと願ったが、関わりは向こうから強引にやって来た。
(ちょっと…っ、やめてよっ、くすぐったい…っ、ははっ…ああはははっ)
温石は毎日イルカに擽られた。
イルカにしてみれば、煤けた温石を磨いているにすぎないのだろうが、温石にとっては拷問だった。
止めろと言っても温石の声はイルカに届かず、イルカは温石を磨き続ける。小さな手でペタペタ触られ、布で擦り続けられて、終わった時には息が絶え絶えになった。
やっと終わったと思っても、はぁっと息を吹きかけられた後にまた磨かれたこともある。
イルカは驚くほど根気強かった。
(くふふっ…あはっ…は…っ…ぢぬ…)
ある日、堪りかねた温石は石の中から飛び出した。ふわりと体が宙に浮いたのだ。見下ろすと、イルカが一生懸命温石を磨いていた。
もうくすぐったくは無かった。
温石には手と足と体があった。人に似た姿をしているようだ。火鉢を思い出し、もしかして顔が温石なのかと思ったが、手で触れる限り違った。
髪は銀色だった。その色は誰かを彷彿させた。
どこまで遠くへ行けるのかやってみたが、さほど本体から離れられなかった。せいぜい家の中を自由に行き来できるぐらいだ。
温石は宙からイルカを眺めた。他にすることがなかったから。
イルカは満足するまで温石を磨くと、銀の器を光に翳して、眩しげに目を細めた。それから白い石も同じようにして満足すると、石を戻して温石を袋に詰めた。不器用な手付きで紐を結んで懐にしまう。
温石は冷えていたから、イルカの体温が伝わって来た。
温石はとても大切にされていた。
擽られるのは迷惑だけど、イルカの傍にいるのは悪くなかった。
← →