夢見る頃を過ぎても 12
(困ったな…)
店に戻っても考えるのは見合いのことだけだった。
聞いてくれただけでも有り難いのは分かっていた。
結婚は親同士が決めるのが常だ。会えば余程の事が無い限り断れない。
だが、会ってない今ならまだ断れる。イルカに甘いじい様の事だ。どうしても嫌だと言えば許してくれるだろう。
そう思いたかった。
「――若だんな。若だんな!」
「は、はいっ」
顔を上げると、番頭が困ったようにイルカを見ていた。
「墨が垂れています」
「えっ」
手元を見ると、帳面の上に大きな染みが出来ていた。
「あっ、すまない」
「お疲れでしたら、奥でお休み頂いてよろしいですよ。お考えになりたいこともございましょう」
はっと番頭を見た。番頭はイルカの見合いの話を知っているようだった。
(番頭さんが呼びに来たんだったな…)
じい様から何か聞いていたのだろう。
「…そうさせてもらうよ」
イルカは立ち上がって奥座敷へ向かった。だんだん歩く速度が速くなる。
カカシに相談したかった。この危機をどうやって乗り切ればいいのか。
部屋に着くと、すぱんと障子を開けた。畳の上に寝そべって合巻を広げていたカカシは、イルカを見てあれ? と言う顔をした。
「どーしたの?」
合巻を閉じ、体を起こしたカカシに思わず飛び付いた。
「カカシさんっ、私…お見合いをさせられそうなんです!」
「お見合い?」
イルカの体を受け止めたカカシがのんびり聞き返した。
(そうか)
カカシは妖だからお見合いを知らないのかもしれない。
「カカシさんお見合いって言うのは――」
「知ってるよ。結婚を前提にした人と会う事デショ?」
(ならどうして…?)
こんなに平然とするとは思ってなかった。
もっと他に言葉はないのか。
「…カカシさんは私が結婚してもいいのですか? 別の人と一緒になっても気にならないのですか?」
逆の立場なら嫌だ。反対して欲しい。一緒に断る口実を考えて欲しかった。また、そうしてくれると信じていた。
「イルカの好きにすればいーよ」
「え…?」
「結婚。イルカの好きにして良いよ」
イルカは衝撃を受けて、カカシの顔をまじまじと見た。
好きと言ってくれたではないか。
カカシの傍に居たいと思ったのに、同じ気持ちではなかったのか。
「私は…」
あとの言葉は続かなかった。目の前にいるカカシを急に遠く感じた。胸に大きな穴が空いていく。
(だったらカカシさんは、今までどんな気持ちで私を抱いてきたんだろう…?)
その答えを知るのは怖かった。
「イルカ、ねぇしようよ」
夜、夜着にくるまったイルカの肩をカカシが揺さぶった。
(いやだ…)
したくない。それでなくてもお見合いの事を考えすぎて疲れていた。これ以上疲れることはしたくない。
平気で誘いを掛けるカカシにじくじくと胸が痛んだ。
(カカシさんは快楽を得たいだけなんだろうか…)
そう考えると涙が出そうになった。
少なくともイルカはカカシが好きだから抱かれた。情を交わし合っているのだと信じていた。
「ねぇ?」
巻き貝のように手足を縮めたまま動かないイルカにカカシが不思議そうに聞いた。
「…今日はしたくありません」
「どうしたの? いつもしてるのに…。オレの事、キライになった?」
カカシに聞かれて、わっと目の奥が熱くなった。嫌いと言えたらどれほど楽だろう。
「…そうじゃありません。疲れが溜まっているので、ゆっくり寝たいだけです」
「そう…。ま、そんな日もあるよね」
納得したカカシがイルカの隣に寝転んだ。背後から抱き込まれてカカシの体温に包まれた。
(こんなに優しいのに、どうしてカカシさんは私を引き留めてくれないのだろう…。妖と人では恋の感じ方が違うのだろうか?)
その考えは、イルカを哀しくさせた。
だとすればカカシはイルカの望むようには傍に居てくれないかもしれない。ある日ふと何処かへ行ってしまう日がくるかもしれない。
自由に現れて消えるカカシを、イルカは引き留められないだろう。
いつか訪れるかもしれない未来を予想して胸が塞いだ。
目が覚めてからも、イルカの重く塞がった気持ちは変わらなかった。
カカシが傍にいて、昨日までの朝と同じ朝なのに何かが変わってしまった。
「イルカ、おはよー」
近づいて来るカカシの唇を受け止めた。柔らかく触れて離れて行く唇を恋しく想う。カカシは指の裏でイルカの頬を優しく撫でた。
「元気になった?」
「…はい」
ならないと答えれば理由を聞かれるかもしれない。女々しい言葉ばかり出てきそうで、イルカは体起こして身支度を始めた。
「イルカ、今日の帯は貝の口にしようか?」
振り返って頷くと、カカシがニコッと笑った。長い帯が体に巻かれ、しゅるしゅと小気味良い音を立てて結ばれていく。
帯を結び終わると、カカシはイルカを座らせ髪を梳いた。肩まである髪が頭の天辺で纏め上げられる。髪紐がきりきりと巻かれ、すっきりと身支度を調えられた所で、足音が近づいた。
クマノがイルカを起こしにやってきた。
カカシはちらりと廊下に視線をやると、すーっと消えた。
「ぼっちゃん、おはようございます」
「おはよう」
イルカが言葉を返すと障子が開いて、クマノが部屋に入ってきた。すでに身支度の調ったイルカを見て笑顔を浮かべた。
「近頃は朝がお早いですね。日に日に立派になられるようでクマノは嬉しいです。きっと天国のご両親もそう思われていますよ」
「そうかな…」
「そうですとも。クマノが保証いたします」
そう胸を叩くと布団を片付け始めた。
両親が今のイルカを見たら、良い顔をしないような気がする。
イルカは木の葉屋の跡を継ぎ、子孫を残さなくてはならないのに、男にうつつを抜かして見合いを断ろうとしている。
きっと大喝されたに違いない。
「朝御飯はこちらでお召し上がりになりますか」
「うん」
「ではあとでお持ちしますね」
「ありがとう」
一人になるとカカシが現れた。イルカの首に腕を巻き付けて笑顔を浮かべている。
カカシにイルカの苦悩が伝わる日は来ないだろう。これは一人で考えるしかない問題だった。
店でじい様に会ったが答えを急かされなかった。しばらく猶予があると知ってホッとした。
いつも通り暖簾を上げて店を開くと、すぐにお客が入って店は活気づいた。
忙しく過ごしている内に昼が過ぎ、イルカはおにぎりを作って貰うと母屋でほおばった。
カカシは昼になっても部屋に戻らないイルカをどう思っただろう。
(少しは寂しく想ってくれただろうか…?)
そう思うと寂しくなるのはイルカの方で、部屋の様子を見に行きたくなったが耐えた。会えば気持ちがカカシでいっぱいになって、冷静に考えられなくなる。
ちゃんと考えて答えを出したかった。お見合いをするにしても、しないにしても、後悔しないように。
仕事を終えて部屋に戻る途中、カカシは迎えに来なかった。
(もしかして怒ったのかな…)
本当に怒っていたら嫌だが嬉しさもあった。それはイルカを気に掛けている証拠だ。
期待半分で障子を開けると誰も居なかった。隣の部屋にも居ない。
「カカシさん…」
「ん? おかーえり。今日は忙しかったんだーね」
ひらりと舞い降りたカカシの手には合巻があった。
(なんだ…)
込み上げてくる寂しさを、イルカは必死で飲み込んだ。
自分ばかりカカシを好きなようで辛い。
実際そうなのだろう。これっぽっちもお見合いを気にしてくれないのだから。
その夜もイルカはカカシの誘いを断って、早々に布団に入った。
そんな事をすればますます嫌われそうな気がしたが、どうしても肌を重ねる気になれなかった。
イルカがしたくないと言えば、カカシはあっさりしたもので、「そう」と言って隣に寝転んだ。
すると今度は体まで飽きてしまったのかと思えて、陰鬱な考え方が自分でも嫌になってしまった。
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