浮空の楽園 9
二
三日後、帰宅が許されたので退院した。訓練は引き続き通いで行う事になった。
あの部屋からパジャマのまま連行されたので着る服がなく、病院が用意してくれたのは普通の服だった。忍服は支給されず、俺は今、自分が忍では無いんだと実感した。
カカシさんが着せてくれた外套のフードを目深に被って家に帰った。誰とも会いたくなかった。
苦労してアパートの階段を上り、自分の部屋のドアを開ける。住み慣れた部屋なのに、どこか余所余所しく感じた。
窓のカーテンは閉まったままで、薄暗い部屋を素通りしてベッドに直行した。枕に顔を埋めて深呼吸する。
(カカシさん…)
カカシさんはこの部屋に帰ってきただろうか? 次はいつ会えるだろう?
じわりと目が潤んだ。あの部屋に戻りたい。あの部屋では、一人でいる時も満たされていた。カカシさんの為だけに存在して、カカシさんに愛されて、頭の先までとっぷりと蜜に浸かっていた。
でも今は、体の半分が足りない気がした。
カカシさんに会いたくて堪らない。声が聞きたい。一人でいるのが寂しくて寂しくて堪らなかった。
「カカシさん…」
叶わない欲求は俺を苦しめた。肉体的な痛みの方が楽かもしれない。
(会いたい! 会いたい! 会いたい!)
せめて匂いだけでもと、着ていた外套を脱いで顔を埋めた。
「…ぅ…」
「…イルカ先生」
そっと腰に手が触れて、がばっと跳ね起きた。
「カカシさん!」
手を伸ばして飛び付こうとしたけど、違っていた。
「…影」
カカシさんじゃない。影なんて嫌だ。
「イルカ先生にはバレちゃうね」
ポリポリと頭を掻いて、困った顔をした影からむいっと顔を背けた。ぽすっと布団に転がって不貞寝する。
「…カカシさんは、どこにいるんですか…?」
「…言えないの、イルカ先生も分かってるデショ?」
全てが違ってしまっていた。あの部屋にいた頃と。カカシさんも変わってしまった。もう前みたいに満たされる事は無い。
「…えっ…えっぐ…っ…ぅ…っ…ひっく…」
「ゴメンね、イルカ先生。オレのせいだね」
頭を撫でられたが知らん顔した。
「泣かないでよ」
ぎゅっと抱き締められそうになって、影を突き飛ばした。
「カカシさんじゃないと嫌です!」
途端に影がすごく寂しそうな顔をしたから、罪悪感に苛まれた。影と言っても、さっきまでカカシさんの中に居たものだ。
「あの…、ひっく…ごめんな、さい…っ…」
「ウウン。いーよ」
眉尻を下げたまま影は立ち上がって、寝室を出て行った。
「どこに行くんですか?」
寂しくなって、背中を追い掛けた。
「イルカ先生にご飯食べさせるように言われてるから」
台所に入った影が冷蔵庫を開けた。中には食材が詰まっていて、カカシさんは一旦家に帰ってきたようだった。
「カカシさんは元気にしてますか?」
「ウン、してるよ」
普通に言葉を返してくれる影にホッとした。
「カカシさんは、晩ご飯食べましたか?」
「ウン。食べたよ。だからイルカ先生も食べよーネ」
そう言って、影が作ってくれたのは焼きうどんだった。影はお腹が空いてないのか、俺の分だけだった。
湯気の上がる皿を卓袱台に運んだ。
「はい、どーぞ」
促されて、はふはふと息を吹きかけながら食べた。
「イルカ先生の方はどう? 変わった事はない?」
食べる俺を眺めながら影が聞いた。
「階段の上り下りが出来る様になりました。明日からも病院に行って訓練します」
「そう」
「トレーナーがついて、訓練すれば元通りになるって」
「良かった」
俺の事がカカシさんに伝わるように、いっぱい話した。
焼きうどんを食べ終わってしまい、影が「それじゃあ、行くね」と言った。
「……はい」
影で良いから傍にいて欲しい、とは言えない。
消える瞬間、影が躊躇した。
「ゴメン、ちょっとだけ…」
そう言った影が遠慮がちに手を伸ばして、俺を抱き締めた。ぎゅっと抱かれて胸が詰まる。頭に頬擦りされて、切なくなった。
(あ…、そうか。戻った瞬間、この感触がカカシさんに伝わるんだ)
気付いて、俺は影の背中に腕を回し、めいっぱい抱き締めた。
「カカシさん、早く会いたいです」
涙声になった。
「でも急がなくて良いから無事に戻って来て下さい」
「心配しなくていーよ。危険な任務じゃないから」
体を離した影がにこっと笑った。さらりと頬を撫でられる。切なげに目を細めた影が、ぽふんと煙を上げて消えた。
(行っちゃった…)
俺も一緒にカカシさんの元に行けたら、どんなに良いだろう。
寂しくなって、ぽろりと涙が零れた。
翌朝も起きて、病院に通った。三時間ほど訓練して家に帰る。
外を歩いている内に、昔の教え子や仲間に会い、驚かれたり、懐かしがられたりした。
「イルカ先生!」
後から声を掛けられて振り返ると、ピンク色の髪をした女の子が立っていた。
「サクラか? 久しぶりだな。元気だったか?」
記憶の中より成長して、大人びていた。女の子の成長は早いなぁと感慨深い気持ちが湧き上がる。
「久しぶりじゃないですよ! どれほど心配したと思ってるんですか!」
涙目で詰められて、たじっとなった、女の子に泣かれるのは苦手だ。
「綱手様から聞きました。カカシ先生が保護してたそうですね」
「あ、ああ…」
「言ってくれれば良かったのに。カカシ先生ったら、もうっ。…でも無事で良かったです。ナルトにも手紙を出しました。ナルトのやつ、手紙が届いたら急いで帰って来るかもしれませんね。イルカ先生が行方不明になった時も、一旦帰ってきてたんですよ。イルカ先生は絶対死んでねぇ!って言い張ってましたけど、ホントでしたね!」
「そうだったのか…。心配掛けたな」
「いいえ! ナルトは今、自来也様と滝の里にいるみたいですよ」
「滝の里…、随分遠い所にいるんだな」
「イルカ先生…?」
「なんだ?」
「あ、いえ! ナルトの事を聞いても随分冷静だから…。前だったら、元気なのか? とか、修行はどんな様子だ? とか、いろいろウルサ…あ、いえ、いろいろ話が尽きない感じだったから…。でもイルカ先生もリハビリで大変だし、ナルトどころじゃないですよね! それじゃあ、私そろそろ行かないと」
「ああ」
「何か困ったことがあったら、いつでも言ってくださいネ! リハビリの事も多少ですけど相談に乗れると思うし。頑張って下さい。またイルカ先生といっしょに働けるの楽しみにしています」
「ああ。ありがとう」
「じゃあまた!」
手を振って去って行くサクラを見送った。
(女の子って、凄いな…)
元気の良さに圧倒されてしまった。アカデミー生だった頃と違い、自立しているのを感じた。
ナルトも元気でやっているだろうか。
サクラと話して、少しだけ教師だった頃の心情が蘇って来た。あの頃はいつも子供を気に掛けてばかりいた。
(それでよくカカシさんに拗ねられていたっけ)
付き合い初めの頃は、俺が子供ばかり優先すると怒られていた。
(今じゃ俺の方が、カカシさんがいないと駄目だけど…)
ふいに頬が熱くなった。カカシさんは昨日の俺を見て、どう思っただろうか。ガキみたいに拗ねて、呆れられたかもしれない。
(恥ずかしい。もう里なんだし、しっかりしよう)
そう考えるのは寂しかったが、我慢するよりなかった。
家に帰ってからは、窓を開けて掃除した。カカシさんがいつ帰ってきても、気持ち良く過ごせるように心掛けた。
冷蔵庫の中を見て、今晩のおかずを考える。
(カカシさんの分も作りたいな)
でも影は食べないから無駄になってしまう。昨日の口ぶりだと今日は帰ってこなさそうだ。
一人分の食事の準備だけして、日が暮れるのを待った。
カタンと音がして、玄関を見に行くと影が部屋に入って来た。
「イルカ先生」
「…お帰りなさい」
帰ってきた訳なじゃいけど、玄関から入ってきたから、そう声を掛けた。
「ん。ただいま」
影はにっこり笑って、部屋の様子を見た。こんな所はあの部屋にいた頃と変わりなかった。
「ご飯作ったの? 食べてないね。体の調子悪い?」
質問に首を振って、卓袱台の前に座った。
「カカシさんの話を聞きながら食べようと思ったから」
「そう」
傍に座った影に、カカシさんの話を聞いた。ご飯は食べてるかとか、よく眠れているかとか、たわいない事だったけど、カカシさんの話を聞くと安心出来た。
「イルカ先生はどうなの?」
「病院の帰りにサクラに会いました。背が高くなってて…、たくさん喋るから吃驚しました。俺…、『ああ』しか喋ってないかも」
俺がそう言うと、影が可笑しそうに笑った。それでふと昨日の姿が蘇った。
「カ、カカシさんは…昨日何か言ってましたか…?」
「昨日…?」
「その…、俺の事…」
「ああ」
返事したきり、影が思いだしたようにクスクス笑うから恥ずかしくなった。やっぱりヘンに思われていたのだろうか。
「イルカ先生がすごく可愛いから、早く帰りたいって」
「なんですか、それ!」
思っていたのと正反対を言われ、かぁっと照れた。
「可愛くなんて、ないです」
「可愛かったよ。影を突き飛ばした所なんて特に。独占欲を刺激されてたヨ」
「そ、そうなんですか…?」
「ウン」
嬉しそうに頷かれて安心した。遠くにいても優しいカカシさんに胸がポカポカした。なのに、
「イルカ先生、オレが傍にいなくて寂しい?」
影に小首を傾げて聞かれて、わあっと押さえ込んでいた蓋が開いた。瞬く間に涙が溢れて頬を濡らす。
「寂しくない筈ないじゃないですか!」
ひーっと喉の奥から泣き声が漏れた。
「あぁっ! ゴメン! …ヤバイ、本体に怒られる」
「カカシさんに、会いたい…」
「…イルカ先生、抱き締めてい?」
「嫌」
「だよね」
慰められるなら、カカシさんが良かった。
おろおろする影の気配があったが、一人で泣いて、一人で泣き止んだ。ぐしぐし濡れた頬を拭い、言った。
「カカシさん、待ってるから無事に帰ってきて下さい」
「ウン、伝える。イルカ先生って絶対浮気しないタイプだよね」
「当たり前じゃないですか」
カカシさん以外誰も要らない。しんみりしたままだったが、影が「そろそろ」と言った。
頷いて顔を上げると、影に抱き締められた。俺も背中を抱き返すと、頬に柔らかい感触が触れた。
(んん?)
何してるんだ? と睨み付けると、影がにこっと笑って消えた。
(…ったく。油断も隙も無いな)
口吻けされた頬を押さえるが、カカシさんの唇の感触を思いだして、恋しくて堪らなくなった。
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