浮空の楽園 10
三
時が流れて、寒さがいっそう厳しくなった。体の方はすっかり良くなって、階段の上り下りが問題無く出来る様になったので、今度は走る練習に移った。同時に体力作りも兼ねて水泳もした。
水の中にいるのは楽だった。重力から解き放たれ、ずっと水中にいたくなる。
「『イルカ』の名前は伊達じゃないですね」
と、トレーナーは笑っていたけど、自分でもふとした拍子に懐かしい気がして、陸上にいるより水中にいる方が合っているんじゃないかと思った。
カカシさんは任務に出たままで、夜になると影が様子を見に来た。影はカカシさんの体力を奪うと分かっていても、なかなか「もう来ないで良い」と言い出せなかった。
まだいつ帰ってくるのか分からない。
最近では、これは里が俺に下した罰なんじゃないかと思えた。
(だったらもう充分反省したから、カカシさんを帰して欲しい…)
寂しくなり、ポケットから定期入れを出して、潮の里の写真を眺めた。そのまま持ち歩いていたら、端っこが破れてきたので、急遽定期入れを買って中に入れた。
カカシさんが買ってくれたガイドブックから切り取った大事な写真だ。あの部屋に遺してきた物がどう処分されたのか、俺は知らなかった。これだけでも持ち出せたのは運が良かった。
気が済むまで眺めてからポケットにしまった。
病院を出て、晩ご飯の買い物をしてから家に向かった。頬が切れそうなほど冷たい風がビュウビュウ吹き、外套の前を深く重ね合わせて、フードを目深に被った。
(早く春にならないかな…)
一人の冬は凍えて嫌だ。アパートが見えて歩調を早めた。
「あっ」
一際強い風が吹いて、枯れ葉が舞い落ちた。砂埃が舞い、目をきつく閉じる。
ようやく風が止んで目を開けると人影が見えた。心臓がドキンと跳ねて、胸にさざ波が走った。
足が強ばって動かない。あんなに会いたかったのに、いざとなると心が拒否した。
(幻だったらどうしよう…)
きっとショックで立ち上がれなくなる。
その人は、立ち止まった俺を見てこっちに向かってきた。顔を見たいと思うのに、目の前が滲んで見えなくなる。
「イルカ先生、おかえり」
「かかひひゃん…っ」
わあっと泣きながら走り、近くまで行くと飛び付いて、首に腕を回した。
「わあーーん、わあああっ」
「よしよし、寂しかったね」
後頭部を撫でられる。
寂しいなんてもんじゃなかった。体の半分が千切れたみたいな気がしていた。
いっぱい伝えたいことがあるのに言葉にならない。口から溢れるのは泣き声ばかりで、カカシさんが俺の頬を両手で包んだ。
「ホラ、もう泣き止んで?」
「だ…ってっ…えっ…く…う、…ひぐっ…」
涙でびしゃびしゃになった顔をカカシさんが手のひらで拭った。
「ちゃんと走れてたね」
「う…、ま、い…ち、練習…した…」
「ウン、エライね」
誉められて、また涙が出てきた。
カカシさんが手の届く距離にいて、触れた先から体温が伝わって来た。声が鼓膜を震わし、見つめられて心が震えた。
世の中にこんなに素晴らしい事が有り得るだろうかと言うぐらい感動して胸がいっぱいになる。
カカシさんのいる世界こそが全てで輝いて見えた。
「カカシさんっ、カカシさんっ」
「ウンウン。イルカ先生、落ち着いて」
そんな事言われても無理だ。今俺に羽があればバタバタ飛び回っていたし、しっぽがあれば振り千切れていただろう。
でも、カカシさんが困っている様子だったので、なんとか感情を抑え込んだ。何度も深呼吸して、気持ちを落ち着ける。
「落ち着いた?」
「う…うん…」
「じゃあ、行こう」
「…どこに?」
家はもう目の前で、ちょっと歩けば中に入れるのに、カカシさんは反対の方向へ歩き出した。
「綱手様に呼ばれてるから」
「俺も行くんですか?」
「そう」
追いついて、隣に並んで歩いた。
(どうして俺も行くんだ?)
不安な気持ちが湧き上がる。またカカシさんと離れないといけなくなったらどうしよう。
「……カカシさん…」
「ダイジョーブだよ。そう言う約束だったから」
「約束?」
「そう。行けば分かるよ」
にっこり笑ったカカシさんを見て安心した。カカシさんが言うなら大丈夫だ。
「カカシさん、もうどこへも行きませんか」
「たぶんね」
「たぶん?」
「それを話に行くんだーよ」
そうか、そうなのか。
目的が分かって、すっきりした。
「カカシさん、元気にしていましたか? どこも怪我をしていませんか?」
「ウン。元気にしてたよ。怪我もしてない」
「そうですか」
ふわふわと、カカシさんと会話できる喜びを噛み締めた。
「あっ! カカシさん、今晩のおかずは何を食べたいですか?」
「う〜ん、鍋が良いかな。締めはうどんにしよう」
「うどん…」
あの部屋で、最後に作ろうとした鍋焼きうどんを思いだした。カカシさんの為に食事を作るのも、あの日以来だった。
「いいですね! うどん好きです。今晩は鍋にしましょう!」
メインを肉にするか魚にするか話し合っている内に、火影の家に着いた。一人で食べようと思っていた食材を持っていたのが気になったが、その辺に置いて行くわけにもいかず持って行った。
カカシさんがノックすると、中から「入れ」と声が掛かった。
「失礼します」
カカシさんに続いて部屋に入った。執務机の前に二人して立つ。
「ただいま戻りました」
カカシさんが言えば、難しい顔をしていた五代目がふっと息を吐いた。
「ご苦労。報告書は後で貰う。今後の任務については追って連絡するから待て。以上だ」
(え、もう終わり…?)
カカシさんと五代目の顔を交互に見ると、カカシさんが静かに口を開いた。
「綱手様」
「あ〜もう、分かっている。イルカ、ちょっと分身の術をやってみろ」
「分身、ですか?」
「そうだ」
投げやりに言われて、ちらっとカカシさんを見た。小さく頷くカカシさんに、印を結んで分身を作った。煙の中から隣にもう一人の俺が現れた。一応買い物袋も持たせてみた。
「いいだろう。明日からイルカを受付勤務とする」
(えっ! 俺?)
「明日、からですか?」
そう問い直したのはカカシさんだ。
「なんだ? 文句あるのか?」
「いえ。気が利かないなーと思っただけで。三ヶ月ぶりに会う恋人達に向かって、明日って…」
ぴきっと五代目のこめかみに神経が浮かんだ。
「黙れ。元はと言えば、お前達の行動が引き起こしたことだろう。なんだったらお前にも、今すぐ任務を与えたって良いんだよ」
「えっ!」
「そんなんだから男出来ないんだよ」
「なんだと!!」
ぼそっと呟いたカカシさんの声は五代目に届いて、重い執務机が飛んできた。
「うわあっ!」
驚いたけど、俺を抱えたカカシさんが扉の外に瞬身した。部屋の中から木のぶつかる大きな音が聞こえてきた。
カカシさんが俺の手を引いて楽しげに歩き出した。
「さ、帰ろう」
「カカシさん?」
「明日からは今まで通りに過ごせるよ。贖罪は終わりって事」
ぽかんとした俺に、カカシさんが教えてくれた。
「今まで通り…」
でも明日から受付勤務って言ってた。俺としては、あの部屋に戻れる方が良かった。残念な気持ちが込み上げるが、せっかくの機会を用意してくれたカカシさんに言えなかった。
そんな俺の気持ちに気付いたのか、カカシさんがぎゅっと手を握った。
「イルカ先生。潮の里には大手を振って行こう。隠れ住まなくても良いように、ちゃんと現役引退しよう」
(忘れてなかった…)
もしかしたら、あの部屋だけの約束だったらどうしようと思っていた。
「ネ?」
「は、はい!」
じわじわと喜びが込み上げて、大きく膨らんだ。あの部屋で思い描いた夢が、もっと現実のものに感じられた。
「カカシさん、好きです!」
「そういうのは家に帰ってからやりな!」
綱手様の声が追い掛けて来て、ビクッとなった。
くすくす笑ったカカシさんに手を引っ張られる。ふわりと体が浮いて、俺を抱えたカカシさんが走り出した。
「早く家に帰ろ」
「でも晩ご飯…」
カカシさんの目に熱が宿った気がして、もごもご言った。なんだかとても照れ臭い。
「影に行かせればいーよ」
(やっぱり…)
でも嫌じゃなかったから、カカシさんの首に腕を回してしがみ付いた。
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