浮空の楽園 7







 閉鎖した空間でカカシさんの為だけに生きていると、次第に月日の概念が薄れていった。太陽も月も見ない。外の暑さや寒さがどんなだったか、実感として思い出せなかった。
 ただカカシさんの服装や買って来てくれる野菜を見て、夏になったのかなぁとぼんやり思った。
 カカシさんは任務の話でも俺にするようになった。きっと俺が毎日話を強請るから、話すことが無くなってしまったせいだと思うが、カカシさんが初めて任務の話をした時、本当にもう、カカシさんは俺を外に出す気が無くなったのだと思った。
 ある日、カカシさんがサンマを買ってきた。ビニールの袋からサンマのしっぽを覗かせて、すごく嬉しそうな顔で帰ってきた。
「見て、イルカ先生。サンマ買って来たよ」
「わあ、すぐに焼きますね」
 本当はまるまる食べさせて上げたかったけど、焼く場所がなかったので、俺はサンマを二つに切ってフライパンに並べた。
「おいしそ〜」
 じゅうじゅう音を立てるフライパンを、俺の肩越しに覗いた。ぐっと背中に体重が載る。
「カカシさん、火を使ってる時は危ないから」
「はぁーい」
 重くは無くなったけど、俺の腰に手を回して、くっついたままでいた。振り返ると、いたずらぽっい顔で笑ったカカシさんが俺の唇にキスをした。
「イルカ先生、大スキ」
 甘い声に頬が熱くなる。
(俺も好きだもん)
 カカシさんがあまりにも甘い空気を振りまくから、恥ずかしくて口に出来なかった。
「もうすぐ焼けるから、ご飯の用意をしてください!」
「はいはい」
 くすくす笑いながら離れたカカシさんに、耳まで熱くなる。言葉にしなくても伝わっていた。ちゃんと俺がカカシさんを好きだってことを。



「今日ね、任務の帰りに潮の国に行ったよ」
「しおの里?」
「そう。とても小さい里なんだけど、海岸沿いに塩田があって、すごく綺麗な所だった」
「へぇ」
 どこだろう? と思った。聞いたことのない里だ。山に囲まれた木の葉と違って、ずっと遠い場所なのだろう。
「遠浅でね、波が引いた後に勝手に塩が出来るんだって。オレが行ったときは満ち潮だったんだけど、水面に空が映って、どこまでが海なのか分からなかった」
「凄いですね!」
 自分が空か海かも区別出来ない所に立っている姿を想像してみた。そんな所に行ったら、天地が分からなくなって目眩を起こしてしまうかもしれない。
 果てしなく続く空と海――。
 パタンと心の中の風景に蓋をした。
「カカシさん、大根下ろしもっと食べますか? 俺、擂りますよ」
「…イルカ先生、海キライ?」
「嫌いじゃないです」
「じゃあさ、いつかそこに住んでみない?」
 心臓がどきんとした。衝撃が強すぎて、大根を持ったまま硬直した。
「今すぐは無理だけどサ。オレが忍を引退した後で…。その頃なら里を出ても、誰も文句を言わないと思うし。ネ? そうしよ?」
 わぁんと耳鳴りしそうなほど感情が膨れ上がって、すぐに返事が出来なかった。
「ずっとココに、イルカ先生を閉じ込めておきたい訳じゃないよ。…ネ、一緒に来てくれるデショ?」
 ポタポタと膝の上に水滴が落ちた。
「イルカセンセ…?」
「そ…、そこでは、ずっと…カカシさんと、いっしょに、いられますか…?」
「ウン。ずっと一緒だよ」
「誰に見られても、隠れなくて、いいですか…?」
「ウン。いーよ」
 えぐえぐしゃくり上げた。
「イルカセンセー、返事は?」
「い、いきます…」
 握り締めていた大根を奪われ、抱き締められた。
「ゴメンネ。辛い思いさせて」
「辛くなんて、ないです…。カカシさんと一緒だから…。俺…」
「ありがとう。イルカ先生、愛してる」
「お、おれ…えっ…う…っく…うわーん」
 哀しくないのに涙が溢れて、わんわん泣いた。カカシさんはずっと俺の背中を抱き締めてくれていた。
 俺も愛している。カカシさんだけを、ずっと。



 未来に目標が出来て、毎日の生活に張り合いが出来た。次の日、カカシさんがガイドブックを買ってきてくれて、俺は写真を切り抜いて壁に貼った。
 カカシさんが話してくれたとおり、その場所は青一面の世界だった。
 早く行きたいと思ったけど、それは良くない意味もあったから口にしなかった。ずっとずっと後で良い。カカシさんが怪我をしないで元気なまま引退して欲しい。
 二人でどんな風に暮らすか語り合った。家を海の近くに建てようとか、暖かい所だから海小屋みたいな造りの家にしようとか。夢はどこまでも羽ばたいた。



 カカシさんが外套を着て出掛けるようになった。帰ってきた時に、髪に雪が付いている日もあって、外の寒さを想像した。
(今日の晩ご飯は、体があったまるものが良いな)
 鍋なんてどうだろうと思ったが、食材も土鍋もなかった。
(今度買って来て貰おうかな)
 でもあまり目立つ買い物は控えた方が良いから、きっと言い出せないだろう。
 今晩のおかずは鍋焼きうどんにすることにした。生姜と葱をたっぷり入れて、体が温まるようにしよう。
 すぐに出来るから下準備だけして、カカシさんの帰りを待った。
 ソファに座って、壁の写真を眺めた。
(暖かいって言ってたから、向こうでは鍋は必要ないかも…)
 心は潮の里に飛んでいく。遠浅の海をどこまでも二人で歩いたら楽しいだろう。魚はいるだろうか? あんまり海が浅いと、釣り竿が無くても素手で捕まえられるかもしれない。
 楽しくなって、くすくす笑っていたらドアが開いた。頭までフードを被ったカカシさんが部屋に入ってくる。
「おかえりなさい」
「ただーいま」
 カカシさんが口布を下ろした。
 一瞬の出来事だった。開いたドアの隙間から、何かが大量に入ってくる。
 カカシさんはさっとクナイを抜いて応戦したけど、瞬く間にそれは俺の体に絡まった。
「あっ!」
「動かないで」
 第三者の声が聞こえた。
「動けば余計に締まりますよ」
 全身に蔦が絡まっていた。
 俺を背に立つカカシさんの前に暗部が数名立っていた。ガラガラと音を立てて足下が崩れて行く気がした。
「てんぞう、オマエ…」
 カカシさんの全身から怒りが滲み出ていた。
「済みませんね、センパイ。匿名ではたけカカシの行動が怪しいと連絡があったので、確認の為に見張らせて貰いました。一体なにやってるんですか? …イルカ先生?!」
 刹那、カカシさんの怒りが殺気に変わった。
「駄目! カカシさんっ!」
 ざっと暗部達がカカシさんから距離を取った。
「駄目です、カカシさん…」
 俺の声を聞き入れてくれたのか、カカシさんの気が静まっていく。緊迫した空気の中、猫の面を被った暗部がカカシさんに話し掛けた。
「…センパイ、どういうことですか? イルカ先生ですよね? 亡くなったはずじゃ…」
 声にありありと不審感が出ていた。
(俺の知っている人?)
 でも暗部に知り合いはいなかった。
 その人が面を取って顔を見せた。短髪で黒目がちな大きな瞳。変わった形の額当てをしていた。
(誰だろう…?)
「ボクが誰だか分かりませんか? …この人は誰なんですか、センパイ」
「…イルカ先生だよ。事故の後遺症で記憶障害がある」
「えっ」
 そうだったのか。指摘されないから気付かなかった。驚く俺に、暗部も僅かに目を見開いて、嘆息した。
「どちらにしても、連行させて頂きます。面倒だから抵抗はしないでくださいね。アナタもです」
 視線を向けられて、こくんと頷き返すと、絡まっていた蔦が枯れた。
(この人の術だったのか)
 かさっと首に違和感を覚えて手を伸ばす。首にだけ蔦が巻き付いていた。
「念の為、枷はさせて頂きます。いいですね」
 最後の言葉はカカシさんに向けて言った。
「ああ」
「行きますよ」
 暗部に囲まれて歩き出す。
(カカシさん…)
 不安で胸が押し潰されそうになった。外に出たくないが、それが許される状況じゃなかった。
 今まで出ることの出来なかった入り口の前に立つ。部屋を振り返ると、作りかけの夕飯と青い写真が目に入った。
「あっ、待ってください」
「おいっ! 勝手な行動をするな」
 制止を振り切って壁に向かった。写真を剥がして胸にしまう。
(いっしょにうどん食べようと思ったのに…)
 胸が千切れそうなほど痛くなった。
「早く来い!」
 腕を引かれて、足が絡んだ。
「やめろ!」
「足が…」
 カカシさんと猫面の暗部の声が重なった。殺気だった
カカシさんの気配が周囲を圧倒する。
「あー、無事でいたかったら、この人に乱暴しないように」
 勧告を受けて、手が離れた。
「イルカ先生」
 名前を呼ばれて、カカシさんの傍に寄った。
「カカシさん…」
「言われた通り、抵抗しないで」
 頷いたものの、一歩ずつ踏み出す足が重かった。
 部屋を出るとすぐに左手に階段があり、狭い石壁に挟まれた先に、ぽつんと白い光が見えた。随分深い場所に部屋はあるようだった。
 皆が階段を上り始めるが、俺は足を止めた。
「止まるな、行け」
 言われても、足が前に進まなかった。階段の上り方が分からなかった。歩く訓練はしたが、段差のある場所の訓練はしていなかった。
 カカシさんが外套を脱いで、俺に着せた。
「イルカ先生、乗って」
 それから、しゃがんで背中を向けた。みんなの前で背負われるのは恥ずかしかったが、他に方法がなかった。
 カカシさんに背負われて階段を上る。カカシさんの首にぎゅっと腕を回して顔を伏せた。
 いつかこんな日が来る気がしていた。
 二人だけの住処だった部屋を出るのが酷く辛い。
「イルカ先生、ダイジョーブだよ。心配しないで良いからね」
 片手を離したカカシさんが、フードの隙間から手を入れて俺の頭を撫でた。
「カカシさん…」
 泣きそうになっていたが、カカシさんがそう言うと、不思議と安心出来た。
 カカシさんがフードを引っ張って、目深に被せた。久しぶりに見る外の光は、目を焼きそうなほど眩しかった。




text top
top