浮空の楽園 5
四
トントンと刻んだ葱を味噌汁に落とした。すぐに火を止めて脇に避けると、再び火を付けてフライパンを熱した。
ここはコンロが一つしか無いから調理が不便だ。
油を引いて、小麦粉をまぶした鮭を置いた。じゅっと音が立ち、香ばしい香りが立ち上がる。
(グリルがあれば、魚が焼けたんだけどな)
鮭の周りでパチパチ弾ける油を見ながら思った。
カカシさんがサンマの塩焼きを好きだから作ってあげたかった。でも今はムニエルで我慢して欲しい。
軽く熱が通ったところで火を止めた。後はカカシさんが帰ってきてから仕上げよう。
いつも時間通りに帰ってくるとは限らない。
夕食の準備を済ませ、ソファに座った。読みかけの本を開いて物語の世界へ入っていく。あと少しで本が終わってしまうからゆっくり読んだ。
最近忙しいらしく、本を買って来てくれなかった。
「…イルカセンセ」
肩を揺さぶられて目を開けた。カカシさんが俺の顔を覗き込んでいる。読みかけの本が手元から離れ、床に落ちた。
「またこんな所で寝て」
「ん…」
目を擦りながら顔を上げると、ちゅっと唇が触れた。
「イルカ先生、何度も言うけど、先にご飯食べていーんだよ。任務で帰還が遅れることもあるんだから」
「ん」
今度は不満げに返事して、カカシさんの体に両腕を回した。
「おかえりなさい」
「ただーいま」
ぎゅっと抱き締められて、意識が覚醒する。
「カカシさん、ご飯食べますか?」
「ウン」
立ち上がり、コンロまで歩いて、味噌汁とムニエルのどちらを先に温めるか迷った。俺はいつも迷う。味噌汁ならすぐには冷めないかと、先に火に掛けた。
振り返ると、カカシさんが床に落ちた本を拾って、パラパラと捲った。
「もう読み終わっちゃった?」
「まだです」
本当は三回目だったけど嘘を吐いた。
「ヨカッタ。イルカ先生にお土産があるよ」
「わあっ」
本屋さんの紙袋を見せられて、歓声を上げた。体の向きを変えて、そちらに進んで行くと、カカシさんがもどかしげな顔をした。
一歩一歩足を踏み出して前に進む。辿り着くと、ホッとした顔で、俺の体を抱き止めた。
「だいぶ歩けるようになったね」
「はい」
誉められて嬉しくなる。紙袋を受け取って中を覗くと、二十冊ぐらいの本が入っていた。ちゃんと今読んでいた続きの本もある。
「ありがとうございます!」
「ううん。…イルカ先生、味噌汁が噴いてる」
「あっ」
急いで行こうとして、足が絡んだ。
「あ!」
転けそうになる体をカカシさんが支えて、そのままコンロの傍まで運んだ。
「も! 自分で!」
「分かってーるよ。でも今の場合はこの方が早かったデショ?」
小首を傾げられて、唇を尖らせた。
(そうだけど…)
自分の事は極力自分でしたかった。それが体を動かす訓練になるから。上手く動かない身体がもどかしい。
火を止めて、鍋をフライパンに置き換えた。
「お椀に入れたらいーい?」
カカシさんが味噌汁の蓋を外して聞いて来た。
(八つ当たりはいけない…)
すぐに機嫌を直して頷いた。
「あとご飯も」
「りょーかい」
にっこり笑ったカカシさんが近づいて、俺の頬に口吻けた。
(ご褒美だ…)
口に出しては何も言わないけれど、カカシさんは時々こうしたキスをした。俺が機嫌を直した時や、歩行訓練を頑張った後に。
まるで子供扱いだったが、嬉しいと思う自分がいた。カカシさんに誉められるのは、どんな理由であれ等しく嬉しい。
ムニエルを焼いて皿に移し、テーブルに運んだ。前に途中で落としてしまったので慎重に。
あの時は悔しくて思わず泣いてしまった。カカシさんに宥められたのは恥ずかしかったけど、思い出すと胸がくすぐったくなった。
「お待たせしました」
「ウン。食べよ」
並んでソファに座って、箸を手にした。大人二人で座ると狭かったけど、あまり気にならなかった。
「カカシさん、今日の里はどんな風でした?」
「今日はねぇ――」
食事をしながらカカシさんの話を聞くのは楽しかった。心の中にある里の風景を思い出す。
だけど、外に出たいとは思わなかった。カカシさんの傍が良い。無理に外に出たいと言って、カカシさんに嫌われるのは嫌だった。
里と子供達とカカシさんのどれか一つを選ばないといけないとしたら、俺はカカシさんを選ぶ。それだけのことだ。
これが教師をしていた時なら迷ったかもしれないが、殉職扱いになっていたから気が咎めなかった。俺が死んだことになってから半年以上も過ぎている。
この先発見されることがあっても、それが半年後だろうと一年後だろうと変わらない気がした。
それに一生のうち一度ぐらい、カカシさんだけの為に生きてみたかった。
忍なら許されないが、今の俺は忍じゃ無い。
(カカシさんに助けられた命だ。カカシさんの為に使って何が悪い)
間違っていても構わなかった。
食事の後、皿を洗うのはカカシさんの役目だった。茶碗に付いた泡を濯いで、乾いた布巾の上に伏せる。
これは俺の家に二人で住んでいた頃に、カカシさんと一緒に買ったものだった。
ここで暮らすことを決めてから、カカシさんに持って来て貰った。
二人で買った物を使えるのは嬉しく、うっかり割ってしまわないように大切に扱った。
「はい、おーしまい。お風呂に入ろうか」
頷いて、浴室に向かった。カカシさんも後からついてくる。お風呂は滑って転んだら危ないからと、カカシさんも一緒に入った。
洗ってくれるのはカカシさんだ。これは気持ち良いから、して貰っても良いことにした。
脱衣所が無いから、部屋で服を脱いだ。手早く忍服を脱いだカカシさんが、素っ裸になる。
カカシさんは以前と変わらず任務に出掛けたが、土に汚れて帰ってくる日は無くなった。忍服は綺麗なままだ。こっちの方が本来のカカシさんらしかった。
俺がもたもた服を脱ぐのを、カカシさんが見ていた。恥ずかしいと感じたのは最初の頃だけだ。今ではこれが当たり前になって、待たせては悪いと言う気持ちの方が強かった。
風呂に入ると、カカシさんは先ず俺にシャワーを当てた。小さな浴槽もあるが滅多に使わない。頭からシャワーを浴びせられて、ゴシゴシ顔を洗った。
シャワーを受け取って、俺がカカシさんの体に浴びせている間に、カカシさんは俺の髪や体を洗った。で、また交代で、カカシさんが自分の頭を洗っている時は、俺がカカシさんの体を洗った。
風呂場が男二人で入るには狭いせいもあって、烏の行水だった。
風呂から上がった後は、カカシさんが俺の足をマッサージした。硬くなった筋肉をぐいっと伸ばされるのは痛かったが、それが終わった後は、眠るまでの時間をのんびり過ごした。
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