浮空の楽園 20
第四章
朝の光が瞼を照らした。目を開けると白い光が辺りを包む。俺はベッドに寝かされていて、――まわりには誰もいなかった。
倦怠感の残る体を横たえたまま、布団の中で蹲る。体は綺麗にされ、すっきりしていた。
(このまま眠っていたい…)
全部、夢だったら良いのに。
俺は朝、普通に目が醒めただけで、襖の向こうから「おはよう」ってカカシさんが入ってくる。
そんな幸せな光景を思い浮かべて涙が零れた。
当たり前の光景だと思っていたけど、全然当たり前じゃなかった。何でもなく過ぎ去った日々を愛しく思う。
ずっとこうしていたかったけど、涙を拭いて体を起こした。
(帰ろう…)
ベッドを降りて、居間に向かった。襖を開けて中に入ると、壁に凭れて座っていた本物が顔を上げた。同じ顔を見て、がっかりした気持ちになる。
「…起きたか」
「うん、おはよう」
「…おはよう」
どこか虚ろに本物は言った。その瞼が赤く腫れていて、泣いたんだと思った。好きな人が別の人間を抱いて、平気でいられる筈がなかった。申し訳無く思うが、胸に残る喜びの方が大きい。
「……」
昨日はありがとう、と言いそうになって飲み込んだ。礼を言われたって嬉しくないだろう。
たぶん俺に出来る唯一の事は姿を消すことだけだ。
「腹、減ってないか? 今、朝飯作るよ」
徐に立ち上がった本物が台所に入った。帰るタイミングを失って、俺は卓袱台の前に座った。
カカシさんは任務に出掛けたのか部屋にいなかった。もしかしたら俺を見たくなかったのかもしれない。
本物は俺に目玉焼きとトーストを作ってくれた。パンの上に目玉焼きを移動させて囓った。半熟の目玉焼きがとろりとして上手かった。
俺が食べている間、本物は何も話さなかった。俺が寝ている間にカカシさんと話をしたか気になった。ケンカはしなかっただろうか。
自分で言うのも何だが本物は良いやつだ。
俺に思い出の一日をくれた。
食べ終わる前にカカシさんが帰って来た。どこに行っていたのか手ぶらで何も持っていなかった。いつも通り忍服を着ていた。
「イルカ先生、食べ終わったら出掛けよう」
カカシさんが俺を見て言った。
思わず本物を見た。カカシさんと一緒に出掛けても良いだろうか。了承を得ようと思ったが、すでに嬉しくて堪らなくなる。
(イルカ先生、って言った。俺で間違い無い!)
急いで食べて顔を洗った。髪を整えて、昨日来ていた服に着替えた。着ていた服を畳み、お面を付ける。
「お待たせしました」
カカシさんは無言で玄関に向かった。本物は俺の食べ終わった皿を洗ってくれていた。いろいろ世話になり、感謝の気持ちが込み上げた。
「ありがとう」
声を掛けると、本物の背中がビクッと跳ねた。
それでなんとなく気付いてしまった。
「ご飯美味しかった」
それだけ言って外に出た。カカシさんの後に付いて歩く。アパートの階段を下りて、最後にもう一度だけ振り返った。
(俺の家…)
とても居心地のいい場所だった。一人で暮らすようになってから、ずっとこの場所に住んでいた。カカシさんと住むようになってから、もっと大事な場所になった。
バイバイ、と心の中で別れを告げた。
火影の家に連れて行かれるのかと思っていたが、カカシさんは違う方角へ行った。商店街を抜けて、森の方へ進む。
天気が良くて、空は晴れ渡っていた。白い雲がゆっくり風に流れていく。
カカシさんと木立の中を歩いた。緑の香りに包まれて、うんと伸びをした。
足を止め、振り返ったカカシさんが俺の面を取った。明るい日差しに目を細める。
(カカシさん?)
「もう付けて無くていーよ」
優しい声に胸が震えた。柔らかい視線に、以前に戻った気がした。
「カカシさん…?」
「ん?」
試しに名前を呼ぶと返事が貰えた。嬉しくて震える俺の頬をカカシさんが撫でた。
「行こうか」
「はい!」
カカシさんの隣に並んだ。横顔を見上げて、また嬉しくなる。まるでデートしてるみたいだった。
カカシさんは特に行き先を決めてないようだった。ブラブラと森の中を散歩する。
音が聞こえて川に降りた。キラキラ水面が光り、穏やかな流れにサンダルを脱いで足を浸した。冷たい水が指の間をすり抜ける。
「きもちいー」
こんな穏やかな日は久しぶりだった。もしかしたら、川に浸かるなんて、俺が存在して初めてかもしれない。
(あ、いや、きっとそうだ)
生まれて初めて、俺は川遊びをしていた。
可笑しくなってクスリと笑った。
「どうしたの?」
「楽しいなと思って」
「そう」
カカシさんが俺に向かって手を伸ばした。その手を掴むと掴み返される。引っ張られて川から上がった。岩の上に座って足を乾かす。日差しが濡れた足を温めた。
ゆったりしていると、今度はカカシさんが川に入っていった。膝までズボンをたくし上げて、屈んで水面を覗き、さっと手を入れた。
引き上げた手に魚を掴んでいて、俺は歓声を上げて拍手を送った。
お昼にはその魚を焼いて食べた。カカシさんは軽装に見えて、クナイはもちろん岩塩まで持っていて、捕った魚を捌いて味付けした。
とれたての魚は新鮮で美味しかった。香ばしくて焼き加減も最高だった。
「これだけじゃあお腹が空くね。里に戻ってご飯食べる?」
急いで首を横に振った。里に戻れば、この楽しい日が終わってしまう。このままで、もっとカカシさんのそばにいたい。
カカシさんはそれ以上何も言わず、火の始末をした。任務の時みたいに、すっかり跡を消して立ち上がる。
「行こうか」
また森の中を歩き出す。
(どこに行くんだろ…)
森の奥へ入って行くカカシさんに不安になった。
「カカシさん、どこに行くんですか?」
「どこへでも…。イルカ先生は行きたいトコある?」
行きたい所、と聞かれてドキッとした。思い当たる場所は一カ所しかなかった。
(言ってもいいかな…)
「…潮の里に、行きたいです」
心の中に青い世界が広がった。カカシさんと一緒に、夢の場所に行きたい。
「………それは出来ない」
「…はい」
言葉が重く胸に沈んだ。
叶わない夢だと分かっていたが、ちゃんとカカシさんの口から聞いておきたかった。もう夢は終わったのだと――。
「ありがとう、カカシさん」
「…なにが?」
「今日、一緒に出掛けてくれて。楽しかったです」
「……」
カカシさんは何も答えてくれなかったけど、それで良かった。
(きっと今の会話が俺達の最後の会話となる)
そんな予感がした。もう俺達の間で話さなくてはならない事は何もなかった。
ひしひしと寂しさが押し寄せだが、どうしようもなかった。
目的もなく歩いていると思っていたのは俺だけのようで、ふいに拓けた場所に出た。小さな木の小屋があり、傍らに湖があった。透明な水は鏡のように空を映している。
「綺麗な場所ですね」
どこか夢の景色に似ている気がした。
(もしかして、代わりにこの光景を見せてくれようとしたのかな?)
「カカシさん…!」
嬉しくなって後を振り返ると、カカシさんが左目を隠していた額当てを押し上げた。赤い写輪眼が露わになり、目が釘付けになる。
「カカシ、さん…?」
わっと目の前が赤く染まり、赤に囲まれた。
(あっ、この光景は……)
前に良く見ていた赤い夢と同じだった。
(そうか…、こうやって…)
意識がだんだん遠退いていく。体から力が抜け、目を開けていられなくなった。
崩れ落ちそうになる体をカカシさんが支えてくれた。
(俺…どうなるんだろ…? 死んじゃうのかな…)
でも良いやと思った。カカシさんの腕の中は暖かい。
(どうかこのまま……)
カカシさんの顔を見ていたかったけど、勝手に瞼が閉じた。
(少しは俺の事、好きでいてくれたかな……)
聞きたかったけど意識が途切れた。
さよなら、カカシさん。ありがとう――。
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