浮空の楽園 2







 翌日から筋力のトレーニングが始まった。カカシさんが硬くなった筋肉をマッサージしてくれて、その後で歩行練習をした。
 上手く歩けないから、トイレに行きたい時はカカシさんが連れて行ってくれた。
 扉の向こうにはもう一つ部屋があって、トイレもそこにあった。どうして部屋が一つきりだと思ったんだろう。自分でも不思議になる。
 隣の部屋は居住空間になっていて、机とソファが置いてあった。
(カカシさん、あそこで寝てるのかな…)
 大人一人が寝るには小さなソファに申し訳無くなった。カカシさんとは別々に寝ていた。ここに一つしかないベッドは、やはり大人二人が眠るには狭すぎた。家に帰れば、二人で眠れるベッドがあるのに。
「カカシさん…、俺の家はどうなってます?」
「ちゃんとあるよ。…帰りたいよね。でももう少し我慢して? 本当は入院して貰った方が良いんだろうけど、イルカ先生眠ったままだったから、医師になにも出来る事無いって云われて…。だったら傍に居てくれた方が良いから退院させたんです。でも任務があるから、ずっと傍にはついていられなくて…。ここだとオレが居ない時でも安全なんです。万一の時は防衛機能が働くから。元気になるまで、ここにいて欲しいです。イルカ先生、ダメですか」
 カカシ先生の説明を聞いて、目が覚めた時に密閉されてる気がしたのを思い出した。
(守られてるからだ)
「ううん、良いです。ここにいます」
 散々迷惑を掛けているのに、これ以上我が儘は言えなかった。それに眠ったままでも傍に居て欲しいと、思ってくれたのが嬉しい。
 アカデミーも休みだし、ここにいるのに不都合はなかった。
(それよりも早く体を治そう)
 そうすることが自分の為にもカカシさんの為にもなる…。
「……あの、一つだけお願いがあるんですけど…」
「なに?」
「時計を置いて欲しいんです。今何時なのか分からなくて…」
 驚く事に隣の部屋にも時計はなかった。上忍になると、時計を見なくても時間が分かるのだろうか。
「ああ、そんなこと。いーよ。今度来る時持ってくる」
「ありがとうございます」
(今度来る時…)
 カカシさんの言い方に違和感を覚えたが、その正体は掴めなかった。


 カカシさんが持って来てくれたのは、デジタル時計だった。針の方だったら、また正確な時間が掴めなくなるところだった。
 時計には日付と目覚まし機能が付いていて、俺は朝の六時にセットして、決まった時間に起きるようにした。
 初めて目覚ましを鳴らした朝、カカシさんが驚いて部屋に飛び込んできたけど、規則正しい生活をしたいと言えば、「真面目だなぁ」と言った。そして、なにか思い出したように小さく笑った。
 その時になって、最近カカシさんの笑顔を見ていないのに気付いた。前はもっと笑う人だったのに。
 俺の事故がカカシさんから笑顔を奪ったのだろうか。
 そんな風に考えるのは、おこがましい気がしたが、やはり早く以前の状態に戻るのが良いと、いつも同じ所に考えが行き着いた。
 筋力は徐々に戻って行ったが、なかなか歩けなかった。前は歩けるのが当たり前だったが、今はどうやって歩いていたのか思い出せなかった。足を一歩前に踏み出すのすら難しい。そもそも『歩く』と言う事を意識して歩いたことはなかった。
「半年も歩いてなかったんだから、仕方ないことなんだよ」
 焦る俺を宥めながら、カカシさんは根気よく付き合ってくれた。
 カカシさんはここにいる時間を、ほとんど俺に使っていた。それが申し訳無くて、せめて料理をしたいと申し出たが、体が不自由なのに火を使うのは危ないからと、やんわり断られた。
 車いすがあれば何とか出来ると思ったが、それも上半身の筋肉ばかり使うことになるからダメだと言われた。
「筋力に差が有るから、立った時に上手くバランスが取れないんだよ?」
 そう言われると、返す言葉がない。
「…でも、俺もカカシさんの役に立ちたいんです」
 ついつい拗ねると、カカシさんは嘆息しながら髪を撫でてくれた。
「言ったデショ? イルカ先生は傍に居てくれるだけでいいんです」
 それでもと言いたかったが、カカシさんが俺になにもさせる気が無い限り、これ以上は困らせるだけになりそうで口を噤んだ。
 カカシさんの任務は通常通りあって、三、四日部屋を開ける日もあった。その間、用があれば影が出てきてくれた。
 カカシさんが居ない間はトレーニングが休みになった。影を一日トレーニングに付き合わせるには、カカシさんのチャクラの消耗が激しかった。
 何の任務を受けているのか、カカシさんは土まみれになって帰ってくる日が多かった。里に何かあったのだろうか?
 聞いても「任務だから」と言って教えてくれない。俺に心配を掛けまいとしているんだろうけど、返って気になる。
 とても忙しいのか、帰って来ても俺を起こさずに出て行く日もあった。そんな日は、朝体を起こした時にパラパラとシーツに落ちる土でカカシさんの存在に気付いた。寝ている間に触れるのか、頬や首筋の辺りが汚れていた。
 カカシさんは、平静を装っていても疲弊していた。自分が何もせずにベッドの中で寝ているだけなのが悔しかった。



 俺は一人でトレーニングを始めた。ベッドに掴まりながら、ゆっくり足を運ぶ。全体重を足に掛けると膝が痛んだ。生まれ立ての動物のように震える足が不甲斐なくて腹が立つ。
「くそ…っ」
 痛みを我慢して足を踏み出し、体重を支えきれずにベッドから手が離れた。
「あっ」
 衝撃を予想したがどうにも出来なかった。大きな音を立てて倒れこむ。
「ぅ…」
 全身を打った痛みを堪えていると、ドアが開いて影が飛び込んできた。
「イルカ先生!」
 助け起こされ、ベッドに戻された。
「トイレに行きたかったの? 呼んでくれないと…」
 再び抱き上げられそうになって抵抗すると、影が眉を寄せた。
「…もしかして、一人で歩く練習してた?」
 責める声音に唇の端が震えた。いけないと思うのに、涙が溢れる。
「早く…歩けるようになりたいんです…っ」
 こんな自分は情けなくて嫌だ。泣く自分をますます嫌悪したが、一度溢れた涙は容易には止まらなかった。
「ひっく…ひっ…」
「焦らなくて良いって言っても焦るか…。あ、血が出てる」
 パジャマの膝から血が滲み出ていた。影がパジャマを捲ると、膝が擦り剥けていた。
「ちょっと待っててね」
 影は隣の部屋に行って、救急箱を持って来た。綿に消毒液を付けて、ちょんちょんと傷に触れる。血を拭い、傷の上にガーゼを当てて包帯を巻いた。血に汚れたパジャマは着替えさせられた。
「イルカ先生、トイレは? お腹空いてる?」
 そのどちらにも首を横に振れば、影は消えた。俺はベッドに潜り込んで泣き続けた。



 泣き付かれて眠ったらしい。さらりと冷たい手が頬を撫でた。思い出したように、ひくっと胸が震えた。
「…ごめんなさい」
 影の記憶はカカシさんに戻っているだろう。俺は謝ることしか出来なかった。怪我をして、洗濯物を増やし、余計カカシさんの手を患わせた。
「足は痛む?」
 首を横に振った。
「そう。化膿するといけないから包帯替えるネ」
 黙って頷くと、カカシさんは影がしたのと同じようにした。
「ばい菌が入るといけないから、今日はお風呂禁止だよ。…でも、ヒゲが伸びてるから剃ろうか」
 ちょっとぐらい伸びていても構わないと思って首を横に振った。これ以上、手を煩わせたくない。だが、カカシさんは立ち上がり、洗面器にお湯を張って持って来た。
 俺の体を起こし、ベッドの背に凭れさせる。シャクシャクと泡立てた石けんが頬や顎に塗られ、カミソリの刃が当てられた。
 静かな部屋の中で、ヒゲを剃る音だけがした。カカシさんの手付きは滑らかで、瞬く間に泡の面積が減っていく。
「…笑ってた」
「ン?」
 ふいに昔の記憶が浮かんだ。
「カカシさん、笑ってました…」
 俺が朝、洗面台の前でヒゲを剃っていたら、寝起きでボサボサの髪をしたカカシさんが背後に立った。俺を見て、自分のヒゲも剃ってくれと強請った。
 怖いから嫌だと断ってもしつこく強請る。あんまり強請るから、切っても知らないぞと脅しても、嬉しそうな顔で顎を出した。
 通常忍は他人にヒゲを剃らせない。床屋でもだ。相手に刃を握らせるのを嫌うからだ。
 それなのに、カカシさんは俺に刃物を持たせた。俺にヒゲを剃らせて、幸せそうに笑っていた。
 思い出して、涙がポタポタ出た。
「…そんなこともあったね」
 カカシさんは小さく笑って、俺のヒゲを剃り続けた。
「イルカ先生、泣いたら泡が流れちゃうよ」
 言われても、涙を止められなかった。カカシさんは諦めたのかカミソリを置いて、蒸したタオルで俺の顔を拭った。
「イルカ先生、泣かないで」
 カカシさんの手が頬を包み、涙に濡れた俺の唇を吸った。
「カカシ、さん…」
 久しぶりの口吻けだった。それで余計に悲しくなる。
「お、俺の事…、嫌いになったんですか?」
「イルカ先生を嫌いになんてなれないよ」
(じゃあ、どうして…?)
 優しいけれど、遠くに感じた。大切にされている。でもどこか違った。
 最近カカシさんの笑顔を見ていなかった。前みたいに、俺を見ても幸せそうじゃなくなっていた。
 カカシさんは何度も唇を啄んで涙を拭ってくれた。体を引き寄せ、腕の中に閉じ込められる。強く抱き締められても涙が止まらなかった。



 赤い炎が目の前まで迫って来ていた。危険を感じて身を翻すが、炎はどこまでも追い掛けて来た。
(カカシさんっ!)
 本能が一番大切な人に助けを求めた。周囲が赤く染まり、赤に飲み込まれる。
 強い恐怖を感じて、ビクッと体が震えた。
「どうしたの…?」
 体がガタガタ震えていた。そんな俺の体をカカシさんは強く抱き締めてくれた。
 目が闇に慣れる。いつの間にか明かりは消され、俺はカカシさんの腕の中で眠っていたようだった。
「…怖い夢を見ました」
「どんな夢?」
「たぶん事故の時の光景だと思います。赤い炎に飲み込まれて、逃げられなくなる夢です」
「そう…。PTSDかな」
「かもしれません…」
 事件や事故などで強い衝撃を受けたとき、後になってもその出来事を再体験する事があるらしい。俺は忍だから、そこまで弱いつもりは無いが、死に掛けたとなるとストレス障害が残るのかもしれなかった。
「大丈夫。時間が忘れさせてくれるよ」
「…そうですね」
 時間よりもカカシさんに抱き締められた方が事故を忘れられそうだった。
 抱き締められて、どれほどこの腕を欲していたか気付いた。昼間から引き摺っていた哀しい気持ちも落ち着いていた。
(ずっとこうしてて欲しいな…)
 カカシさんの胸に顔を擦りつけた。傍にいてくれるだけで、穏やかな気持ちになれる。
「…カカシさん、今日は一緒に寝て下さい…」
 断られるのを怯えながら聞いた。
「ウン。いーよ」
 額に唇が触れ、頭を抱き込まれた。それだけで、とても幸せな気持ちになる。この温もりを手放したくなかった。
「…目が覚めるまで、傍に居て下さい」
「安心して、ゆっくり眠って」
「はい…」
 ホッとして、まだ眠りたくないのに眠気が襲ってきた。真綿に包まれたような心地良い眠りの中に落ちていく。赤い夢はもう見なかった。
 




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