浮空の楽園 1






 目の前を赤が埋め尽くしていた。
 それはあっと言う間に俺を飲み込み、やがて意識が途切れた――。



第一章




 はっと瞼を開いて辺りの様子を見回した。石の天井に石の壁。そこは見たことの無い部屋だった。
(どこだろう…? ここ…)
 地下なのだろうか。部屋には窓が無く、外の様子は窺い知れなかった。扉は一つきりで、向こう側の気配を探っても、なにも感じられない。まるで閉じ込められたような密閉感があった。
 部屋には時計すら無く、今が昼なのか夜なのか分からなかった。
 俺は白いベッドに寝かされていた。病院に置いてあるようなパイプベッドだった。
 体を見下ろすが、特に怪我をしている様子はない。
(何があった…?)
 思い出そうとするが、目覚めたばかりの頭はぼうっとした。意識の中にあるのは赤い色だけだった。さっきまで夢の中で見ていた色。あれは一体なんだったのか。
 体を起こそうとして、筋肉が強張っているのに気付いた。本当にどれほど眠っていたのか。
「ぅ…」
 軋む体に小さく悲鳴を上げると、ドアが開いた。入ってきたのは見慣れた姿で、ほっと体から力が抜けた。
「カカシさん」
「イルカ先生…! まだ寝てなくちゃダメですよ」
 酷く焦った顔で言われて、アレ? と思った。一体何があったのだろう。
「カカシさん、俺、どうしたんですか? なんにも覚えて無くて…。それに、ここはどこですか? 」
「心配しなくていいよ。ここはオレの隠れ家の一つです。イルカ先生は事故に遭ったんだよ。覚えてる?」
「事故?」
「そう」
 優しくベッドに寝かされて、記憶を掘り返した。カカシさんの手が労るように額を撫で、心地良さに身を委ねている内に、うっすらと記憶が蘇った。
 俺は緑の森の中を駆けていた。
「あ…、俺、任務で花の国に巻物を届けようとして…」
 その日、動ける忍が出払っていたから、受付に座っていた俺が任務を引き受けた。
 任務は簡単なもので、書簡を他国に届けるものだった。ランク的にはCで充分だったが、距離が遠いのと急ぎだったのでBランクに設定されていた。
 往復でも三日ほどあれば帰って来られるものだったが――。
「無事巻物を渡して…、その後どうしたんだっけ…? 竜の森を通ったと思うんですけど…」
 その後がどうしても思い出せなかった。いくら思い出そうとしても、緑の森を走っている所で記憶が途切れた。
 困ってカカシさんを見上げ、どこか虚ろな瞳に出会った。
「…そこで他里の小競り合いに巻き込まれたんです。爆発に巻き込まれて…、イルカ先生が怪我を……」
 カカシさんの指先が冷たく震えていた。
「カカシさん…?」
「オレはその時任務で里外に出てて…、帰ってきたらイルカ先生が戻って来てないって聞かされて、探しに行って…それで…それで…」
「カカシさん!」
 苦痛に顔を歪めたカカシさんに、軋む体を起こして震える背中を抱き締めた。
(カカシさんが俺を見つけてくれたのだろうか?)
 だとしたら、どれほどカカシさんを傷付けただろう。
 日頃から優しい人だった。特に俺に対しては愛情が深く、俺が死ねば一緒に死ぬと言っていた。
 俺がそれを冗談として笑い飛ばせば、カカシさんも一緒に笑っていたけど、本当はカカシさんが冗談で言ってるんじゃないと気付いていた。
 俺も同じ気持ちだったから。
 俺達は一緒に暮らしていた。俺とカカシさんは恋人同士だった。男同士だったけど、互いに無くてはならない存在だった。ずっと傍にいると心に決めていた。
 愛していた。
「ごめんなさい、カカシさん、ごめんなさい。心配掛けました。でも、もう大丈夫です。こうして元気になりました。助けてくれて、ありがとうございます。もう大丈夫だから、心配しないで…」
 言い続けながら、カカシさんの背中をさすった。いつもより丸まった背中は強張って、哀しみに満ちていた。
 きっと怖い思いをさせてしまった。
「もうどこにも行きません」
 本当はカカシさんに黙って任務を受けるのを禁止されていた。俺も忍だったから、それは聞けないと断っていたけど、これほど哀しい思いをさせるのなら、もう二度と受けなくても良い。
 そう思える程カカシさんの落ち込み様は酷くて、俺はいつまでもカカシさんを慰め続けた。



 ひた、と頬に触れる冷たい感触に目を覚ました。いつの間にか眠ってしまったらしい。
 瞼を開くと、俺の顔を覗き込んでいたカカシさんが、濡れたタオルで頬を拭っていた。
「起こしちゃった…。ゴメンね。汗掻いてたから…」
 押し付けられるタオルが心地良かった。
 また夢を見ていた。赤に飲み込まれる夢だ。あれはなんだろうと考えて、思い当たるフシがあった。
 カカシさんは俺が爆発に巻き込まれたと言った。
(あれは迫り来る炎じゃないだろうか…)
 気付かずに爆発したのなら、あっと言う間に炎に飲み込まれただろう。
 そう考えるとぶるりと体が震えた。今頃になって、死に直面した恐怖が湧き上がる。
「寒い?」
 心配そうに見つめるカカシさんに、ううんと首を横に振った。カカシさんには言えない。カカシさんに事故の話は禁句だと感じた。
 これ以上哀しい思いをさせたくない。
 そっと汗を拭うカカシさんに、無性に甘えたくなって両腕を伸ばした。屈んでくれたカカシさんの首に腕を回して引き寄せる。胸の上にカカシさんの上半身が乗って、体重を受け止めた。
 体温を感じるのはいつ振りだろう。
 一緒に眠って欲しかったが、このベッドでは狭かった。
 ふと、カカシさんがどこで寝ているのか気になり、一つきりしかないドアを見つめた。いつもなら、どんなに狭くても、隣で寝ようとするのに。
 布団に潜り込んでくるカカシさんの姿を思い出した。俺を抱き締めて離さなかった。
 寂しさを感じて、ぎゅっとカカシさんの背中を抱いた。やっぱり一緒に寝て欲しくて、そのままベッドの端に寄れば、カカシさんが体を浮かせた。
「カカシさん…」
 覗き込んでくる瞳に訴えかけた。ふっと表情を緩めたカカシさんが、ベッドに乗り上げる。横たわる体に腕を回して、胸に顔を埋めた。
 くんと深く息を吸い込めば、カカシさんの匂いで胸がいっぱいになる。頭にカカシさんの頬が触れ、背中に腕が回った。あやすように背中をトントン叩かれる。
(子供じゃないのに…)
 可笑しくなってカカシさんを見上げた。子供扱いしないでください、そう言おうとしたけど、目を閉じたカカシさんが泣いてる気がして何も言えなくなった。
(カカシさん…、俺はもうどこにも行きません)
 慰めたかったけど、言葉では慰めきれない気がして口を閉ざした。それよりも俺の存在を感じて貰う方が確かだ。
 もう一度胸に顔を埋めて、背中を抱く手に力を入れた。
(俺はここにいます)
 トクトク響く鼓動を聞きながら、何度も胸の中で繰り返した。



 目が覚めた時、カカシさんは隣にいなかった。いつベッドを抜けだしたのか。
(もう朝になったのかな…)
 石で囲まれた部屋を見回して途方に暮れる。せめて時計を置いて欲しかった。今まで眠っていたので必要なかったのかもしれないが、起きている間は時計が見たい。
 今度持って来てくれるように頼んでみようと決めて、体を起こした。腕を突いて体を支えると、揺れるベッドがギシギシ音を立てた。
「起きた?」
 ドアが開いてカカシさんが顔を覗かせた。
「はい…」
 すぐにカカシさんは俺の体を支えて、ベッドの背に凭れさせた。背中に枕が宛がわれる。
「どこか痛いところはない?」
「はい」
 体中の神経を巡らせてみたが、痛みはどこにもなかった。
「そう。お腹空いてる?」
(お腹…)
 空いているのだろうか?
 腹に手を当てて考えるが、特に空腹は感じなかった。
「いえ…」
「ご飯作ってあるから、いつでも言ってね」
 言われた途端に、ぐぅ〜と腹が鳴った。
「こ、これは…!」
 現金な腹の虫に顔を赤くすると、カカシさんが「待ってて」と部屋を出て行った。
 戻って来たカカシさんは土鍋を乗せたトレイを持って来た。蓋が開き、ふわっと湯気が立ち上がる。レンゲで掻き混ぜながら装ってくれたのは、お粥という寄り重湯だった。
「急に固形物を食べると体が吃驚するから。熱いから気を付けて」
「はい」
 手渡された重湯をふぅふぅしながら食べた。温かな重湯が体に染みていく。
「…カカシさん、俺、どのぐらい寝てたんですか? 今までご飯はどうしてたんですか?」
 カカシさんの言葉が気になって聞いた。まるで俺がずっと食べていなかったみたいな口ぶりだ。体に傷がないから、爆発に巻き込まれたと言っても軽傷だと思っていたが、違うのだろうか。
 それにアカデミーもどうなっているのだろう?
 腹が膨れるにつれ、気になることがたくさん出てきた。
 あまり聞くのはカカシさんを刺激するようで気が引けるが、自分の置かれた状況を知っておきたい。
「…イルカ先生は半年ほど眠ったままだったんだよ」
「半年!?」
 思いがけない年月に声を上げた。
「そんなにも眠ったままだったんですか? アカデミーは?
俺のクラスはどうなったんでしょう?」
「変わりの担任が就いたみたい」
「そ…そうですか…」
 当然だろう。半年も休めば担任も替わる。
「イルカ先生、今は体を治す事を考えて」
 慰めるようにカカシさんが背中を撫でてくれたけど、さすがに落ち込んだ。
「俺…そんなに悪かったんですか?」
「外傷は無かったけど、頭を打ったらしく目が覚めなかったんだよ。寝ている間に筋力が衰えてるから…ネ? 焦らず、ゆっくり体を治そう?」
 繰り返し慰められて頷いた。
「カカシさん、半年もの間、面倒を見て下さってありがとうございます。大変だったでしょう?」
「ううん。大変なコトなんてなにも無いよ――」
 なにか言いたげなカカシさんに首を傾げた。
「イルカ先生が生きてくれれば…、それだけでオレは…」
「カカシさん!」
 カカシさんの深い愛情に胸がいっぱいになった。一緒に暮らしている頃から家族のように思っていたが、カカシさんも同じように大切に想っていてくれた。
 眠ったままの人間の世話なんて、相当大変だっただろう。任務だってあったはずだ。捨てる事だって出来たのに。
「カカシさん、ありがとうございます。ありがとうございます」
「ウン。だから早く体を治して、前みたいに元気になってネ」
「はい」
 頷く俺に、カカシさんがホッとした顔をした。  




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