浮空の楽園 18







 面を付けるように言われて部屋から取ってきた。先を歩く本物の後について火影の家を出る。
 通りを歩くと、面を付けた俺を見て振り返る人もいたが、本物は気にしなかった。
 本物は木の葉商店街に寄って買い物を始めた。久しぶりに歩く商店街は懐かしくて、店の中に見知った顔を見つけては、里にいるのに郷愁の念に駆られた。
 当たり前に生活していた時は気付かなかったが、俺はこの里をとても大切に思っていた。
 買い物を終えた本物が歩き出した。この方向は家じゃないだろうか?
「あの、どこへ…」
 何と呼び掛けて良いのか、またどう話し掛けて良いのか分からなかった。敬語で話した方がいいのだろうか。
「帰るんだよ」
「そう…ですか」
 とりあえず敬語にしてみたけど、本物は何も言わなかった。
「荷物、俺も持とうか?」
「そうだな」
 普通に話してみても、何も言われなかった。食材の入ったビニール袋を一つ渡される。あとは黙ってついていった。
(もしかしたら、カカシさんに会えるかも…)
 期待が込み上げる。でもそんなに都合良く行くはず無かった。俺だったら、会わせたいと思わない。
(カカシさんは任務かも…)
 期待しすぎるのは止めよう。
 だけどアパートに近づいて、胸がドキドキした。怖くなるほど睨まれたばかりなのに、甘い期待で胸が疼いた。
(嫌われても良い。カカシさんに会いたいよ…)
 緊張しながらアパートの階段を上った。台所の部屋から明かりが漏れているのが見えた。
(カカシさんがいる!)
 心臓が早鐘を打った。本物がドアを開けて中に入る。
「おかーえりー。遅かったね」
 カカシさんの声と足音が近づいて来た。本物の背中から中を覗き見ると、俺を見て、笑顔だったカカシさんの顔が強ばった。
「…どういう事?」
「連れて帰って来た」
「連れて帰って来たって…」
「入れよ」
「イルカ!」
 俺に声を掛けて、さっさと中に入った本物の後をカカシさんが追い掛けた。
(…分かってる)
 カカシさんに歓迎されないと。でも俺はサンダルを脱いで中に入った。
「イルカ、ちゃんと説明して。またケンカしたいの? やっと仲直りしたばかりじゃない。…まだ怒ってる? オレを責めてるの?」
「そうじゃない。精神的に不安定になってるみたいだったから連れて来たんだよ。…他に、支えられる人はいないだろう?」
「イルカ!」
「やめよう。彼が不安に思う」
「でも…っ」
「カカシ」
 本物が強く名前を呼ぶと、カカシさんは黙った。遣りきれない表情で、納得していないのは明らかだった。
 俺はぽつんと玄関に立ったまま、二人の遣り取りを見ていた。ケンカの原因は俺で、ひしひしと身の置き場が無いのを感じていた。
「こっちに来いよ。もう面は外していいぞ」
「…うん」
 呼ばれて居間に入った。カカシさんは俺を嫌うようにふいっと背を向けて寝室に入った。
 涙が出そうになるが、堪えて面を外した。
「…酷い顔だな。洗って来いよ」
「……」
 黙ったまま洗面台に向かった。今にも泣き出しそうになりながら顔を洗った。
 でもこの部屋の中で泣きたくない。
(絶対泣かない)
 決心して水道を止めた。タオルを取って顔を拭く。
 久しぶりに帰って来た自分の家だったが、見ず知らずの場所に来たみたいに余所余所しかった。
 すべては覚えている位置にあったが、俺が使っていた物はなくなっていた。歯ブラシの色が違う。
 二本並んだ歯ブラシに、また泣きそうになる。
(泣かない!)
 ぐっと歯を食いしばって、居間に戻った。寝室を覗くと、カカシさんはこっちに背を向けてベッドに横になっていた。
 本物は夕食の用意を始めている。
「お、俺もなにか手伝おうか…?」
 手持ち無沙汰になって本物に聞いた。
「…じゃあ、風呂を沸かしてくれるか?」
「うん」
 逃げるように風呂場に入って浴槽を磨いた。少しでも役に立ちたかった。
(何でも良いから、カカシさんに認めて欲しい…)
 そう思ったら涙が出てきて、シャワーを出した。水がタイルを叩く音に隠れ、声を押し殺して泣いた。
 すごく邪魔にされていた。カカシさんに俺への愛情が残ってないのを感じた。
(分かってたけど…)
 やっぱり分かって無かった。もしかしたら、と期待するのを止められない。
(明日になったら帰ろう…)
 俺はここにいない方がいい。でも一晩だけでもカカシさんと一緒にいたい。
 どうしてここまで嫌われてまで一緒にいたいと思うのか、自分でも分からなかった。
 ただただカカシさんが恋しくて堪らない。
 少しで良いから、もう一度カカシさんの愛情を感じたかった。
「お前、また…」
 本物の声が聞こえて、ビクッとした。振り返ると、本物が呆れた顔で俺を見ていた。
「泣くのはやめろよ」
 タオルを顔に押し付けられる。
「う、…うん…っ」
 ゴシゴシ擦って涙を拭いた。
「このまま風呂に入れ。そんでその顔なんとかしろ。シャワー浴びてる内に風呂も溜まるだろ。着替えは用意しておくから」
「う…ん、…ありがと…」
「……いいよ」
 一人になって一頻り泣いた。頭からシャワーを浴びて、涙が流れるまま流した。全身を洗って、溜まった湯船に浸かる。
 その頃になると、少しだけ気分が落ち着いて涙が止まったが、しゃくり上げる音が浴室に響いた。
「……ひくっ…ひぃっく…」
 静かにしても、二人の声が聞こえて来なかったから、少しだけホッとした。ケンカはして欲しくない。
 カカシさんの険しい声を聞きたくなかった。それは本物に言っていても、俺への非難と変わりなかったから。
「ひっく……」
 ようやくしゃくり上げるのが止まり、冷たい水で瞼を冷やした。
(せめて笑って過ごしたい)
 最後の一日になるなら、笑ってる俺をカカシさんに覚えていて欲しかった。
 泣きすぎた瞼の腫れは簡単に引くものでもなく、途中で諦めて風呂から出た。脱衣所に置いてある洗濯機の上に新たらしい下着と忍服が出してあり、それに着替えた。
 居間に行くと良い匂いがして、卓袱台に三人分の食事が用意してあった。
「そこに座って」
「うん」
 本物は俺の席を指差し、寝室にカカシさんを呼びに行った。体を揺さぶられ、体を起こしたカカシさんがベッドを降りた。
 不機嫌な顔をしていたが、居間に入ってきたカカシさんにホッとした。俺を避けて、一緒に食事を摂らないかと思った。
 三人で卓袱台を囲んで、箸を取った。ご飯を食べている間、カカシさんは始終無言で、話し掛けられる雰囲気じゃなかった。でもカカシさんの傍に居るのは嬉しい。
 俺は本物に聞かれて、五代目の手伝いをしていることを話した。
「火影の家の書庫に住まわせて貰ってるんだ」
「ああ、あそこか。三代目が生きている頃に、良く入らせて貰ったな…」
「……」
 同じ記憶を所有していて、俺は自分がこの人から作られたのを実感した。
 同じ顔、同じ髪、同じ目の色。背丈も一緒。肌の感じが少し違っていた。同僚が俺に若返ったかと聞いていたのを思い出す。
 俺はおそらく事故に遭う二年ぐらい前の細胞で作られたんじゃないだろうか。記憶が曖昧になるのが大体そのぐらいからだ。
 後から作られた俺が、本物の記憶を持ち合わせているのは不思議だった。遡れば、子供の頃も思い出せた。
 でもこれは本物には言わない方が良いのかもしれない。
 自分の記憶を他人が持ち合わせていたら、気持ち悪いだろう。
 人が嫌がる事をするのは嫌だ。俺がそう思うのは、きっと本物がそういう人だからだろう。
(同じ人柄を持ち合わせても、尚…)
 俺と本物は区別されてしまった。
 俺と本物がご飯を食べている間に、カカシさんは食べ終えて、席を立った。
「どこいくんだ?」
「お風呂に入ってくる」
 本物は「ふ」だか「ん」だか、音のはっきりしない返事をして、ご飯を食べ続けた。
「あの、なんで敬語で話さないんだ?」
 俺はカカシさんと話す時は敬語で話した。最初出会った時からそうだったから。それに尊敬する人でもあったし、そうするのが自然だった。
「え…、なんでだったかな…。いつからだろう…。気付いたら普通に話してた。付き合いも長いし、いつまでも敬語って変だろ」
「そっか…」
 たぶん、その差が俺と本物の差なんだと気付いた。カカシさんが大切にしているのは、二人で築き上げた関係なんだと。
 たまらなく寂しい気持ちになる。せめて俺をもっと最近の細胞で作ってくれてたら、状況は違ったかもしれない。
 食事が終わると、後片付けを買って出た。その間に、本物は居間に布団を敷いた。
 お客さん扱いだと思ったが仕方ない。本物はベッドでカカシさんと寝るのかとも思ったが、それも仕方なかった。
 皿を洗い終えて居間に行くと、本物が顔を上げた。
「ここで寝て」
「うん。…今日はありがとう」
 家に連れてきて貰えて良かった。カカシさんに会えて、随分気持ちが落ち着いた。本当は俺をカカシさんに会わせたくなかっただろう。侵入者と間違われて拘束された時、俺がカカシさんと住んでいると知って、とても傷付いた顔をしていたから。
 俺が礼を言うと、本物が何とも言えない顔をした。
「お前――」
 本物が何か言い掛けた時、カカシさんが風呂から上がって居間に入ってきた。不機嫌な顔のまま通り過ぎて、寝室に入る。
「…さて、俺も風呂に入ってくるかな。寝たかったら先に寝ていいから」
「うん」
 本物が行ってしまうと、カカシさんと二人きりになった。寝室に続く襖は開いたままで、ベッドに腰掛けて髪を拭くカカシさんの姿が見えた。
「…カカシさん、あの……」
 恐る恐る話し掛けたが無視された。あんなに優しく笑ってくれたのに、今は他人よりも冷たかった。
 それでも何か話したかった。最後の機会になるかもしれないから、ちゃんと心に残るように…。
 でも話す言葉が見つからない。頭の中を必死に探したが、会話になりそうな事がなかった。頭に浮かぶのはただ一つ。それが胸一杯に広がっていく。
「…カカシさん、好きです」
「やめろ」
 カカシさんが言った。拒絶の言葉だったけど、俺に向けて言ってくれた言葉だった。
「ごめんなさい…。でも好きです…」
 どんなに嫌われても、それだけは変わらない。
「やめろと言ってるだろう。どうして来た? オレが歓迎するとでも思った?」
「ちが…っ」
 思って無い。むしろ嫌われると思った。
「でも、会いたかったからっ」
「やめろ!」
 怒鳴られて涙が出た。カカシさんの苛立ちがひしひしと伝わって来る。
「どうして…!」
 どうしてそんなに冷たく出来るのだろう。本物が帰ってくるまでは、あんなに大切にしてくれたじゃないか。
 愛してると言ってくれた。将来の夢だって語り合った。
 本当は全然納得出来なかった。本物を見たその一瞬で、俺は捨てられてしまった。
 俺の気持ちは全然変わらないのに。
「どうして俺がカカシさんを諦めなくちゃいけないんですか! まだ好きでたまらないのに!」
「この…っ」
 カカシさんから怒気が噴き出して、身が竦んだ。怖かったけど、頭の何処かが冷静で、このまま俺を処分してくれないかと思った。
(カカシさんが消してくれるなら、良い)
「どうして泣かせるんだよ!」
 本物の怒声が響いて、カカシさんの動きが止まった。




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