浮空の楽園 17





 五

 半年が過ぎた頃、書庫の整理にも目処が付いて、五代目の仕事を手伝うようになった。
 執務室に入る機会も増え、俺は渡された面を着用した。髪も下ろし、一見して『イルカ』だと分からなくした。
 執務室では以前の同僚にも会ったが、誰も俺に気付かなかった。おそらく面のせいで暗部だと思われてるんじゃないだろうか。
 それに俺の存在は誰にも知られず、彼らの職場には本物のイルカがいるから、俺を『イルカ』だと疑う要素がなかった。
 カカシさんは俺がここにいるのを知ってるからか、それとも会わないように配慮されているのか、執務室や火影の家で見かける事は無かった。
(会いたいな…)
 そう思う気持ちは消えなかった。カカシさんが今でも好きだ。それは一生変わらない。



「あ、この書類…」
 五代目の机を整理している時に、一枚の書類が出てきた。たしか会議で必要になると言っていた。
 迷ったが、俺は書類を持って会議室に向かった。火影の家から出るのは止められていたが、必要な書類を持って行くという大義名分が俺の気を緩めた。
 会議室は受付所のある棟にあった。
(もしかしたら、カカシさんに会えるかもしれない…)
 期待せずにはいられなかった。チラリとでも良い。カカシさんの姿が見たい。
 火影の家から会議室はすぐだった。俺は通りを歩かずに、屋根伝いに移動した。その方が目立たないと思った。
 途中アカデミーが見えて懐かしくなった。本物はあそこで授業をしているだろうか?
 校舎を過ぎ去り、受付所の棟に降りた。屋上から中に入り、階段を下りた。渡り廊下を歩いて、会議室に向かう。
 気分が高揚して浮き足立った。
「止まれ」
 突然制止を掛けられて、ビクッとなった。暗部が音もなく目の前に降り立った。
「どうしてここにいる。家から出ないように言われているだろう」
 見たことのある暗部だった。時々俺に食事を持って来てくれる人だった。
「あの、五代目の忘れた書類を届けに…」
 懐から出して書類を見せると、暗部の手に移った。
「これは俺が持って行く。お前は家に戻れ」
「…はい」
 あからさまに非難する気配にがっかりした。言葉を交わした事はないが、優しい人なのかと思っていた。
 他人に危害を加えたり、里に迷惑を掛けたりしないのに。
「申し訳ありませんでした…」
 踵を返して、来た道を戻った。カカシさんの姿を見られなかったのも残念だった。
 外に出る機会なんて、次にいつ訪れるか分からなかった。
(カカシさん…)
 会いたいと強く願った。
(一目で良い。カカシさんに会いたい)
 そんな俺の願いが叶ったのか、渡り廊下を歩いている時に、中庭を横切っていくカカシさんの姿を見かけた。
「カカ…」
「イルカ!」
 名前を呼ばれて、心臓が壊れそうになるほど跳ねた。だが、カカシさんの視線の先に本物のイルカがいた。
(そうだ…。俺は呼び捨てにされなかった…)
 きっとカカシさんは、俺と本物を呼び分けていたのだろう。
 足を止めた本物がカカシさんを振り返り、本物に追いついたカカシさんが嬉しそうに笑った。二人が並んで歩き出す。
 幸せそうなカカシさんの横顔を食い入るように眺めた。カカシさんは本物に夢中で、俺が見ているのに気付かない。
 切なさで胸が捩れた。声を上げれば届く距離にいるのに、声を掛けられない。カカシさんの声すら聞こえなかった。
 もう一度、俺を見て欲しかった。
(俺だって、カカシさんの傍にいたのに…)
 本物が帰って来なければ、隣を歩いていたのは俺だ。幸せだった日々を返して欲しかった。
(本物なんて、いなければいいのに!)
 刹那、カカシさんが視線を上げて、俺の心臓は凍り付いた。面越しに視線が合う。
 カカシさんが僅かに目を見開いて、――殺気が解けた。視線はすぐに外され、何事も無かったように通り過ぎて行く。
 本物は俺に気付きもせず、ただ笑っていた。カカシさんに話し掛けられて、楽しそうに…。



(いらない、いらない! いらない!!)
 部屋に帰って散々泣いた。
 消えてなくなりたかった。自分という存在を消し去りたい。カカシさんに必要とされないなら、俺なんて要らない。
 俺は用済みだ。
 本物が不在の間、カカシさんの心を支えるために作られた。本物が帰ってくれば、ニセモノなんて必要ない。
 分かっているつもりだったけど、心が理解していなかった。
 いつか迎えに来てくれるんじゃないかと期待していた。
 だけどそんな日は来ない。それが良く分かった。
(もう終わりにしたい)



 五代目が戻って来るのを待って、執務室に向かった。泣き腫らした俺の顔を見て、五代目は何が起こったのか理解しているようだった。俺を見る目が『馬鹿な子だね』と言っていた。
「五代目、俺を処分してください。もう存在していたくないんです」
「出来ないよ。私はお前を人間だと思ってる。処分なんて言うんじゃないよ」
「違う! 俺はクローンだ! 人間じゃない!」
「人間だよ! ここで一緒に暮らしてきて、私はそう確信している。人となんら変わりない。殺すことなんて出来ないよ。お前は人間だ」
「…そんなの…何の意味もないじゃないですか…」
 人間かどうかなんて重要じゃなかった。俺はカカシさんに必要とされていない。
 人間になんて、なれなくて良かった。本物のイルカにもなれなくてもいい。
 俺はカカシさんに必要とされたかった。本物で無くても良いから、俺を好きだと言って欲しかった。
 わあわあ声を上げて泣いた。全身が切り刻まれたように痛かった。この痛みで消えてしまえれば良いのに。
「お前はどうしてそこまでカカシを好きになってしまったんだい…」
 五代目の弱り果てた声が聞こえた。立っている気力も失い、床に突っ伏して泣いた。
 ノックが聞こえて、誰か部屋に入って来た。俺が騒いだから、このまま連行されるのかもしれないと思った。だが、
「…五代目」
 聞こえて来た声に体を震わせた。恐る恐る顔を上げ、そこに本物のイルカが立っているのを見た。
(どうしてここにいるのだろう…?)
 俺に視線は向けず、本物は淡々と言った。
「私にコ…この人を預からせてください」
「…どう言う気だい?」
 五代目が怪訝な顔で本物を見ていた。俺も同じだった。内心自分の手で俺を始末しに来たのかとさえ思った。
「精神的に不安定になっているようだから…。こうなった責任は俺にもありますし。…立て」
 本物は五代目の返事を待たずに俺の腕を引いた。
「おい、イルカ。私はまだ返事をしていないぞ。ソイツは預けられない」
「責任は持ちます」
 本物は、俺の腕を引いて執務室を出た。




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