浮空の楽園 15
三
俺と本物の体が調べられた。その結果を、まるで他人事の様に聞いていた。
「二人の遺伝子はまったく同じです。遺伝子学上、二人は同一人物であると言って差し支えありません。強いて違いを言うならば…、遺伝子の中に寿命を表す染色体があるのですが、この長さがクローンの方が僅かに長いです。おそらく彼は、うみの中忍が若かった頃の細胞を使って作られたのでは無いでしょうか」
「分かった。もういい」
「これはすごい成果です。今までヒトのクローン研究は禁忌とされ、誰も着手しませんでした。ですが、この技術があれば、医学の大きな発展に繋がるでしょう」
「もういい」
(そうか…)
「特に臓器移植の分野では、本人からの移植なら免疫反応も少なく、成功の確率が飛躍的に上がるのは間違いありません。どうでしょう…? クローンを我々に預けて頂けま…」
(俺はモルモットになるんだ)
「もういいと言ってるだろう!!」
突如激昂した五代目の拳が重厚な執務机を打ち砕いた。
辺りに木片が飛び散る。
「この件は、他里の者がイルカに成りすまして侵入したものとして処理をする。それ以外の事は一切の口外を禁じる。いいな、分かったか!」
「は、はい!」
白い服を着た医療班が部屋を出て行った。残されたのは俺と本物のイルカだけで、五代目が本物のイルカに向き合った。
「イルカ、せっかく帰ってきてくれたのに悪かったね。今日は家に帰ってゆっくりしてくれ。追って連絡する」
「…わかりました」
(家…、俺の…家……)
日の当たる温かな空間を思いだした。
(もう…、俺の家じゃない…)
きっと他にも聞きたい事や言いたいことがあったと思うけど、本物のイルカは何も言わずに執務室を出て行った。
(俺はどうなるのだろう…)
居場所も住む所もなくなった。どうやらモルモットは免れたらしかった。
「…済まない。お前をこのまま外に出す訳にはいかなくなった。お前にはこの家に住んでもらう。最上階に部屋があるのを知ってるかい?」
「…はい」
「そうだね。お前は三代目に仕えていたからね」
でもそれは、本物のイルカでこの記憶もイルカのものだ。
(俺は…)
「そこに寝泊まりをして、私の仕事を手伝っておくれ」
「…わかりました」
「部屋は好きに使ってくれていいよ。しばらく使っていなかったからね。掃除をしておいで」
「はい…、…あの、」
「なんだい?」
「……カカシさんは…?」
「アイツが心配かい?」
聞かれて、こくりと顎を引いた。
「カカシにはしばらく地下牢にいて貰う。火影に一度ならず二度も虚偽の報告をするなんて、許されないからね。頭を冷やせってんだ」
「そうですか…」
ペコリと頭を下げて部屋を出た。左右を見ても誰もいない。階段を上って最上階に向かった。
この部屋は書庫で三代目が息抜きをしたい時に使っていた部屋だった。ずらりと壁に本棚が並び、大きなソファと小さな窓がいくつかあった。
(変わらないな…)
そう思うのが、誰なのか分からなくなった。窓の外は日が暮れかかり、山に夕日が落ちていく。オレンジ色の光が差し込んで、床に四角を描いた。
(カカシさん…)
銀色の髪を思いだした。夕日に染まって、とても綺麗だった。
たった一日で、すべてを失ってしまった。前の時とは違う。カカシさんが傍にいない。
「カカシさん…っ」
聞きたい事がたくさんあった。
クローンってなんですか?
どうしてそんなものを作ったんですか?
俺を愛してくれてたんじゃなかったんですか?
あれは全部嘘だったんですか?
涙が止め処なく溢れた。
どうして俺が本物のイルカじゃなかったんだろう。
カカシさんが本物を抱き締めた腕を思い出した。強い力で、愛しさに溢れていた。写輪眼なんて使わなくてもすぐに気付いていた。何が俺と違うのだろう? 医療忍は遺伝子がまったく同じだと言っていたのに。
日が沈んで、部屋の中が暗くなった。泣き疲れて息をするのもしんどいのに、涙だけは溢れ続ける。
足音が聞こえた。
顔を拭い、階段を見ていると人影が現れた。五代目だった。
「イルカ、下に下りて、一緒にご飯を食べないかい?」
「…いえ、今日は食欲が無いので…」
「そうかい? じゃあ後でお粥でも届けさせよう。それからこれを使うと良い」
毛布を手渡して、五代目は階段を下りて行った。また部屋が静寂に包まれる。
(俺は…まだ『イルカ』と呼んで貰えるのか…)
広げた毛布にくるまって、ソファに横になった。
(目が醒めたら、全部夢だったら良いのに…)
誰かが俺の頬に触れていた。
(ああ、カカシさんだ…)
カカシさんはクセになったように俺の頬に触れた。朝起きた時や、ちょっと離れる時とかに、さらりと指先で触れた。
瞼に光が当たっていた。
(朝になったんだ…)
早く起きてカカシさんに「おはよう」って言おう。カカシさんの笑った顔を見よう。
…でも、どうしてこんなに気が重いのだろう。
「かかしさん…」
起きたく無いのは何故だろう。哀しい気持ちが込み上げるのは何故だろう。
ふわりと意識が浮上した。瞼が腫れぼったくて、開こうとしても開かなかった。
薄く開いて、見えた光景に絶望する。
(ああ…、夢じゃなかった…)
また涙が溢れ出した。もうあのベッドには戻れない。優しい朝の光景なんてやってこない。あの腕に戻る事も、笑い合って、夢を語ることもない…。
ポケットから潮の里の写真を出した。青い空と海の景色は定期券入れの中に変わらずあった。検査の時にクナイや武器になる物は全部没収されたけど、これは取り上げられなかった。
(良かった。肩身離さず持ってて…)
定期券入れを買う時に写真立てにしようか迷ったけど、こっちにしておいて良かった
これだけが、俺に残されたカカシさんとの思い出になった。あとは何も残っていない。
(あの家にあった物は処分されるだろうか?)
そう考えて、俺だったら処分すると思った。恋人が他の誰かと使ったものなんて置いていたくない。
きっと本物は複雑な気分でいるだろう。あの人が里に戻って来たのはカカシさんがいるからだ。俺には分かった。
(カカシさんに会いたい一心で戻って来たんだ…)
でも、戻って来て欲しく無かった。一生思い出さないでいてくれたら良かったのに。
人の不幸を願う浅ましさを嫌悪した。もしかしたら、カカシさんは俺の心の醜さに気付いて、『違う』と思ったのかもしれない。
(カカシさん…)
俺はアナタにとって、どういう存在だったんだろう。
少しは愛しいと思って貰えただろうか。
カカシさんとの日常を思い出している内に、洗面台での光景が蘇った。朝、髭を剃っていると、カカシさんが自分の髭も剃って欲しいと言ってきた。
(どうして気付かなかったんだろう…)
あれは俺の視点じゃない。
(鏡を通して見たカカシさんの視点だ…)
他にも考えるとおかしい記憶が幾つかあった。俺に足りない記憶を、自分の記憶で補ったのだろう。
(俺って本当にカカシさんに作られたんだなぁ)
もう涙も出なかった。
心が抜け殻になったみたいに虚ろになった。
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