時を重ねた夢を見る 9





 塞がった喉がひゅっと乾いた音を立てた。
 熱い。それに苦しい。
 だけどなにより苦しいのは哀しみに捩れた胸の方だった。
 痛くて涙が溢れる。

 冷たい手が頬に触れた。
 良く知った、その温度。

 苦しいの?イルカ先生

 失ってしまった優しい声に哀しみが溢れた。

 いかないで・・いかないで カカシさん・・

 暗闇の中、手を伸ばしてその人を探す。
 腕がその人の体を捕まえた。
 離れないようにしっかりしがみ付く。

 せめて夢の中だけでも離れなくて済むように。




**




「悪いんだけど、タオル濡らして来てくれない?・・オレ、動けないから――」
「え――」
「熱がすごく高い――冷やさないと――・・」

 遠くで声が聞こえた。カカシさんと、彼女の声。ぼそぼそと低い声で。

「早くしてくれない?」
「知らないのよ――どこにあるのか――」
「そこの棚の上から2番目。――来た事ないの?」
「・・・・・ないわ――」
「そう・・・あと水・・氷も――・・・――」
「―・・・・・・―」
「・・――」

 ――聞こえない。カカシさんの愛しい声が――。

 ぎゅっと眉を寄せると冷たい手が汗に濡れた髪を梳いた。熱を冷ますように、優しく、何度も。
 その感触におぼろげだった意識が浮上する。
 いつの間にか布団に寝かされていた。目を開けて確かめようとしても瞼が重くて開かない。

(そうだ・・、倒れたんだ・・・)

 途切れる前の記憶が蘇り、胸が捩れて苦しくなった。千切れた心にぽっかりと大きな穴が開いて冷たい風が吹き抜ける。

「はぁっ・・・はぁっ・・・カ・・」

 溢れた涙を冷たい指先が拭った。腕を伸ばしてその体を捕まえようとすると、何故かカカシさんはすでに腕の中に居て、とにかくどこかへ行ってしまわぬようにしっかりしがみ付いた。
 カカシさんの胸に顔を押し付ける。
 いつもならこうすれば温かくなる心は冷たいままで、氷の塊が胸の中にあるようで、冷たくて寒くてがたがた震えた。
 背中に布団が掛けられる。
 その優しさに、心が裂けた。これが最後の優しさだと、それを失った未来を想像して打ちひしがれる。苦しい。

「だいじょうぶだよ、だいじょうぶ・・」

 優しい声に首を横に振った。

 大丈夫じゃない、生きていけない。

「う・・っ、ひぅっ・・はぁっ・・カ・・ひゅっ」
「イルカセンセ、ゆっくり息して」

 呼吸を乱して喉を詰まらせると大きな手が落ち着かせるように背中を撫ぜた。唇を塞がれ、ふうっと空気を送り込まれて息を吸い込んだ。

「うん、上手、そう――」

 言葉の合間に息を吹き込まれる。流れ落ちた涙をカカシさんの手のひらが何度も拭った。

「――あの・・水・・・」

 彼女の声がした。

「ありがと。あとそこのポーチとって」

 冷たいタオルが額に乗せられる。腕の中でカカシさんが動いて――ガリリと何かを噛み砕く音がした。顎を押して口を開かされる。重なった唇から水が流れ込んで、口の中に広がった苦さに口を閉じようとすると歯の間に柔らかいものを挟んだ。

 あ、噛んじゃいけない。
 

 その正体に気付いて口を開くと少しずつ液体が流れ込んだ。こくこくと飲み込むと、「イイ子」と頬を撫ぜる。その後何度か水を流し込まれると人心地ついて体から力を抜けた。

「少し眠って・・」

 優しく髪を撫ぜる手が眠りへと誘う。それでも不安が眠りを妨げる。眠っちゃいけないと睡魔と闘いながらうつらうつらしていた。



「――助けてくれてありがと。イルカ先生はオレが見るからもういいよ」

 暫くしてから静かにカカシさんが言った。その内容にほっとする。きっと体調が悪い間はそばに居てくれるのだろう。

「でも・・」
「帰ってくれる?」
「・・分かったわ。また様子を見に来ても構わないかしら・・?」
「どうして?そんな必要ないよ。・・もう、イルカ先生に会いに来ないで」
「でも、私・・」
「心配なんて必要ないよ。それにもう関係ないでしょ」
「あるわ・・。私、イルカと縒りを戻したいの・・」

 頬を撫ぜていたカカシさんの手がびくっと震えた。手だけじゃない。縋りついた体も意識しないと分からないほど小刻みに震えている。
 部屋の中に剣呑な空気が満ちた。

「今更なに言ってるの?あれだけイルカ先生のこと傷つけておいて。そんなの虫が良すぎるでしょ。イルカ先生のこと都合のいいように扱わないで」
「違う・・!気付けなかったの・・。一緒に居てあまりに穏やかだったから――私のこと恋愛として見て無いんじゃないかって・・。でも離れてみて分かった・・かけがえの無い時間をくれてたんだって・・」
「あっそ。だけどお生憎様。イルカ先生にはもうオレがいるの。アンタの入り込む隙間なんてないよ」

 本当に?本当にそばに居てくれるの?

 信じ切れない言葉に様子が知りたくて、重い瞼を抉じ開けた。薄く目を開いて窺がったカカシさんは、痛みを耐えるように苦しげな表情で俯いていた。

「オレたちにかかわらないで。イルカ先生は、もう、アンタのこと好きじゃないよ」

 辛いことを言わせている。優しい人なのに。きっと今カカシさんが言っていることは俺が言わないといけないことだ。俺がさっき彼女にはっきり告げていれば、こんなことにならなかったのに――。

「貴方は――、貴方のことは好きだって言いきれるの?それが恋愛の愛情だと――」
「言い切れるよ。・・・一緒にいた時、アンタがそう思えなかったんなら違うんじゃない?」
「貴方になにがわかるっていうの!?傍にいるだけで何も求めれくれない。何時も笑い合うだけで・・。弟が欲しかったんじゃないわ!ベッドだって、私から誘わなければ――」

「――ごめんなさい・・!」

 悲痛に叫んだ彼女に謝罪した。はっと息を飲む気配がする。

「あ・・私・・」
「ごめんなさい!ごめんなさい・・」

 わっと涙が溢れる。体を起こそうとするとカカシさんが背中を支えてくれた。

「俺っ・・、一緒に居て、すごく楽しかったから・・、それでいいんだと思っていて・・、全然・・、気付いて、あげられなかった・・・」

 後悔ばかりが押し寄せる。まるで気付きもしなかった。自分ばかりが楽しくて、その裏で彼女にこんなにも我慢させていたなんて。
 暫くの間、部屋の中には俺のしゃくり上げる声だけが響いて、カカシさんも彼女も一言も声を発しなかった。

 痛いほどの沈黙を最初に破ったのはカカシさんだった。彼女から俺の姿を隠すように立ち上がる。

「もういいでしょ?そんなにイルカ先生を責めないであげてよ・・」
「わ、わたしは・・・・」
「それだけじゃなかったでしょ?アンタも貰ったはずだよ、イルカ先生からとってもいいもの・・。だけどアンタはそれに気付かずイルカ先生の手を離したんだよ。オレは離さないよ。これからはオレがイルカ先生のそばに居るの。・・・・それでいいデショ?イルカ先生」

 首だけで振り返ったカカシさんが俺の返事を待つ。静かな目に見つめられて、何度も頷いた。

「そばに・・居てくださいっ」
「・・だって」

 前を向いたカカシさんが彼女に退却を促す。暫くの沈黙の後、ぽつりと彼女が漏らした。

「・・・・本当は分かってたの。さっきのイルカの態度を見れば・・。私の時は追いかけて来てもくれなかった・・。家にさえ呼んでもらえない・・」
「・・・アンタ、何もイルカ先生のことわかってないね」
「・・そうね。分からなかったわ・・」

 踵を返す気配に布団から抜け出した。せめて玄関まででも見送りたい。

「あ、あのっ、ごめんなさいっ!」

 クツを履く彼女の背中に叫んだ。さらっと長い髪が揺れる。振り向いた彼女は存外穏やかな顔をしていた。

「私の方こそ、酷いことを言ってごめんなさい。たくさん貴方を傷つけたわ」

 そんなこと無いと力いっぱい首を振る。楽しかったし幸せだった。そんな時間を返せなかったことが不甲斐ない。

「ごめんなさい・・っ、ごめんなさい・・っ」
「・・・こんなときにそんなに謝るもんじゃないわ、引っ叩きたくなる」
「いいよ、叩いて」

 そう言うと、一瞬彼女の顔が泣きそうに歪んだ。だけどすぐに笑顔に変わる。

「・・・さよなら、イルカ」
「う、うんっ・・、さよなら」

 一滴の涙も流さない彼女に対して俺の方はもうぐだぐだで、拭っても拭っても涙が溢れた。彼女に会えるのがこれで最後だと思うと哀しかった。彼女とは終わっていたけど、これが本当のお別れだった。
 彼女が玄関を開けて冷たい風が入り込む。

「今まで・・、ありがと・・っ」

 扉が閉まる瞬間叫ぶと、彼女がふわりと笑みを浮かべた。
 それは、今まで見た中で一番綺麗な微笑みだった。



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