時を重ねた夢を見る 7
ふわふわと波にたゆたう夢を見ていた。
目を開ければ雲ひとつ無い空が広がり、はるか彼方の水平線で空の青さが水に溶けていた。
たぷたぷと押し寄せる波に体を揺られ、だけど沈む事も無く――まるで大きな海に漂う一枚の葉のように浮かんでいた。
あたたかい水が体を包む。
この温かさを知っている。
(この温度はカカシさんの温度だ。)
その懐に入り、抱きしめられた時、こんな温かさが体を包む。
(…向き合いたい)
いつもそうするように、カカシさんの背に手を回したくなって寝返りを打った。
水の中で魚が身を翻すように、くるんとうつ伏せになろうとして――・・。
「いでででっ!踏んでるっ!イルカセンセ・・っ!」
どこからともなく聞こえた声と共に大きな波が押し寄せて、ざぶんとあっけなく波に飲まれた。
「あぷ・・っ!ぶくっ・・・・」
ぷくぷくぷく・・。
「うわーっ、イルカセンセ・・っ」
水の上に引き上げられて盛大に咽た。
「ごふっ・・ひぐっ・・ごほっ・・」
「あー・・ごめんなさい。苦しかったね・・」
脇に手を差し込んで体を持ち上げたまま、カカシさんが顔を覗き込む。
(あれ!?あれ・・?)
布団で寝てたはずなのに。何故風呂に浸かっているのだろう。
あれれ?と戸惑ってる間に、体を湯船の中を泳がせ向きを変えると膝の上に座らせた。
水に濡れた顔を拭い、頬に張り付いた髪を後ろに撫で付け、最後に垂れた鼻を拭う。あっと思ったときには鼻水はカカシさんの手から浴槽の外に流された。
子供にするように世話を焼かれて気持ちが縮んだ。汚いと思わないのだろうか。
居心地悪くなっているとカカシさんは俺の体ごと浴槽に深く沈む。そうして肩にお湯が掛かるように波を送った。体がふわふわするのに、夢で見ていたのはこれかと思った。
ちらりとすぐ横にあるカカシさんの顔を覗き見ると、すぐに見つかってしまった。
なんでもない顔でにっこり笑う。
だから逆に気恥かしくなった。
当たり前のように世話を焼かれるのは、嬉しいけど照れくさい。
男だからあまり甘えちゃいけないんだろうけど。
世話を焼いてくるのが同僚だったらすごく嫌だけど、カカシさんにそうされるのは心地よかった。優しくされてると思うと、嫌だと思う前に嬉しさがこみ上げる。
もともと俺には梁のように太い柱が心の中にピンと張り詰めていた。早くに両親をなくし、幼いうちから自分のことを何でも決めていくうちに、いつの間にかそれはあった。
もちろん一人で生きてきたわけじゃないが、一人で立つ為には必要な柱だった。寄りかかれる人なんていなかったから。
それをカカシさんが折った。
あの晩、彼女に振られた夜、『イルカ、センセイ』と名前を呼ばれただけで、23年掛けて作り上げた柱はあっけなく折れた。
変わりに。
今はカカシさんが支えてくれる。傍にいるときもいないときも、いつも心の中にいて支えてくれる。
それは前よりもずっと心強い柱だった。
「ゴメンね、びっくりしちゃったね。すっごくよく眠ってたから、その間にお風呂いれちゃおうと思ったんですけど・・。いきなり寝返りうつから慌てちゃって」
可笑しそうにカカシさんが肩を揺らすたび小さな波が立った。波紋が体を揺らす。
「カカ・・さん・・どこか・・・」
俺、踏みましたよね?と聞こうとして、掠れた声しか出ないのに驚いた。あー、あー、と発声してみても、いつもの1/3ぐらいの声しかでない。
「だーめ。喉を休めないと――」
カカシさんの手が喉元を覆った。
「でも、俺、アカデミ・・」
「休みますって連絡入れておきましたよ」
「えっ!!」
もう、そんな時間?!というのと、罪悪感が同時に湧き上がる。
「だって、イルカ先生動けないし」
「え?」
ほらっと水の上に持ち上げた腕をぶるぶるっと振った。浮力を失った腕は驚くほど重たく、力が入らない。
「・・なんで?」
「何でって、そりゃあ・・・ね?」
振り返るとふふっとカカシさんは楽しそうに笑うばかりで理由を教えてくれない。
「ね?って・・どうしてですか?」
「んー?わからない?イルカ先生こんな風になるの初めて?」
頷くと、「そう」とカカシが耳元で囁いた。
「今日は有給扱いで休んでいいそうですよ」
「そうですか・・」
その経緯は気になったが、カカシさんの好意を無駄にしたくなかった。それに最近休みがなかったので、正直言うと休めて嬉しい。
「連絡入れて下さってありがとうございます」
「いーえ」
耳朶に触れる唇に、体が急に目覚めて微かな刺激を快楽と受け取る。ざわっと鳥肌が立って肌を震わせると、
「寒い?」
カカシさんが手を伸ばして追い炊きのスイッチを入れた。前にかがみになったカカシさんに自然と体が密着して、裸の素肌を強く意識した。
2人で湯船に浸かっている、と言う現実に今更ながら恥かしさが襲う。浴室の不透明な窓から差し込む光がそれを増長させた。
もう上がりたいと思った瞬間、もうちょっとここままでと望む声が心の底から響いて、声の方に従った。
だけど照れ臭さを隠すために次々と話し出す。
「カカシさん・・、カカシさんは今日お休みですよね。俺も休みになったから今日は一日一緒にいれますね」
考えてみると、2人が一緒の休みなんて初めてのことだ。
「何しますか?どっか行きます?」
「ふふっ、イルカ先生動けないデショ?」
「あ、そっか」
「今日は家でのんびりしましょ。お布団でごろごろして。そういうのもたまには悪くないデショ?」
想像して気持ちが甘く溶けた。悪くないどころかすごく、いい。うわーっと楽しみな気持ちが沸いて、体からはちきれそうになった。
そういうのは自分とは無縁のことだと思っていた。前の彼女ともゆっくり一日を一緒に過ごすなんてこと無かった。
仕事と家族以外で、用も無く、ただ一緒に誰かと過ごすなんて、
(初めてだ!)
さっと過去から今までを振り返って、それがとても貴重な時間であることに気づいて、じんと胸が熱くなる。
目の前を泳ぐように波を寄せてくるカカシの手を捕まえて、思いのまま唇を寄せた。感謝の気持ちでいっぱいだった。
「カカシさん、朝は何が食べたいですか?ご飯がいいですか?それとも――」
「それもオレがやりまーす。イルカ先生はゆっくりしてて」
カカシさんの唇が首筋を食んで、ちゅっと高い音を立てた。
「でもっ」
「いーの、いつもしてもらってるから。それに今日はオレがしたいんです。イルカ先生にいろいろしてあげたい・・」
言いながら、ちゅっちゅっと小さく啄ばんでくるのに体が跳ねそうになる。カカシさんにそんなつもりは無いだろうに、体が勝手にそれを快楽と受け止めて反応を返す。
困った。
はっきり形に現れる前に逃れたい。
「カ、カ、カ、カカシさん、そろそろ上がりませんか?」
「ん・・、でもまだお湯ぬるいよ?あったまってないでしょ?」
首筋に唇をつけたまま話されて、振動が甘い痺れとなって鎖骨に響いた。
「でも・・っ、も・・」
やばい。
それとなく離れようとして、腕に掴まる。胸元を押さえるように引き寄せられ、わき腹から滑り込んだ手に身を捩る間もなく下肢を掴まれた。
「あっ!」
そこが反応しかけていたのを知られてしまった。言いようの無い羞恥が走る。
朝なのに。
まだ明るいのに、ここをこんなにして、なんてふしだらな人間なんだろう。
恥かしさに俯けば、透明な水の中、カカシさんの手に収まった自身が見えた。
淫らな光景。
いけないと思うのに、それを見てますます自身が張り詰める。
「は、離して・・・」
「でも、もうココがこんなに・・。・・ダメ?」
「え・・?」
止めさせようと腕を押したのに構わず、カカシさんの手が緩く動き始める。
「駄目って・・なにが・・?」
なにがと思っても、いくら鈍いとは言え、こうなればこの先何があるのか判る。
「で、でも、今は・・朝・・」
「うん」
で、終わってしまった。なにか反論を待つが無いようで、慌てて言い募った。
「それに!ここ、お風呂・・っ」
「外ならいーの?」
「ちがぅ・・」
「だったら・・このまま。ねぇ・・シよ?ね・・?」
掠れた、すごく甘い声だった。ぞくっと背骨が痺れる。あれよあれよというまに快楽の波が押し寄せ流されそうになる。
「だめ・・声が・・・、あ・・っ」
瞬間、パキンと空間が閉じた。
「これで外に音は漏れなーいヨ」
外からの音も遮断され、静寂の中に水の跳ねる音と2人の息遣いだけが響く。余計に恥かしいことになって首を振った。
「おねがい・・。ホシイ。今すぐホシイ・・」
カカシさんの声が甘いのから懇願に変わった。切なくて胸が痛くなる。
自身を掴んだ手は緩く扱いてくるが、体を囲う手はいつでも振り解けそうなほど力なく。
そんな風に強請られて、嫌なんてことがある筈なかった。
* *
「ああ・・どうしよう・・ごめんね・・」
「へーき・・、カカシさん、俺平気だから・・」
そんな風に心配したりしないで。
見てるほうが辛くなるほど、カカシさんが気落ちしてしまっている。
ただ、やりすぎて腰が抜けてしまっただけなのに。
面白いほど体がくにゃくにゃで、こんな経験が初めてだったがどちらかと言えばそれが楽しい。
それにカカシさんが傍にいてくれるから何も心配することはない。
もともと今日はゴロゴロする予定だったから、動けなくたっていい。
きっと何でもしてくれるだろう。
自分を甘やかして、気兼ねなくカカシさんに甘えてみたい。体が動かないから、――そんな大義名分が今の自分にはある。
ペタンと脱衣所の床に座り込んだままカカシさんを見上げた。髪を拭う大きなタオルが時々カカシさんの顔を隠した。
服を着せ、水を飲ませと俺の世話ばかりしているカカシさんは腰にタオルを捲いただけで寒そうだった。
「カカシさん、もう大丈夫だから、お風呂戻って・・」
「うん。・・・イルカ先生、顔真っ赤だよ・・、熱があるのかな・・」
拭う手を止めて顔を覗きこんできたカカシさんが額に手を当てる。
冷たい手だった。
「ないです。・・熱なんてないから・・」
早く温まって来てとカカシさんの体を押すと、逆に体を持ち上げられそうになる。
「えっ・・なに?」
「ベッドに行かないと・・」
「やです。ここにいます。カカシさんが上がるまでここで待ってる・・」
「でも・・ここは寒いから・・」
「いーやーだーっ」
何故か傍を離れたくなかった。足首を握り締めてカカシさんを困らせた。
「・・・待ってます」
蹲って訴えると、さっとカカシさんがいなくなった。
「あ・・・・・」
カカシさんが怒った。
(いーよ・・、ずっとここにいてやる・・・・)
じわっと目に涙が浮かぶ。心が酷く無防備で感情が波立つとすぐに表に表れた。
ぐしっと鼻を啜ると、
「ホラ・・、寒いくせに」
頭の上に乗っていた湿ったタオルが退いて、新しいタオルが乗せられた。背中に半纏が掛けられ、靴下を履かされる。
「これで寒くない?」
「・・はい」
神妙に頷いた。カカシさんの優しさに心が洗われるようだった。
すごく、すごく、カカシさんのことが好きだと思った。
「すぐ上がるから――」
待っててと聞こえた気がした。目の横に軽く唇で触れると浴室に入っていく。
抱えた足に顎を乗せて、さぁーっとタイルを叩く水音に聞き入った。カカシさんが動くたびに違う水音が跳ねる。
カコンと石鹸ケースの落ちる音がして、慌ててるのかな?と思うとくすぐったくて、可笑しくなった。
幸せを多分に含んだ可笑しさ。
カカシさんの立てる音が心を満たして幸せにしてくれる。
コンコン。
そこに違う音が混ざった。ドアを叩く、乾いた木の音。
(あれ?誰か来た・・・)
外に気配が無いのに首を傾げた。
(気のせい――・・?)
コンコン。
やっぱり誰かいる。
脱衣所から首だけ出してドアを見るが外が見えるはずも無く。
(どうしよ)
静かに気配を窺うが去っていく様子も窺えない。念のためクナイを腰に忍ばせ、このままやり過ごそうかと考えていると、
「・・・・イルカ」
聞き覚えのある声に名前を呼ばれて、体から飛び出そうなほど心臓が跳ねた。同時にちくんと痛みも走る。
(どうして!?)
驚きながらドアを開けると、そこに前の彼女が立っていた。