時を重ねた夢を見る 18





 ひゅうひゅうとイルカ先生の喉から苦しげな息が漏れる。ぐったりした体をベッドに寝かしつけているとすぐ後ろに女の気配がした。倒れたイルカ先生を心配して中に入ってきたのだろうが、今まで二人で居た空間に第三者が、――しかもイルカ先生の彼女だった女が居ることに酷く苛立った。無視しきれない女の存在に右手の指先に熱が集まりそうになる。
 薬や濡れたタオルを用意しようと立ち上がりかけて、服を引っ張られた。

「イルカセンセ?」

 気が付いたのかと顔を覗き込むが、目は閉じたままで意識の戻った様子は無い。服の裾を握り締める手を外そうとすると、イルカ先生の眉がぎゅっと寄った。

「苦しいの?イルカ先生・・」

 熱く火照った頬に手を当てる。冷たい手がイルカ先生の熱をすべて吸い取ってくれればいいのに、そう思って冷えた手を押し当てているとイルカ先生の瞳から涙が零れた。苦しいのだろう。手が縋るものを探すように伸びて、背に回った。しがみ付くようにぎゅっと抱き付いてくる。

「イルカセンセ・・」

 熱に犯され、誰にしがみ付いてるのか気付いてないに違いない。

 でも、それでいい・・。

 今、大事なのは女の目にどうこの状況が映っているかだった。 

「悪いんだけど、タオル濡らして来てくれない?オレ、動けないから」
「え?」

 高圧的に言えば、女はきょとんと聞き返した。イルカ先生に抱かれて動けないことを強調して、暗にイルカ先生に必要とされてるのはオレだと主張する。

「熱がすごく高い。早く冷やさないと」

 振り返れば、どこかうろたえたそぶりの女が居た。そんな風に見たってこの場所を代わってなどやるものか。

「早くしてくれない?」

 何時まで経っても動き出さない同じ焦れる。だけど次の言葉に、すさまじいほどの優越感が沸いた。

「知らないのよ・・。どこにあるのか――」
「そこの棚の上から2番目。――来た事ないの?」
「・・・・・ないわ」

 勝ち誇って場所を教える。自分に、これほど女々しい部分があるなんて思ってもみなかったが、そうすることを抑えられなかった。

「そう。あと水も持ってきて。氷も。流しの下に氷嚢があるからそこに詰めて」
「わかったわ」
「早くしてね」

 一瞬むっと女がこっちを見たが、それでも動き出したのはイルカ先生への想い故だろう。
 想い合っている二人。その二人の間にいるオレは邪魔者でしかない。それでも出て行かないのは、イルカ先生が気を失っている間に女を排除してしまおうと思ったからだ。それが女の勘違いでもなんでもいい。二人の仲を見せ付けて、とにかく女が居なくなってしまえば、イルカ先生はまたオレの方を向いてくれるかもしれない。
 汗を掻いたイルカ先生の髪を梳いた。苦しげな息を吐いて眠るイルカ先生は現実がそんな風に変化しようとしているなんて夢にも思わないだろう。

 ゴメンネ、イルカ先生。ゴメン・・。

 ぜいぜいと荒い息を吐くイルカ先生の背中に布団を掛ける。優しく腕の中に抱きしめながら、しようとしていることはイルカ先生にとってもっとも残酷なことだった。

「だいじょうぶだよ、だいじょうぶ・・」

 ずっとそばに居るから。アナタがどんなに傷ついて泣いても、オレが傍に居るから。

 だから許してね・・・。

 懇願するように願えば心を読んだようにイルカ先生がイヤイヤと首を振る。それに呼吸を乱されたのか、ひゅっと喉を詰まらせると呼吸を止めた。

「イルカセンセ、ゆっくり息して」

 とんとんと背中を撫ぜて呼吸を促すが苦しげに震えるばかりで大きく喘ぐ。その開いた唇に唇を重ねると息を吹き込んだ。詰まっていた呼吸が気管を通り、押し出される。唇に自発的な呼吸を感じるまで繰り返してから唇を離した。

「あの..、水を・・」
「ありがと。あとそこのポーチとって」

 女が持ってきた氷嚢は頭の下に敷き、濡れたタオルで汗を拭ってからイルカ先生の額に乗せた。受け取ったポーチから解熱剤の丸薬を取り出すとイルカ先生の唇の間に押し込む。ところが忍びの習性からか異物を感じた途端に歯を食いしばり顔を背けた。

「イルカ先生、薬だよ」

 言葉が届かないのか手を押しのけ必死に顔を背ける。埒が明かないと丸薬を砕くと水も含んで唇を寄せた。顎を押して開いた唇から舌を差し込む。そうして道を作ってからイルカ先生の口の中に薬を流し込んだ。驚いたイルカ先生が咄嗟に口を閉じ、舌を噛まれる。それでもそのまま唇を合わせていると恐る恐るといった態でイルカ先生の歯が緩んだ。舌を重ねれば唇が開く。薬を流し込めば嚥下した。

「イイ子」

 こくんと動いた喉に泣きだしそうになる。

 オレだと分かって薬を飲んでくれたの?

 揺さぶり起こしてその真意が聞きたい。だけどそんなことが出来るはずもなく、より深い眠りへと誘うために髪を撫ぜた。薬が効いてきたのかイルカ先生の体から力が抜ける。
 少し穏やかになった呼吸に、気配を薄めた。

 どうか深く眠って、これからオレのすることに気付かないでいて欲しい。

 振り替えって女を見れば、非難するような目で見返された。正直今すぐにでも追い出したいが、さっきこの女が叫んだことでイルカ先生を助けれたことを思い出し、そのことだけはと礼を言う。だけどこれ以上は必要ないと背を向けるが、女の気配は去ることなく佇んだ。

「――助けてくれてありがと。・・・でもイルカ先生はオレが見るからもういいよ」
「でも・・」
「帰ってくれる?」
「・・分かったわ。また様子を見に来ても構わないかしら・・?」
「どうして?そんな必要ないよ。・・もう、イルカ先生に会いに来ないで」
「でも、私・・」
「心配なんて必要ないよ。それにもう関係ないでしょ」
「あるわ・・。私、イルカと縒りを戻したいの・・」

 改めて言われた言葉に、信じられないことに体が震えた。怖い。この女が。今まで出会ったどの敵よりも。

「今更なに言ってるの?あれだけイルカ先生のこと傷つけておいて。そんなの虫が良すぎるでしょ。イルカ先生のこと都合のいいように扱わないで」 「違う・・!気付けなかったの・・。一緒に居てあまりに穏やかだったから――私のこと恋愛として見て無いんじゃないかって・・。でも離れてみて分かった・・かけがえの無い時間をくれてたんだって・・」
「あっそ。だけどお生憎様。イルカ先生にはもうオレがいるの。アンタの入り込む隙間なんてないよ」

 さっきの見たでしょと言葉尻に匂わせて牽制する。

「オレたちにかかわらないで。イルカ先生は、もう、アンタのこと好きじゃないよ」

 あまりに大きな嘘に心臓が押しつぶされそうになる。もうイルカ先生への謝罪の言葉も思い浮かばなかった。
 青ざめた女の唇がぶるぶる震える。その瞳に浮かぶ怒りと、失望に勝利を感じ始めたとき、女が思わぬことを口にした。

「貴方は、貴方のことは好きだって言いきれるの?それが恋愛の愛情だと――」
「言い切れるよ。・・・一緒にいた時、アンタがそう思えなかったんなら違うんじゃない?」

 内心の動揺を隠した。餌を与えるような女の言葉に便乗して、その愛情を否定しながら、オレの最初の頃、同じように感じていたことを思い出した。
 イルカ先生のくれる穏やかな日々にまるで家族のようだと。

「貴方になにがわかるっていうの!?傍にいるだけで何も求めれくれない。何時も笑い合うだけで・・。弟が欲しかったんじゃないわ!ベッドだって、私から誘わなければ――」

 黙れ。

 聞きながら目の前が赤く染まりそうなほどの怒りが込み上げる。そして理解した。

 この女じゃダメだ。この女ではイルカ先生は幸せになれない。こんな女に、イルカ先生をやれない――。

「ごめんなさい・・!」

 突然聞こえた声に心臓が止まった。まさか起きていたなんて。自分のしたことに身を隠したい思いでいっぱいになる。激しい羞恥と後悔でどうにかなりそうだった。それでも逃げ出さなかったのはイルカ先生が泣いていたから。目の前で激しく泣くイルカ先生にどこにもいけなかった。

「ごめんなさい!ごめんなさい・・っ、俺っ・・、一緒に居て、すごく楽しかったから・・、それでいいんだと思っていて・・、全然・・、気付いて、あげられなかった・・・」

 ぼろぼろ涙を零して肩を震わせる。イルカ先生の謝罪を聞いている女は一言も発しない。
 もし、とこのまま女を選んだイルカ先生の未来を想像して、じっとしていられなくなった。

「もういいでしょ?そんなにイルカ先生を責めないであげてよ・・」
「わ、わたしは・・・・」
「それだけじゃなかったでしょ?アンタも貰ったはずだよ、イルカ先生からとってもいいもの・・。だけどアンタはそれに気付かずイルカ先生の手を離したんだよ。オレは離さないよ。これからはオレがイルカ先生のそばに居るの。・・・・それでいいデショ?イルカ先生」
「そばに・・居てくださいっ」
「・・だって」

 勢いで言って、貰った言葉に頭の中が空白になった。

 あ・・、あれ?いいの?イルカ先生・・。

 喜びよりも信じられない気持ちの方が強い。

「・・・・本当は分かってたの。さっきのイルカの態度を見れば・・。私の時は追いかけて来てもくれなかった・・。家にさえ呼んでもらえない・・」
「・・・アンタ、何もイルカ先生のことわかってないね」

 それが彼女と交わした最後の言葉だった。



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