やさしい手 7





 悪いと思いつつ一頻り笑って、はあっと一息吐くと酷く喉が渇いていた。目の前に置かれたお茶に手を伸ばすと、さっと遠ざけられた。
 なんで?
 不思議に思って、手を伸ばしたままイルカ先生を見れば、
「そんなに笑う人にはあげません」
 子供みたいな顔してニシシシと笑って得意げにコップを持っていた。
 可愛い事をする。
 負けじと更に手を伸ばすと、さっと奪い返し、口布を下げて一気に飲み干してやった。
 たんっ!とグラスを置いてにやりと笑って見せれば、怒るかと思っていたイルカ先生が目を見開いて固まっている。
「あれ?イルカセンセ?どうしたの?」
 目の前でひらひらと手を振って覗き込むとはっとしたように目を逸らした。
「すいません、俺っ、その・・・」
 困ったように視線を彷徨わせるのに、ぴーんときた。
「ああ、これ?別に見てもいいよ。・・・こっちも見せてあげる」
 額当てに手をかけて持ち上げた。
「だめです!」
 額当てを落とすのと同時にイルカ先生の手のひらが伸びてきた。イルカ先生の熱い手が怖々と左目を覆い隠す。
「どうして?見ていいよ」
 ちょっと泣きそうな顔をされた。
 怖いのかな。
 でも見て欲しい。
 ちょっとだけ胸が苦しくなる。
 拒絶されたら哀しい。
「だめです・・・・機密でしょう?俺なんかが軽々しく見て言い訳・・・・」
 心の中ではぁっと息を吐く。
 良かった。
 拒絶されてる訳じゃない。
「見ていーよ」
 イルカ先生の緊張を解きたくて軽く言ってみる。それからイルカ先生の手首を掴んでそっと引き剥がそうとした。するとそれを拒むように力が入る。
「いいから」
 再度、引っ張ると戸惑うように力が抜けては入るを繰り返した。
 ゆっくりとイルカ先生の手を引っ張る。
 手を引っ張るのはオレの意思だけど、半分はイルカ先生の意思であって欲しかったから。
 顔から手が離れると下に降ろした。手首は掴んだままで。
 両目にイルカ先生が映る。はっと息を飲んだのが解った。また泣きそうな顔をされた。
「こわい?」
 聞けば、ふるふると首を振る。
「いたく・・・・」
「え?」
 声が小さくて上手く聞き取れない。
「痛かったですよね・・・ごめんなさい」
 余計な事を言ったというような顔をして唇を噛んだ。
 古傷なのに。
 心配してくれるの?

 やさしいひと。

「気にしなくていーよ。もうなんともないから」
 安心するようににこっと笑って見せればイルカ先生も小さく笑った。
 でも、まだどこか痛そう。
 本当にやさしいひと。
 胸の中がじんわりと温かくなる。
「写輪眼。見るの初めて?」
 あんまり気にしないように話題を変えた。
「はい・・・」
「じゃぁ、もっとよく見てもいいよ?」
 掴んだままの手を軽く引けば、膝立ちになっておずおずと近くに寄ってきた。
 見やすいように顎を上げれば、上から覗きこむようにして見ている。
「・・・・・赤いんですね」
「ええ」
 おかげでいつでも発動できるんです。とは怖がるといけないので黙っておいた。
「あ、なんか星みたいなのがある・・・」
 んんっと顔を近づけてきた。
 わ、わっ、ほんとに近いんですけど。
 集中しているイルカ先生は気付かない。
 こんなに近くでマジマジと見られたのは医者以外ならイルカ先生が初めてだった。
 オレもチャンスとばかりにイルカ先生を観察した。
 瞳孔がまあるく開いている。
 それはもう興味深深といわんばかりに。
 好奇心旺盛なとこがかわいい。
 イルカ先生は興味を持ったものにハマるところがあるからオレにもハマってくれたらいいなと思う。
 絶対、瞬き忘れてる。
 少し潤んだ黒い瞳――・・・・。
 あ・・れ?・・・黒じゃない?
 一見、黒く見えたが、虹彩に光が入ると、透明で澄んだ茶色の光の筋が瞳の奥まで見えた。
 すごく綺麗だった。
 なんだか宝物を見つけたみたいでドキドキした。

 鼻筋を横切る一文字のキズ。
 痛かったか、なんて。
 それはイルカ先生にも言える。
 どうして出来たんだろう。
 いつか聞けるといい。
 そんな関係に早くなれるといいな。

 ふっと頬に風を感じて視線を下げればイルカ先生の唇があった。
 ちょっと厚みのある唇。
 口角がきゅっと上がっていて明朗な性格が窺える。
 触れてみたらどんなだろう。
 弾力がありそうで、食んだらきっと押し返されそうな気がする。
 薄く開いた唇の間から白い歯が見えた。エナメル質が光って見えてきっと触れればつるつるしてる。

 確かめたい。

 そんな欲求が湧き上がる。
 ちょっと背筋を伸ばせば、もしくは後ちょっとイルカ先生の手を後ろに引けば重なりそうな距離。
 偶然を装えそうな距離。

 急にキスしたらどんな顔するだろう―――。

 ちょっと想像してみて―――諦めた。
 いきなりキスして許してもらえると思うほど楽観的ではなかった。
 嫌われる可能性だってある。
 それは怖い。

 でも、唇から目が離せない。
 イルカ先生の手を引っ張りそうになるのを耐えた。
 でも、もしかしたら・・・と都合のいい考えが思い浮かぶ。
 昨日、ほっぺにした時は嫌がってなかった。・・・と思う。
 ・・・たぶん。
 イルカ先生の様子を窺う。
 まだ一生懸命見てて、オレがこんなこと考えてるなんて思いもよらない。
 そんな純粋な顔してる。

 ―――でも。
 ちょっとだけ。
 ちょっとだけ、引っ張ってみようかな・・・・。

 そっと掴んだ手に力を込めてみる。


 その時イルカ先生がぱちっと瞬きをした。左目に集中していた視線がオレの顔の上に落ちる。

 あ。

「わっ、わわわわっ」
 イルカ先生が仰け反った。「すいません」とか言いながら後ろに下がっていく。掴んでいた手が離れた。

 残念。

「すいませんっ、俺、じろじろと・・・――」
「いーよ。オレ見ていいって言ったデショ」
「あ、でも・・・いえ・・」
 また手をじたばたさせて、ごにょごにょ言いながらみるみる真っ赤になった。
「ふっ」
 その慌てっぷりが可笑しくてたまらず噴出した。
 くくくっと笑っているとイルカ先生の目がじとっと座った。
「また・・・・もう好きなだけ笑ったらいいですよ」
「ゴメンナサイ」
「・・・・俺、片付けの続きしてきます」
 赤い顔したまま口を尖らせて、襖を開けると寝室に行ってしまった。
 怒ったかなと思って寝室を覗いてみたら、落ちた物を拾いながらちょっと笑ってた。
 その様子に安心して、じゃあ、オレも、と立ち上がる。
「台所借りまーす」
「どうぞー」
 そう言ってこっちを見ると照れたような笑みを浮かべた。
「おいしいもの、作りますね」
 途端に満面の笑みに変わるのを目の端に止めて台所に向かった。
 いつまでも見ていたらまた笑ってしまいそうだったから。
 気持ちが弾んで仕方なかった。




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