やさしい手 19





 イルカ先生んちの台所の狭さって最高だ。
 コンロ二つ分の熱に窓を開けて換気扇を回しても、むうっと熱気が部屋に籠もったけど、そんなの気にならないぐらい素敵だ。
 帰ってきて半そでに着替えたイルカ先生と二人でコンロの前に並ぶ。肩のくっつく距離ににまにまと笑いそうになるのを堪えながら、フライ返しを持つイルカ先生の手を取った。
「イルカセンセ、こっちも混ぜないとダメでーすよ」
「あ、」
 フライパンの端っこで焦げそうになっていた玉ねぎを掻き混ぜる。手を離すと真似るように全体を掻き混ぜてからオレを見上げたイルカ先生ににこっと笑いかけた。
「うん、そんなカンジ」
 イルカ先生が嬉しそうに笑う。その笑顔が可愛くて、むしゃぶりつきそうになったが我慢、我慢。そんなことをしたらこの前の二の舞になってしまう。突然サカってイルカ先生を吃驚させないように衝動を理性で捻じ込んだ。
「そのまま飴色になるまで炒めてね」
 イルカ先生が笑顔を浮かべたままこくんと頷いた。鼻の頭に汗が溜まっている。それをちょちょいと首に掛けていたタオルで拭うとイルカ先生が照れたように下を向いた。フライパンを掻き混ぜる手が忙しなる。
(・・ああ、可愛い・・・・)
 イルカ先生の可愛さに当てられて、ふらふらしながら隣でひき肉を炒めた。
 今日の晩御飯はカレーだ。イルカ先生に美味しく食べて貰う為に愛情込めて作る。そこにはきっとイルカ先生の愛情も籠もっていて、今まで作った中で一番美味しいものが出来るに違いない。
「楽しみだなあ〜」
 美味しそうに食べるイルカ先生を思い浮かべてポロリと口から零れた。ぱっと顔を上げたイルカ先生が明るい表情で言う。
「・・俺も」
 その言葉がぎゅんと心臓を握った。心臓がバクバクしてぶわっと体が熱くなる。
 オレはイルカ先生のその言葉にめちゃくちゃ弱かった。イルカ先生に告白した時の状況を思い出して、瞬時にその時の喜びが体を駆け巡る。愛しさが溢れてどうしようもなくなる。
 顔を傾けるとこっちを見上げたままのイルカ先生の唇をさっと掠め取った。
 びくっと肩を竦めたイルカ先生に照れ隠しに笑い掛ける。
「シちゃった・・・」
 かあっと熟れて下を向いたイルカ先生の手元はますます早くなった。



「はぁー、おいしかった!」
 冷たい水を一気に干したイルカ先生がぷはっと息を吐いた。辛さに汗を浮かべた頬は上気してつるんと光っている。膨れたお腹を擦って満足そうに笑う。その幸せに緩んだ表情に、見てるオレまで幸せになった。
「・・もぉたべれません」
「うん、いっぱい食べたネ」
 オレが一皿食べるうちにイルカ先生はおかわりをして二皿分をペロリと平らげた。おいしい、おいしいとぱくぱく食べてオレを喜ばせた。
 イルカ先生ってホント作りがいがある。イルカ先生が食べる姿を見ていると、もっと美味しい物を食べさせてあげたくなる。もっともっとイルカ先生の喜ぶ顔が見たくて、自分に出来ることを探してしまう。どんなことでも叶えたいという気持ちと、どんなことでも叶えてやろうという気力が湧いてくる。もっと、もっと、と。
「あっ、いいよ」
 片付けようと皿を手に立ち上がったイルカ先生を止めた。
「でも、片付けは俺が・・」
「うん、でも今日はイルカ先生お仕事まだ残ってるデショ?そっちやっていーよ。」
 カレーを煮込んでいる間に広げていた答案用紙の添削がまだ終わってなかったのを指して言えば、イルカ先生の眉がへなっと下がった。
「すいません・・」
「気にしなくていーよ」
(その代わり、終わっらたらオレのこと構ってね。)
 後の言葉は胸の中だけで唱えて卓袱台の上を片付けると流しに持っていった。しばらくは背中にイルカ先生の視線を感じていたけど、お皿を洗ってるうちにペンが紙を擦る音が聞こえてきた。


 皿を洗い終えると引き戸からタッパーを出してカレーを移した。この時期カレーとはいえ出しっぱなしにするとすぐに傷んでしまうので冷凍する。これで今度はカレーうどんを作ってあげようと決めて冷凍庫にしまった。それから鍋も洗い台所も片付けてお茶を2つ入れた。
「どーぞ」
「ありがとうございます!」
 両手で湯飲みを持って飲むイルカ先生に目を細めながら、さりげなく答案用紙の残量を確認する。
(・・あと30分ぐらいかな・・?)
 イルカ先生のすぐ傍に寝そべって、本を開いた。また、ペンのと音が響きだす。それに耳を傾けながらイルカ先生を観察した。ぴんと伸びた背筋。律儀に正座した足。お尻の下で小さな豆のように並んだ足の指。
(ふふ、かわい・・)
 肉球を押すように、その指をぷにぷにと押してみたい衝動に駆られる。
(硬いかな・・?柔らかいかな・・?)
 でも突然そんなことをしたら驚かせてしまうだろう。
 むずむずとその衝動を堪えていると、危険を察知したのかイルカ先生がこっちを向いた。
「あの、もうちょっとで終わりますから・・」
「ん」
 本から視線を外してイルカ先生を見れば、はにかんだように笑う。
(ああ、かわいい・・!)
 ごろごろ転げまわりそうになるのを抑えた。わくわくする。あともうちょっとで一日の内で一番楽しみにしている時間がやってくる。
 イルカ先生とテレビを見たり、話したり。
 なんでもない時間だけど、イルカ先生と一緒に過ごすその時間は格別だった。とても大切な時間だ。この時間を過ごすために働いてると言っても過言じゃない。
(今日は何しよ。まったりお話なんかもいいな・・)
 イルカ先生を腕の中に囲って団欒する姿を思い描く。
(そんなこと、まだしたこと無いケド。)
 あと僅かな時間が待ちきれなくて、体一つ分転がるとイルカ先生の傍に寄った。



 ところが、だ。
 そろそろ終わりそうなところでイルカ先生が船を漕ぎ出した。うつらうつらとペンを片手に体を揺らす。閉じかかった瞼を体が傾くたびにはっと開くが、少しするとまたゆらゆら揺れる。
(随分疲れてるなー・・。少し早いケド、今日はもう寝たほうがいいかもしれない。)
 そう思ってもイルカ先生との時間を望む気持ちが起きてくれないかと望んでしまう。
 だけどイルカ先生の体の傾きは深くなり、とうとう卓袱台に突っ伏してしまった。
(あー、寝ちゃった・・)
「イルカ先生、起きて。こんなところで寝ちゃダメだよ。お布団いこ?」
「ぅん・・寝てないです・・。あともうちょっとで終わりますから・・やってしまいます」
「そう・・?」
 こくんと力強く頷いたイルカ先生にそれならと様子を見たものの、やはり眠気が勝るようでしばらくすると頬杖を付いたまま眠ってしまった。
(あーあ・・。)
 残念だ。残念すぎて涙が出そうだ。でも仕方ない。こんな日だってあるさと自分に言い聞かせて立ち上がった。
(今日は帰ろう・・。)
 壁に掛けてあったイルカ先生のベストをその背に掛けた。
 少し眠った方がいい。そうすれば次に目が覚めたときすっきりして残りを片付けられるだろう。
 明かりは点けたまま部屋を出た。消してしまうと完全に寝入ってしまうかもしれないから。



 生ぬるい風の吹く夜道をとぼとぼ歩く。見送りの無いままの家路は思いのほか寂しい。
(そろそろイルカ先生の家に泊まってみたいなー・・。)
 そう思いながらも言い出せずにいる。いろんなことを一気に進めてしまったのでイルカ先生にしたら今の状況に付いて来れてないんじゃないかと思わないでもないから、夜ぐらいはそっとしてあげた方がいいような気がした。
「・・・・・・・・・・・・・」
 ホントは断られるのが怖い。ダメって言われるときっと立ち直れそうにないぐらいへこむのが想像できる。そうなったらもう二度と泊まりたいなんて言い出せない。
「・・・・・・・・・・・根性ないなぁー・・」
 声に出していっそう気持ちが沈んだ。それもこれもイルカ先生と過ごす時間が短かったから――。
「!」
 はっとして振り返った。走る気配が近づいてくる。
(ウソ、まさか・・!)
 でも体は勝手に期待して体温が上昇した。
(どうして・・?寝てたのに・・)
「カカシセンセッ」
 角から飛び出してきた人がブンブン手を振った。吃驚して声が出ない。小さく見えたイルカ先生がだんだん大きくなって、目の前にやってきた。
(本物だ、本物・・!)
「どうしたの、イルカ先生?」
 あまりにも嬉しくてそんなことしか言えなかった。もっと気の利いた事いいたいのに自分にがっかりだ。
 息を切らして赤く頬を染めたイルカ先生がにこにこしながらオレを見上げた。
「えと・・その・・、あ!コンビニ!コンビニに行こうと思って・・」
「コンビニ?」
「はい!歯磨き粉切らしてて・・。だから近くまでいっ――」
「あれ?歯磨き粉なら昨日買って来てませんでしたっけ?」
 新しいのが鏡の後ろに置いてあったのを思い出しながら言うと急激にイルカ先生が萎れた。しょぼんと項垂れて眉間が悲しげに寄る。
「・・・そうでした。帰ります・・・・」
 項垂れたまま背を向けて歩き出す姿に期待が芽生えた。そして天にも昇りそうな勢いで成長する。
(もしかして、追いかけて来てくれた?イルカ先生もオレとの時間を楽しみにしてくれてる?)
 嬉しくて興奮しすぎてどうにかなりそうだった。
 とぼとぼ歩く背中に声を掛けた。
「イルカセンセ!アイス食べたくないですか?」
「アイス?」
 イルカ先生の歩みがぴたりと止まった。
「今日、熱いですし。コンビニに寄ってアイス買いに行きましょ?」
「行きます。アイス、食べたいです」
 イルカ先生が顔を赤くして足早に戻ってくる。そんなイルカ先生がたまらなく愛しくて、手の届く範囲に来るとさっと腕の中に閉じ込めた。
「わっ、カカシ先生、ここ・・外・・」
「うん。でも少しだけこうさせて」
 ぎゅうううっと腕に力を込めて抱きしめる。そうしても逃げ出さないイルカ先生がますます愛しくて、いつまでも腕を解くことが出来なかった。



text top
top