やさしい手 17
帰ってきた!
カン、カン、カンとアパートの鉄の階段が音を立てるのに口元が緩む。
間を措かずして開いたドアに、「おかえりー」と声を掛ける。
「ただいま帰りました」
かばんを肩に引っ掛けたまま、イルカ先生が台所を覘いた。
「今日はなんですか?」
「ハンバーグでーす、スキ?」
「はい!俺もなんか手伝います」
「うん、でも先に着替えておいでよ」
はーいと奥に消えていくイルカ先生の背中を見送って、でれっと幸せを噛み締めた。
今日も可愛い!!
昼間、受付で見たイルカ先生もキリっとしてて可愛かったけど、家に帰ってきたイルカ先生ってどこか無防備な可愛さがある。
外とは違った顔。
自分のテリトリーに戻って寛いだ顔。
どちらもにこにこしてるけど、ちょっと違う。
一緒に過ごすうちにその微妙な違いを見分けられるようになった。
オレの密かな自慢だ。
「俺、なにしたらいいですか?」
脚絆を解いて忍服の上をTシャツに着替えたイルカ先生が首を傾げた。素足でぺたぺたと台所の床を踏んで、オレの周りを歩き回る。
「えっと、じゃあキャベツ千切りにしてくれる?」
「・・・はい」
一瞬考える素振りを見せたが、冷蔵庫からキャベツを出すと流しで洗い始めた。そのアライグマみたいな仕草に笑みが零れそうになる。
ざっと水気を切るとイルカ先生はキャベツをテーブルに運んでイスに座ると、スライダーで千切りを始めた。
それを買ってからというもの台所のイスはイルカ先生の定位置になった。
毎日何かしら切っている。
大根だったり、牛蒡だったり、きゅうりだったり。それらは味噌汁になり、金平になり、酢の物になって2人で美味しく頂いた。
ザックザックと野菜を軽快に切りながらイルカ先生はよくアカデミーの話をした。
生徒の話や授業中のことを。子供たちのことを話すイルカ先生はとても楽しそうで誇らしげだ。
自慢の子供たちなのだろう。
そんな風に語られる子供たちが少しばかり、羨ましい。オレもそんな風にイルカ先生に思われたい。
今日も授業の話を始めるのを背中で聞きながら、ひき肉を練った。
ガコっとイスの足が鳴るのに振り返れば、半分イスから落ちそうになりながら、オレの手元を覗き込んでいた。
やってることが気になるらしい。
「・・・やってみる?」
「はい!」
さっきの時とは違って、満面の笑みで応えるのに笑いが込み上げる。
イルカ先生って、ホント、わかりやすい。
袖を捲くって手を洗い出すのに、練りかけのひき肉から手を抜いて、ボウルごとテーブルに移動した。
「どうしたらいいですか?」
緊張した面持ちで立ち尽くすイルカ先生をイスに座らせ、
「んーとね、捏ねて」
こんなカンジでと混ぜるジェスチャーをするとイルカ先生が捏ね始めた。おっかなびっくりな手つきで、たどたどしく。
「イルカセンセ、もっとしっかり混ぜないと。それと手早くね」
「こうですか?」
「そうそう」
ぐちゅぐちゅと捏ね回されるボールの中に頃合を見計らって他の具も入れる。一気に増えた具材にイルカ先生があたふたと手を動かすのが可笑しい。
「しっかり混ぜてね」
「はい」
「全体的にね」
「はい」
「底の方もね」
「・・・・・・カカシ先生・・・」
ちょっと情けない顔したイルカ先生がオレを仰いだ。卵なんかが滑って上手く混ぜれないらしい。
思案して、悪戯心が沸いた。
「わあっ!」
イルカ先生の背後に廻って、ボウルに入ってた手の上からぐっと押すと具材をイルカ先生の手ごと捏ねた。
ぐっ、ぐっと繰り返すとイルカ先生が笑い声が弾けた。しばらく繰り返すと要領を得たのか、オレの手の下で同じ動きを真似始める。
「そうそう、そんなカンジ」
へへ、とオレを見返して笑うのに心臓が跳ねた。
随分、近い距離。
腕の中にイルカ先生を囲うような形に鼓動が早くなった。
イルカ先生は気づいてない。混ぜるのに気を取られて、そっちに夢中。
頬に当たる髪がくすぐったい。
こっそり髪の匂いを嗅いでみた。お日様に当たった干し草みたいな、温かいイルカ先生の匂い。
こんなにイルカ先生を近くに感じたのは、・・・あの、泣いた夜以来。
このまま、抱きしめたい・・・。
体中を締め付けるような欲求が駆け巡る。
このまま・・・すこしだけ・・・。
腕に力を入れようとした時、急にびくっとイルカ先生が跳ねた。
欲望を見透かされたようで心臓が凍る。
後ろめたさと罪悪感に身動きできずにいると、恐る恐る、イルカ先生の手が重なった指の間から抜け出そうとする。
逃げないで!
咄嗟にぎゅっとイルカ先生の手を掴むと、またびくっと跳ねた。
イルカ先生の右腕だけが。
・・・・これって・・・。
俯いたイルカ先生の耳が赤く染まっていく。その色に、鼓動が激しくなった。全身が耳にでもなったみたいに血の流れがドクドクと煩く鼓膜を震わす。
もしかして・・・ここって・・・イルカ先生の・・・。
性感帯?と思うより早く指がイルカ先生の手を締め付けた。
「・・っ!」
息を飲み、びくびく震える腕に力を入れて体を縮める。今度こそ意志を持って引っ込めようとする手をボールに押さえつけて逃げれないようにすると、イルカ先生がおずおずと振り返った。
「あ・・の・・・、カカシせんせ・・・」
困ったように、羞恥に顔を染め、潤んだ瞳で見上げてくる。
自制心なんて一溜りもなかった。
キスしよう。
それしか考えられなくて、イルカ先生を囲っていた腕に力を込めると、体を屈めて、イルカ先生にキスした。