やさしい手 11
どうしちゃったんだろう?
肘を突いて体を起こし、浮いた手をそっと胸の上に置けば、イルカ先生がびくっと震えた。
「イルカセンセ・・・」
呼びかけても返事はない。
急にシン、となった部屋につけっぱなしだった換気扇の音が聞こえてきた。
「すいません・・・・なんでもないんです・・・・」
暫くすると、深く息を吐いてからイルカ先生が呟いた。それから、へへっと照れたように笑い、「カッコわる・・・」と、顔をごしごし擦った。それから、もう一度「すいません」と。
こっそり見てみると、涙はもう止まってはいるが胸の上に置いた手に小波のような震えが伝わって相当我慢している事が伺えた。気を静める為か整息するように静かに息を吐き、腕の中で抜け殻のようにイルカ先生の気配が希薄になっていく。
そんなのやだ。
体の内にざわっと不安とも苛立ちともつかないものが駆け巡る。
そばにいるのに。
オレが傍にいる事でイルカ先生が何かを我慢するのは嫌だ。
理由は判らない。でも、
――泣きたかったら泣いていいのに。
傍にいるからこそ、そうして欲しい。
「あんまり擦ると目が赤くなりますよ」
擦る腕を掴んで顔から引き離そうとすると抗う力が腕に加わった。
「イルカせーんせ?」
「や・・めてください・・・みっともない顔してるのに・・・」
照れて抗うフリで顔を隠し、冗談に摩り替えるよう口角を上げて笑って見せた。
そんなことしてもだーめ。
わかってしまった。口角を上げて口元だけで笑うときはイルカ先生が無理してるときだ。もう誤魔化されない。
「みっともなくなんてなーいよ」
胸の上に置いていた手をイルカ先生の背に差し込むと、ついていた肘を倒してころんと転がった。巻き込まれる形で横向きになったイルカ先生の体を胸に閉じ込めるようにしっかり抱きしめる。
「か、カカシセンセッ!」
焦って身を捩って逃れようとするのを許さず、顎の下でイルカ先生の頭を押さえ込んだ。
「だいじょーぶ。大丈夫だから」
静かに言い聞かせるように呟いて、背中をとん、とんと叩いた。
「・・・・うっ・・っぐ・・・」
僅かにしゃくり上げたイルカ先生が固く身を縮込める。
「だいじょーぶだから・・・」
――泣いていいですよ。
背中を叩く手にそんな想いを込める。イルカ先生の頭にひいていた手で肩を掴んで更に引き寄せるとイルカ先生の体が小さく震えた。
「・・・・・っく」
声を押し殺してイルカ先生が静かに泣いた。
イルカ先生が息を吸うたびにその背中が引き攣るように震え、時折短くはっと息を吐いて忙しなく息を吸う。堪えて堪えて、それでも堪えきれずに涙を零す泣き方は痛々しくて、イルカ先生の背中が震えるたびに胸を刺すような痛みが走る。
なにがそんなに哀しいの?
何をそんなに耐えているの?
聞きたい事はいっぱいあったが、今はただ楽になって欲しくて何度も背中を撫ぜた。
そうしている内に、いつの間にかイルカ先生の体から力は抜け、呼吸も穏やかなものになっていった。胸元でゴソゴソするから何かと思って抱きしめていた腕を外して覗き込めば、イルカ先生がぐしぐしと瞼を擦っている。
「コラ。擦ったらだめって言ったデショ?」
腕を掴んで止めさせれば、今度は素直に手を離した。ずずっと鼻を啜りながら重たく腫れた瞼でぱちぱちと瞬いて・・・・。
・・・・・うわっ、かわいー・・・・!!
泣いてるイルカ先生には悪いが―――ときめいてしまった。
頬や額に張り付いた後れ毛を掃い、髪が顔に掛からないように撫で付けてやりながら上を向かせた。瞳いっぱいに溜まった涙が瞬きするたびに、ころんと零れ落ちる。濡れた瞼をそっと拭えば、その雫がするっと指を伝って滑り落ちた。拭っても拭っても尽きる事を知らない泉のように黒い瞳の上に水の膜を張り、瞬きするたびに溢れ、零れ落ちた。胸の中にじりっと炙られたような痛みが走る。それは先ほどの刺すような痛みとは違い、じんわりと温かい。その痛みが胸から広がってゆっくりと体を支配する。
いとおしい。
イルカ先生のむき出しにした額に頬をくっつけて思った。
愛しい。
おでこから頬を離して生え際に唇を寄せた。
「イルカセンセ」
呼びかければ閉じていた瞼を薄く開く。でも腫れた瞼で開けづらいのかすぐに閉じられる。その拍子に目頭から涙が零れ落ちるから吸い上げた。口の中にしょっぱさが広がる。でもどこか甘いような気がしたから目頭の横に溜まっていた涙をちゅっと吸い上げた。
やっぱり甘い・・・?
確かめるためにもう一度口付けた。そうしていてもイルカ先生は何も言わない。ただ静かに目を閉じて、されるがまま無防備に泣き顔を晒している。
「・・・・・・・・」
おこられたら――やめよ。
今度は関係の無い鼻のキズの上に口付けてみた。僅かに顔を離してイルカ先生を伺うが何も言わない。だからもう一度キズの上に口付けて鼻筋を辿りながらゆっくりと唇へ近づいた。
・・・・いいのかな?
最後に鼻先へちゅっと音を立てて口付けると唇を離した。
なにも言わないんなら――シちゃうヨ?
ゆっくり、ゆっくり唇を寄せる。イルカ先生の唇への距離の近さに心臓がバカみたいにどきどきと早鐘を打つ。触れていなくてもその熱が伝わりそうな距離。あともうちょっとで触れそう、というところでイルカ先生の唇が薄く開いて、心臓が破れそうなほど大きく打った。動きを止めてイルカ先生の言葉を待つ。でも何も言わなくて。
・・・・シていいの?
重ねるために更に近づける。イルカ先生の吐息が唇に当たって―――。
「スー・・・・」
ぴきんと固まった。唇までほんの数ミリ。ほんの。あと。数ミリ・・・・。
涙が出た。心の中で。
そんなのってないよ。あんまりだよ。
諦めきれず固まったままどうしようかと考える。
このままシちゃってもバレないよね。バレないけど・・・初めてのちゅうが寝込みを襲う形になるのはイヤだ。イヤだけど・・・・・。
「う〜〜ん」
迷いに迷い、
ええいっ!
ちゅっとほっぺに口付けてた。
「はぁ・・・・」
体中の力が抜けてがくっと床の上に転がった。
「うぅ〜ん」
動いた拍子にイルカ先生から抗議らしき声が上がり、起きたのかと急いで体を起こすが。
「寝てる・・・」
それはもうすやすやと。
・・・・・一体どの時点で?
揺すり起こして聞きたい。
「・・・・・泣くと疲れるもーんね」
陽気に呟いたはずのひとり言が空しく部屋に響いた。
・・・・もしかしてオレって、これっぽっちも相手にされてないのかも。
ぐっすり寝ているイルカ先生を再び腕の中に囲って寂しく思った。