すこしだけ 66



 手の平を撫でて俺の手を広げさせると自分の胸へ導こうとした。火影様の言葉を思い出して、ハッとして手を引こうとすると、カカシさんが引き留めた。
「…なに…するんですか……?」
 こんな風に聞く俺は狡い。本当は火影様の話を聞いた時から薄々気付いていた。
 カカシさんがしたことを。
 カカシさんは、俺があまりにも信用しないから生殺与奪権を与えたのだ。自らの命を差し出して、『オレを信じろ』と。
(なんてことをさせてしまったのだろう……)
「カカシさん……」
 後悔に苛まれる俺を見て、カカシさんがニコッと笑った。
「痛く無いからダイジョウブだーよ。イルカ先生、俺の胸に手を当ててみて?」
 ワクワクと無邪気に俺を見つめるカカシさんに気付いた。
(そうか…。カカシさんは俺が火影様から術のことを聞いたのを知らない……)
 同じ話でも、カカシさんの口から聞きたかった。俺がカカシさんにさせた事だから。
 観念して腕から力を抜くと、カカシさんは俺の手を胸に押し当てた。手の平にトク、トクとカカシさんの鼓動が伝わる。だが、それ以上に吸い寄せられた。磁石のように、俺の手とカカシさんの心臓が呼応して引き合っていた。
「……良かった。ちゃんと完成してる。ネ、イルカ先生にも分かるデショ?オレとイルカ先生が繋がってるの。……イルカ先生に、オレをあげる。心臓にイルカ先生の血で起爆符を刻み込んだの。イルカ先生が、もしオレを疑ったのなら発動させて良いよ。嫌いになった時でも良い」
 胸が震えて止まらない。涙を堪えようと歯を食いしばると、カカシさんが優しく頬を撫でた。
「それまで、ずっとイルカ先生のそばにいる。目には見えないけど、これがオレとイルカ先生の赤い糸だーよ」
「カカシ…さんっ!」
 堪えていた涙が溢れ出した。ボロボロと頬を流れてカカシさんを濡らす。
 俺は欲しかったのだ。
 どんなに手に入らないと分かっていても、赤い糸が――赤い糸の持つ、不変の愛情と絶対的な繋がりが。
 いつまで経っても現れない赤い糸に諦めたフリをしていたが、本当は切望していた。
 誰かと繋がることを。俺にも赤い糸が現れることを。
 そしていつしか、カカシさんと繋がることを望んだ。カカシさんには決まった相手がいたのに、諦められなかった。
 最初はすこしだけ好きになろうと思った。けど、全然すこしじゃ済まなかった。カカシさんは俺の心の中で大きくなって、命になった。だけどやっぱり運命には勝てそうになかったから、俺は生きるのを諦めた。生きながら、命を引き剥がされる痛みに耐えられなかった。
 だけど、カカシさんは俺にくれた。
 赤い糸を、―――命そのものを。
 カカシさんは俺の生きるすべてだ。
「ネ、コッチの方が本物の赤い糸より、ずっと繋がりが強いデショ?」
 悪戯っぽく囁くカカシさんの声が聞こえた。
「カカシ…さんっ、カカシ、さん…っ!」
 声を嗄らして泣き続ける俺を、カカシさんは優しく引き寄せて頭を撫でてくれた。
「そんなに泣かないで。……ゴメンね、オレ重たいデショ。イルカ先生がいらなくなったら、印は覚えてるデショ?最後に虎と――」
「ならない!なりません!」
 カカシさんの言葉が最後まで聞こえないように大声を上げた。目と耳を塞いでいやいやをする。そんな俺の手をカカシさんが掴んで引き剥がそうとした。
「いやっ、い…やっ!」
 必死で抵抗するが耳から手が離れていく。さっきまで寝ていたくせに、カカシさんの力は強かった。
「イルカ先生、ちゃんと聞いて」
「いやだ…っ、あっ」
 カカシさんの唇がふわっと唇に触れて離れた。コツンと額が合わさり、鼻先が触れ合う。
「愛してる。本当はもっと前に言いたかったけど、ゴタゴタしてる時に言うとウソっぽいデショ?今なら大丈夫かなーなんて……」
 吃驚して目を開けると、カカシさんが目蓋を伏せて、はにかむような笑顔を浮かべていた。
(愛してる…?)
 初めて聞く言葉に、ふわーっと全身が舞い上がった気がした。
(なんて凄い言葉なんだろう……)
 ――伝わってる?
 ふいに視線を上げたカカシさんの目が聞いていた。
「お、俺も愛してます!愛してる!カカシさんが好き!」
 あんなに言えなかった愛情表現の言葉が淀みなく出てきた。それから、
(俺も愛してるなんて初めて言った!)
 遅れてやってきた照れくささに、かぁっと顔が火照り始めると、カカシさんがいつものように言った。
「知ってーるよ!イルカ先生がオレのこと愛してること!」
 自信満々で強気に言った後、カカシさんがくしゃりと顔を歪めて今にも泣き出しそうな顔をするから、俺もまた泣いてしまった。



 退院の日、二人で荷物を纏めると病院を後にした。カカシさんが入院中に俺もリハビリをしたから、お互い日常生活に支障ないほど回復した。
 手を繋いで家までの道を歩く。川沿いの道を歩くとコスモスの花が咲いていた。広い河原を一面に覆い尽くして風に揺れる。
「綺麗だーね」
 思っていたことを言葉にされて、ちょっと吃驚した。
「ええ、綺麗です」
 そう返事すると、預けていた右手をきゅっと握られて笑みを深くした。反対側の手には今晩のおかずの入った袋を握っていた。
 そしてカカシさんの右手には入院中の着替えの入った袋と、――歩いてきた道筋を教えるように赤い糸が道の途中まで伸びていた。
 あの人は入院中に研修を終えて火の国へ帰った。入院中、彼女とは一度も会わなかった。会おうと思えば会えたけど、俺はそうしなかった。
 怖かったからじゃない。会っても出来ることがなかったからだ。謝罪はしない。謝っても、カカシさんを返すことは出来ないから。
 カカシさんが写輪眼を使って、赤い糸を見えないようにしようかと言ってくれたことがあったが断った。
 彼女からカカシさんを取り上げたことを忘れない。自分のエゴでそうしたことを覚えていたかった。それから奪ってしまったかもしれない未来の命を……。
「イルカセンセ、なに考えてるの?」
 カカシさんはよくこの言葉を口にした。俺が俯いて考え込んでしまうから。また一人にならないように。
「……カカシさん。気になってたんですけど、その…、カカシさんの胸の術って解術の方法ってあるんですか?」
「赤い糸!」
「え?」
「術じゃなくて、赤い糸!」
 カカシさんはとてもロマンチストだった。あの人には申し訳ないが、彼女が去ってやっと終わったんだと俺とカカシさんの気持ちが解れると、次第にカカシさんはその片鱗を覗かせていった。……それに凄く甘えただ。前は甘えさせる方が好きなんだと思っていたけど、どうやらそれは自分のして欲しいことの裏返しだったようだ。
 今も唇を尖らせて言い直しを迫るカカシさんにクスリと笑った。
「俺達の赤い糸は……解く方法ってあるんでしょうか?」
「なーいよ。必要ないデショ」
「でも!……例えば、カカシさんが俺と別れたくなったりしたら……」
「ならないよ。イルカ先生とは一生添い遂げるって決めてるから」
「じゃあ、どんな時に発動するんですか?」
「イルカ先生がオレをいらないって思った時」
「じゃなくて!」
 即答したカカシさんに即答し返した。そんな時は来ない。そうじゃなくて、
「例えば、俺が死んだらどうなりますか?術は解けますよね?」
 万一の事を考えて知っておきたかった。間違って発動させてしまったり、俺がヘマして、カカシさんまで死んでしまったら居たたまれない。
「そんなこと心配してたの?そうだーよ。その時は術は解けるから心配しなくていーよ」
 笑うように目を細めたカカシさんに、嘘だと思った。きっと俺が死んでも術は発動する。
 改めてカカシさんの想いの深さを知って胸が震える。
(……でも、なんか不公平だ)
「カカシさん、俺にもその術掛けてください。俺からもカカシさんと繋がっていたいです」
 一緒にして欲しかった。俺だってカカシさんが居なくなってまで生きていたくなかった。だけど、カカシさんは、つーんと顎を背けて言った。
「やーだよ!イルカ先生、オレの事赤い糸で繋がってないって言って、随分いぢめたからしてあげない」
「いじめ……」
 そんな風に言われるとは思いもしなくてポカンと口を開けると、カカシさんはクスクス笑いながら俺の手を引いた。
「い、い、いじめてなんか……!」
「いーえ!あれはいぢめだーよ」
 ムキになって否定する俺を、カカシさんは笑ってかわす。でもそれがカカシさんの優しさなのだと心の奥で分かっていた。
「オレもね、イルカ先生に聞きたい事あったんだけど、聞いていーい?」
 ぴたっと足を止めて真剣な顔をするカカシさんに、なんだろう?と思った。
「イルカ先生の赤い糸はどうなっているの?」
 刹那、体がびくっと強ばった。聞かれたくない質問だ。だけど答えない訳にはいかなかった。羞恥に皮膚がチリチリと干上がっていく。
「お、俺…、自分の赤い糸は見えなくて……」
「へ?」
「その……、ずっと赤い糸が現れるの待ってたんですけど、さすがに二十歳越えると、俺にはそんな相手いないのかぁって……」
 赤い糸を持たない俺は、ずっと自分が出来損ないのような気がしていた。劣等感で胸がいっぱいになる。
「見えないの?本当に?ウソ吐いてない?」
 そんな俺の心境を知ってか知らずか、カカシさんはしつこく聞いた。その一つ一つに頷くが、カカシさんは俺の真意を確かめる様に瞳を覗き込んだ。
 いや、違う。確かに目は合っているのに、カカシさんはどこか違うところを見ている気がした。
「カカシさん…?」
「……良かった」
「え?」
 瞬き一つで俺と視線を合わせると、カカシさんは脱力してホーッと深い溜め息を吐いた。
「赤い糸が見えてたら、イルカ先生ぜーったい、オレのこと相手にしてくれなかったデショ。だから見えなくて良かった!」
 にぱーっと晴れやかに笑うカカシさんに、目から鱗が落ちる気がした。
 そんな風に考えたこと無かった。考えられなかった。
「イルカ先生は、オレと恋するために生まれて来たんだーよ!」
 カカシさんの言葉が胸に浸透して、硬い氷を打ち砕いた。長い間俺を苛んでいた劣等感から解放されて、心に羽が生えた。
 今、心の底から納得出来た。
 ――俺はカカシさんと恋するために生まれたんだ。
 喜びの鐘が胸の中で鳴り響いて、笑顔が自然と溢れた。
「俺もそう思います」
「ん?」
 なにが?と目で聞いてきカカシさんが、俺の返事が自分の言った自信発言にだと気づいて顔を赤くした。
「もうやだな、イルカ先生ったら照れるデショ!……早く帰るよ」
 照れくささを隠すようにカカシさんが足早に歩いた。
 俺もくすくす笑いながら、同じ歩調で歩いた。


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