すこしだけ 65
その目は優しく、気を失う前の苦しみや険しさはどこにも無かった。頬に触れる指先に温かな熱が灯る。するすると撫でられて、新たな涙がカカシさんの指を濡らした。
「カカシ、さん…っ」
口許を塞いでいた手を離し、カカシさんの手を掴んだ。祈るように両手で包むだ。
「カカシさん、胸は大丈夫ですか?もう痛くはないですか?」
「ウン。治してくれたんデショ?……オレ、どのぐらい寝てた?」
「五日ほど……」
「わ、そんなに?……そっか」
カカシさんが小さく笑った。
「目が覚めて良かった。……でも、覚めなくても良いとも思ったんだよ」
そんなことを言うカカシさんに吃驚してしまった。
やっぱり起きたく無かったんだろうか。俺がたくさん傷付けたから。俺に愛想を尽かして……。
(……もしかして、キスの相手は俺じゃなくても良かったんじゃ――)
「ホラ。イルカ先生はすぐにオレを否定する」
ぐいっと腕を引かれて、カカシさんの胸の上に落ちた。直って見えても体内はまだまだだと聞いている。カカシさんの胸の傷を思って慌てて退こうとしたが、カカシさんが俺の背中に腕を回して放さなかった。
「カ、カカシさんっ」
「オレが言ってるのは、イルカ先生がキスしてくれないなら、……もうオレのコトスキじゃないなら、目が覚めない方が良いってことだよ?イルカ先生に好かれて無いなら、生きている意味が無い」
ドクン。
カカシさんの言葉が強く胸を打った。カカシさんの真っ直ぐな思いが届いて胸を熱くする。
カカシさんはいつも真っ直ぐに俺を好きでいてくれた。嘘偽りのない愛情を俺に注いでいてくれた。
「……ヒック……ひっ……ごめ、な…さいっ!俺……、怖くて……、いつも怖くて……」
「ウン。今なら分かるよ。赤い糸のせいだーね」
こくんと頷いた。俺は赤い糸に怯え、カカシさんの気持ちに応えられなかった。どんなに好きだと思っても、いつも怖さが付き纏って、心を明け渡すことが出来なかった。
「どうしてもっと早く言ってくれなかったの?」
「だって、あんな話……。カカシさん、信じてくれるんですか?見えないのに……」
「イルカ先生が言うんだったら、なんだって信じるよ。例えオレに見えないモノでも。それに、イルカ先生がずっとオレに隠し事してるの知ってたから。ずっとね、不思議だった。楽しく笑ってるときでも、イルカ先生俯くと哀しい顔してた。諦めるような目でオレの右腕見てた」
カカシさんが俺の背中から手を離して、するっと自分の右腕を撫でた。自分の腕を見つめるカカシさんの瞳には何も映らないだろうが、俺にはくっきりと赤い糸が見えた。
「イルカ先生が安心するならね、切ったって惜しくないんだよ」
嫌だと首を横に振った。
「そんなことしたって赤い糸が無くなるとは限らない!違うところに生えてくるかもしれないのに……!」
「そうなの?」
分からない。分からないけどそうでも言わないと、またカカシさんが腕を切り落としそうで、大きく頷いた。
「ふぅん」
興味なさげな相槌を打つと、カカシさんは腕を投げ出した。
「赤い糸って、そんなに大事?」
もう一度俺の背中に腕を回したカカシさんが穏やかに聞いた。その質問は俺の胸を掻き乱す。冷静さを失って、顔をぐしゃぐしゃにして泣き出した俺に、カカシさんは子供をあやすように優しく手を動かして背中を撫でた。
「大事とか、そんなんじゃなくて……っ、赤い糸は絶対なんです!違う人と付き合ったって、最後は必ず赤い糸の相手と、運命の相手と結ばれる…っ」
「本当にそうなのかな……?オレはあの女が運命の相手だと言われても、好きになれない」
はっきり言い切ったカカシさんに心が喜んだ。運命の相手を押し退けて、自分が酷い事をしている自覚があるのに、嬉しいと思うのを止められない。それどころか、もっとその言葉を確信に換えたいと欲が出てくる。
「……カ、カカシさんは、初めてあの人に会ったとき、何か感じなかったんですか?」
ずっと気に掛かっていたことを聞いた。ちょっとぐらい良いなと思ったんじゃないだろうか?心の何処かに、あの人がいるんじゃないだろうか?
「ぜんぜん。だってその頃オレはイルカ先生に夢中だったもん。初めてのキスに吃驚するイルカ先生が可愛かった。少しずつ近づいていく距離が嬉しかった。……髪や肌に触れたくて、どうやってアプローチしようっていつも考えてた。他の誰かが入り込む余地なんて無かったーよ」
「でも!この先、……いつか、好きになるかも……」
尻すぼみになりながら、一番の気掛かりをぶつけてみた。聞いたって、未来のことだから仕方ないのだけれど……。
うじうじ考えていたら、ふぅーっと呆れたような溜め息が聞こえてきた。
「もぉー、イルカ先生はおバカさんですね〜!あんな名家が男の尻を追っていった男を婿に迎えるワケないじゃない!」
「男の尻……」
「ふふっ…、シャレになりませんね。オレの場合、本当にイルカ先生のお尻追っちゃう……」
馬鹿なことを言って、一人でくすくす笑ってるカカシさんにホッとしてしまった。あの人のことを全然好きじゃない。
だけど同時に何かが引っ掛かった。賭だなんだと言って、本当の目的はそれだったんじゃないだろうか。
――自分の名前に泥を塗ること。
もちろん、カカシさんは俺の事を泥だと思ってないだろうが、世間からすれば充分泥だろう。
「……カカシさん。火影様はカカシさんが本当に里抜けしようとしてたって……」
本当の事が知りたくて聞くと、ひたと笑いを収めたカカシさんが、むぅっと唇を尖らせた。
「あのじじぃ、余計なことを」
「どうしてそんな危ないことをしたんですか!賭で済んだなら、賭にしておけば良かったじゃないですか!」
それでもカカシさんの目的は達成した筈だ。あんなに傷付いて、血まみれになることなかった。
「イヤだよ。イルカ先生のこと、賭にするなんて。ウソで里抜けしようなんて言うのイヤだ。……オレはネ、ちょうどいーって思ったんです。もっと前からイルカ先生を攫って逃げようって思ってたから。賭になったのは偶々で……。たぶん三代目が気付いてたんじゃないかな……。本気で里抜けされるより、賭にして決着付けた方が良いって考えたのかも。賭を言い出したの三代目だもん。ずっとイルカ先生がオレなんかについて行く筈ないって言い張って……。なんなのあの人!全然オレ達のこと認めてくれなかったよ。イルカ先生がオレのこと好きだって言っても、一時の気の迷いだとか、イルカ先生の嫁はワシが見つけるとか言って煩いの!」
当時のことを思い出したのか、カカシさんがぷりぷり怒り出した。その様子に驚いたのと安心したのでつい笑ってしまうと、いつの間にか乾いていた頬が引き攣った。痒くなって肩で拭っているとカカシさんが頬を撫でた。
カカシさんの手が大きくて温かい。くっついた胸も温かくてホッとした。あんなに冷たいカカシさんはもう嫌だ。
「……でも、どうして三代目は気付いたんでしょう?」
首を傾げると、カカシさんが撫でていた俺の頬をぎゅーっと引っ張った。
「いひゃ!いひゃーっ」
「イルカ先生がもう会わないなんて言ったりするからデショ!オレ、すごくへこんだんだから!里中にもオレ達が別れたって噂が流れて……。これはもう急いで里と朔家を安心させて、隙をみてイルカ先生を攫うしかない!って。それで大人しくしてたの!……無理矢理連れて行ったらイルカ先生には嫌われてるかもしれないケド、攫った後でまた好きになって貰おうって思ってた」
パッと摘んでいた俺の頬を離して、カカシさんが言った。
「だからネ、もう心配しなくていーんだよ。オレ達はずっと一緒にいられるんだよ」
分かるデショ?と、カカシさんが俺の瞳を覗き込む。痛いほどの視線で見つめられて頷いた。
「……はい。カカシさんを信じます。ずっと傍にいます」
「ウン」
カカシさんがぎゅっと俺を抱き締めてくれた。強く温かい腕の中で、その心地良さに酔いしれる。
(これでいい……)
自分に言い聞かせて、そっと目を閉じた。
(……俺は馬鹿だ)
今ならカカシさんを信じられると思っているのに、心の奥底にはどうしても拭い去れない暗い影があった。
カカシさんという光を浴びて小さくなった影が、いつか大きな闇となるのを俺は知っていた。それがいつなのか。何年後か……何十年後か……。
「なーんてね」
カカシさんの声が深淵に向かっていた俺の心を引き戻した。今言った言葉を、嘘だと覆す言葉にヒヤリと心臓を撫でられる。
「カカシさん……?」
「さすがにね、オレももうイルカ先生のこと知り尽くしてるんです。本当はオレのこと信じてないデショ?」
「カカシさん!」
違うと首を横に振った。違う。そうじゃない。信じたい。信じてる。でも……!
「オレはね、イルカ先生。すごくワガママなんだーよ。イルカ先生のすべてが欲しい。だからね、これ以上イルカ先生が不安にならないで済むように、オレがイルカ先生に赤い糸あげる」
そう言うとカカシさんが俺の手を取った。
← →