すこしだけ 64



「カカシさん……、カカシさん……」
 横たわる体に縋り付いた。涙が止め処なく溢れ出る。頬を流れる涙が布団を濡らし、大きなシミを作った。
 冷たくなったカカシさんの手を握りしめる。後悔してもしきれなかった。
 カカシさんの胸を焼いた熱は肺を焼き、心臓にまで達した。
「生きているのが不思議なぐらいだ」
 カカシさんを診てくれた医者が言った。
 処置室から病室に運ばれたカカシさんはずっと眠ったままでいる。呼んでもさすっても、目を開けることは無かった。
(……俺のせいだ)
 俺がカカシさんを追い詰めた。俺がカカシさんを深く傷付けたから、自傷するに至った。最も傷付いて欲しくない人なのに、俺が居るせいで、カカシさんはいつも傷付く。
(森でも……、家でも……)
 カカシさんの血を流す姿を思い出して胸を掻き毟りたい衝動に駆られた。爪を立てて、深く、血が流れるほどに――。
 誰か俺を罰して欲しい。
(あのまま殺してくれれば良かったのに……)
 首を絞めたカカシさんの手を思った。俺は罪人だから殺されたって、誰も咎めたりしない。
(……このまま死んでしまおうか)
 カカシさんが目覚めなかったら、そうしようと決めた。それまでは、こんな俺でもカカシさんの役に立つことがあるかもしれない。
 心臓が必要なら心臓をあげよう。肺が必要なら肺をあげよう。
(それまでは……)
「……カカシ、さん…」
 新たに溢れた涙が頬を濡らした。


 カカシさんは眠り続けたままだった。胸の傷は医療班によって癒やされ火傷の痕は消えた。肺も心臓も完治はまだだがちゃんと機能している。
 カカシさんの胸の傷跡を診た医師は、起爆符は不発に終わったようだと曖昧に答えた。カカシさんが描いた術式が一般的に使われるものと異なり、術式書にも見当たらないことから明確な答えが出せないでいた。もしかしたら禁術の一種かもしれない、とも言っていた。
 いずれにしても、カカシさんが目覚めない原因が分からない。
 昏々と眠り続けるカカシさんの傍で俺は憔悴していった。もう俺の体のどこも必要なくなった。生命を維持する必要が無い。
「カカシさん……」
 僅かな温もりを探して、カカシさんの腕に頬を当てた。どこもかしこもひんやりしているが、そこに触れると僅かな鼓動を感じられる。トク、トク、と体の中を流れる血に温もりを求めて目を閉じた。勝手に溢れた涙がカカシさんの腕を濡らした。散々泣いて、涙は枯れ果てたと思ったのに、時折こうして流れ出る。
(このまま、カカシさんが目を覚まさなければ……)
 一緒に命が尽きることを想像した。それはとても甘美な夢だった。だけど俺はカカシさんの笑顔を思えている。あの柔らかい笑顔が無くなってしまうのは嫌だ。やっぱりカカシさんに死んで欲しくない。
 もしかしたら俺はカカシさんの一部になりたかったのかもしれない。カカシさんの肺として、心臓として、カカシさんの中に生きる。そうすれば離ればなれにならなくて済む。いつか来る別れに怯えなくて済む。ずっと一緒に居られる。
 それはもう、叶わない夢となってしまったが。
(カカシさん……)
 もう何も思い浮かばなかった。静かに時が流れるのを待つ。


 病室の扉が静かに開いたのは、カカシさんが眠り続けて5日ほど経った頃だった。俺は細くなっていくカカシさんの腕に縋り付くように顔を埋めていた。誰が入って来ようと、顔を上げる気力すら残ってなかった。
「……イルカよ」
 嗄れた声で名を呼ばれて、はっと肩を振るわせた。その声を聞くのはいつ振りだろう。
「火影様……」
 姿勢を正そうとカカシさんの腕から顔を上げたものの、項垂れたままでいた。顔を見上げる勇気がない。
 両親を喪った後、この方に随分と目を掛けて頂いたのに裏切ってしまった。今後、俺は火影様から期待されることもなければ、恩情に報いることもない。そのことが辛かった。
 一歩一歩近づいてくる火影様に身の置き場を無くす。何を言われるのだろうと小さくなっていると、背後に立った火影様がぽつりと言った。
「カカシはアホじゃの」
 呆れを多分に含んだ声に思わず振り返った。仰ぎ見ると、火影様は火の付いていないキセルと咥え、やはり呆れた顔をしてカカシさんを見ていた。
「わざわざ賭を本物の里抜けに変えて事を荒立てたと思ったら、今度は自傷騒ぎか。まったく、気の休まる時がないわい」
「え?」
 賭を本物の里抜けに変えて……?
「なんじゃ、聞いとらんのか?」
 ぽかんと見上げる俺に火影様は話してくれた。本当にカカシさんがしたことを。
「元々賭はお主の反応を確かめるために、里抜けのルートは西からと決まっておった。それをカカシの奴、ワシらの裏を掻いて東のルートから逃げおった。泡を食った暗部が本気を出しても仕方あるまい。ちゃんと西を通っておれば、二人とも怪我なんぞせんで済んだものを」
『この時間はね、西の見回りに行くからコッチは手薄なんです』
 カカシさんの言葉が蘇った。どうしてそんなことを知っているのか不思議だった。簡単に障壁を越えられたことも。通常なら有り得ないことだ。
(全部、カカシさんが仕組んだ……?)
 里抜けするルートや時間を決めたのはカカシさんだった。
「そんな……」
「カカシは本気でお主を連れて逃げようとしおったんじゃよ」
 森の中でのカカシさんを思い出していた。俺の手を引いて、弾むように走っていた。始終嬉しそうに笑って、俺が大事だと抱き上げてくれた。
(カカシ…さん!)
 わっと目の前が滲んだ。溢れ出る涙で前が見えなくなる。嬉しいのか哀しいのか分からなかった。ただカカシさんへの想いが膨らんで胸がいっぱいになる。いっぱいになりすぎて、涙を止めることが出来なかった。
(……でも、どうして……?)
 いろんな思いが交差する中、ふと疑問が湧いた。
「どうしてそんなことを……」
 カカシさんからすれば、賭に勝てば十分な筈だ。
「万一の事を考えて、お主に罪が及ばぬようにしたかったんじゃろ。朔家はしつこいからの。何かしら理屈を付けてお主に罪を被せてくるやも知れぬ。カカシは里抜けを本当にしてしまえば、お主は唆されただけだと主張出来ると考えたのかもしれん。……ま、本当のところは本人でないと分からんがのォ」
「違うんです!俺は本気でカカシさんに付いていこうと思った。俺は里を――」
「イルカ」
 制されて、俺は言葉を続けられなくなった。
 ――俺は里を本気で捨てても良いと思ったんだ。
「それ以上何も言うな。言わずとも良い。お前達はお主が命を賭してカカシを守ろうとしたことにより賭を制した。よってカカシとの交際を認める。これは里の意志である」
「でも……」
 それでいいのだろうか?俺が里を裏切った気持ちに変わりない。何事も無かった顔で、里に居座ることは出来ない。
「……カカシは詰めが甘い。こうなることは分かりきっておったものを」
 苦々しく呟くと、火影様は表情を一転させた。その顔は小さい頃から俺を見守ってくれた好々爺そのものだった。
「のォ、イルカ。木の葉の里は嫌いか?もう居るのも嫌になったか?」
 首を横に振って否と答えたかった。里は今でも好きだ。大事に想っている。だけどそれを言葉にするには、あまりにも都合が良すぎる気がした。
「東の森で暴走するカカシを殴って止めたのはお主だと聞いておるぞ。それは里を守りたいと思ったからでないのか?……ワシにはそれで十分じゃ」
 火影様の手が頭の上に乗せられた。そこから温かさが染み入るようだった。
「火影様……」
 一生掛けても返せぬほどの恩情を受けて、深く頭を下げた。俺はこの方について行こうと心に決めた。
「ところで、カカシが胸に書いた術式はこれで間違い無いか?」
 術式を書いた紙を見せられて頷いた。まん中の『爆』の文字を取り囲むように描かれた文様。間違い無い。
「そうです。火影様、これは……?」
「まったく。天才となんとかは紙一重と言うがのォ……」
 ふぅ、と重々しい溜め息を吐くと火影様は口を開いた。
「戦乱の時代に生まれた術じゃ。術者の血を使い、人に記述することによって有効となる。主に捕虜や奴隷に使われ、逃げた時に発動させる。あまりの残虐さから禁術となっておったが……、一体カカシはどこでこの術式を見たのやら……」
 火影様の言葉にさーっと青ざめた。俺が術の発動の鍵を握っているなんて恐ろしかった。カカシさんは何故こんな無茶なことをしたのだろうか。
「火影様、カカシさんは俺の血でこれを書きました。術は完成しているのでしょうか?どうすれば解除出来ますか?俺が死ねば……」
「……カカシがそれを望むかの?」
 火影様の言葉にハッとした。
『イルカ先生が生きてて良かった』
『死ぬ覚悟があるなら、どうしてオレと一緒に生きてくれないの?』
 カカシさんが望むのは、いつも俺と生きることだ。
「知りたければ、とっととカカシを起こして聞くことじゃ」
「起こす?怪我のせいで目が醒めないんじゃ……」
「カカシのそれは仮死の術じゃ。目覚めのきっかけは……、ワシよりお主の方が知っとるじゃろ」
 ポンポンと頭を撫でると火影様は病室を出て行った。
 青白い顔をして横たわるカカシさんを見つめた。聞きたい事がたくさんあった。話したいこともたくさんある。
「……カカシさん」
 腕を掴んでゆさゆさと揺すった。でもこれは何回もしたことだった。
「カカシさん起きて、カカシさん……」
 傷に障らないように肩を揺すった。頭が小さく左右に揺れたが目覚めない。
 本当にこれが術だろうか?仮死の術なら心臓だって止まっている筈だ。なのにカカシさんの心臓は動き、腕は脈打っている。
 ちょっと乱暴に揺すってみた。
「カカシさん、…カカシさん!」
 閉じられたままの目蓋に、カカシさんが血を吐いて倒れた時のことを思い出した。怖かった。もうこのまま目が醒めないんじゃないかと思うと心臓が裂けるように痛くなった。すべてから目を逸らした方が楽だった。
 でも今は違う。声が聞きたい。カカシさんと話がしたかった。もう一度、その目に俺をうつして欲しい。
「カカシさんっ!」
 きっかけとはなんだ。どうして俺が呼んでるのに起きてくれない。
 カカシさんが倒れるまでの遣り取りを必死に思い出そうとしたが、ヒントになりそうなことは思い出せなかった。
 いろいろ試してみた。頭を撫でたり、指先に唇で触れてみたり。
「……好き。カカシさん、好きです」
 面と向かってどうしても言えなかった言葉も言ってみた。だけどカカシさんは目覚めない。
「なんでだよっ!」
 目覚めのきっかけに俺は関係ないんじゃないかと思えてきた。そしたらカカシさんが目覚めるのはいつなんだろう?それとも俺がちゃんと解術の方法を見つけるまで目覚めないのだろうか?
「…っ!……カカシさん……っ」
 あぁ、と唇から嗚咽が漏れた。どうしようもなく悲しい。
「カカシさん!俺を一人にしないでください!」
 わんわん泣きながらカカシさんの顔を覗き込み、眠ったままの頬を撫でた。その顔に涙の雫がぽたぽた落ちる。
 もう一度、笑いかけて欲しかった。
 『イルカ先生、スキだよ』と、その唇で言って欲しい。
「眠ったままなんて嫌です!」
 お願いと祈るように額を寄せた。濡れた頬を拭い、冷たい唇を指先でなぞった。
 カカシさんは目を覚まさない。
「あぁ…っ」
 苦しい。胸が潰れそうだ。逃げたかった。否、逃げるのはもっと辛いと心が告げる。もう離れるのは嫌だった。
 この苦しみを解放してくれるのはカカシさんしかいない。
「助けて…、カカシさん、助けて……!」
 頬を擦り寄せ、己の唇を重ね合わせた。
 刹那、薄く開いた唇がすぅーっと大きく息を吸い込んだ。カカシさんの胸が膨らみ、頬に赤味が差す。
「……カカシ、さん……?」
 うっすらと目蓋が開いた。長い睫毛が持ち上がり、赤と黒の瞳が俺を映し出す。
 目を覚ましたカカシさんを信じられない思いで見つめていると、カカシさんが微笑んだ。
「イルカ先生、今オレにキスした?ねぇ、したデショ?」
「は?」
 でれーっとだらしなく緩んだ頬にしばしポカンとした。
「あぁ、嬉しい。イルカ先生がキスしてくれた!」
 えへーっと、とびっきりの悪戯が成功した子供の様に笑う。
(きっかけってコレか!)
 我に返って、かぁっと頬が熱くなった。
「目を覚ます時はイルカ先生のキスでって決めてたんだーよ。良かった!イルカ先生がキスしてくれて」
「し、してませんよ!」
 あまりにもキスした、キスしたと繰り返すから、恥ずかしくなって否定した。
「ウソだよ。だってオレ、目が覚めたもん。イルカ先生、オレにキスしたデショ!」
「わぁっ!」
 これ以上言わせまいと慌ててカカシさんの口を塞ぐと、カカシさんの指が頬を撫でた。


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