すこしだけ 63
アパートの部屋の前まで来るとカカシさんが足を止めた。支えられながらポケットから部屋の鍵を出し、鍵穴に差し込む。ドアを開けると、懐かしい自分の家の匂いがした。
壁に手を掛け、狭い玄関でサンダルを脱ぐと後ろを振り返った。
カカシさんは部屋の外に立ったまま一歩も動こうとしない。俯いたカカシさんの表情は前髪に隠れて見えなかった。
(…帰りたいのかな……)
俺の世話でカカシさんも随分自分の家に帰っていない。
「……あの、ありがとうございました。俺……、あっ!」
突然カカシさんが覆い被さってきたと思ったら、居間まで引き摺られた。歩くこともままならず、咄嗟にカカシさんの背中を掴むと畳の上に転がされた。
カカシさんが俺の肩を押さえ付けると、もう片方の手で足を広げようとする。足の間に体を割り込ませてくるカカシさんに身を捩った。
「あっ……いやだっ……ぅむっ」
拒絶しようと開いた唇を塞がれ、深く這入り込んだ舌が口の中を激しく蹂躙した。息苦しさに顔を横に向けようとすると顎を掴まれた。
「んっ!…やめ…!……いやっ……」
無理矢理行為に及ぼうとするカカシさんに、暴れて抵抗すると、「どうして!」と怒鳴られた。普段声を荒げる事のないカカシさんの怒声に体がビクッと震えた。その隙を突いて、頭の横で両腕を押さえられると身動きが取れなくなった。
息を荒げてカカシさんを見上げると。ぽた、と頬の上で水滴が弾けた。カカシさんの目蓋の淵で膨らんだ涙が、ぽたぽたと落ちてきた。
(あ……)
雨を思い出していた。いつだったか、こんな風に温かい雨が降っていた。
抗おうとしていた全身から力が抜けて、――気付いた。重なった腰にカカシさんの昂ぶりは感じられない。俺を抱きたかった訳じゃないらしい。
「……どうして何も言ってくれないの?…もう、オレに興味無くなった?何も言いたくならないほど、愛想尽きちゃった?」
声を殺して泣くカカシさんから視線を逸らした。
そんなんじゃない。ただ深く絶望してしまっただけだ。里抜けまでしたのに赤い糸は切れなかった。やはり運命は変えることが出来ない。赤い糸の強さに打ちのめさて、もう立ち上がる気力も残って無かった。
俺は疲れ果てた。このままカカシさんと離れた方が楽だと思えるほど。
カカシさんの手が腕から離れて頭を撫でた。柔らかいヒナに触れるような優しい手つきで。そこから愛しさが染み込んでくるようだった。
「ホントは…ネ、喜んで貰えると思ってた。イルカ先生に酷いコトしたけど、もうオレ達の邪魔する者がいなくなって、心置きなく愛し合えるんだって……。
だけど違ってた。イルカ先生、オレを見なくなった。……オレのこと、怒ったなら責めてくれればいい。キライになったのならキライって言って!オレは、イルカ先生に嫌われることした自覚あるから、責められれば許してくれるまで償う覚悟はあったよ。嫌われたなら、もう一度スキになって貰えるまで頑張ろうって……。でも、何も言わないで、知らん顔されるのは辛い……!」
ひっ、ひっと喉を鳴らすカカシさんからたくさんの雨が降ってきた。こんなに泣いて、傍から見れば哀れなのだろう。だけど俺は何も言わなかった。
(カカシさんこそ、俺に愛想を尽かせばいい――)
「イルカ先生は、いつもオレを切り捨てる」
「違う!!!」
カカシさんのその言葉は深く俺の胸を抉った。黙っていられないほど胸の中が波立って、気付いた時には叫んでいた。
「違わないよ。オレはイルカ先生にとって簡単に捨てられる存在にしかなれない」
「違う!そうじゃない!!」
苦しかった。どれほど俺が苦しんだと思っているんだ。カカシさんが好きで、どうにもならないと分かっているのに好きで好きで好きで!一緒に居たくて、それでも諦めなくてはいけなくて、それがどれほど苦しかったか――。
「カカシさんには分からない!俺の気持ちなんか…っ」
「ええ分かんないよ。だから言って。ちゃんと、オレに言ってよ」
強い視線で見つめられて怯んだ。封じ込めていた蓋が緩んで誘惑に駆られる。
(言ってしまおうか…?)
赤い糸のことを。カカシさんに話したらどんな顔するだろう。軽蔑されるか、それとも納得してあの人のところへ行ってしまうか――。
「イルカ先生、オレを見て。いつも何を見ているの?」
顎を引き戻されてドキッとした。無意識に視線がカカシさんの赤い糸を追っていた。カカシさんから苛立ちと脅迫めいた空気が伝わってくる。
カカシさんは知っていた。俺が何か隠していることを。
言おうかどうしようか迷う。視線を逸らそうとすると強い力で引き戻された。
逃れられない。
「……見えるんです。赤い糸が……」
「え?」
虚を突かれた顔でカカシさんがぽかんとした。瞬時に顔が熱くなる。俺がこんなことを言い出すとは思って無かった顔だ。
当たり前だの反応だが、『理解不能』の顔を見せつけられて、激しい後悔と羞恥に苛まれた。言うんじゃなかった。
(軽蔑されるだろうか……)
恐る恐るカカシさんの顔を見ると、眉間に皺を寄せて俺を見ていた。
「……赤い糸って、俗に言う運命の赤い糸のこと?」
「そうです」
頭がおかしいと思っただろうか。肯定すると、尚もカカシさんは確かめてきた。
「イルカ先生はそれが見えるの?どこに?」
(聞いたって見えないクセに……)
意味のない遣り取りに空しさを覚えながらカカシさんの右手首を指差した。カカシさんがじっと己の手首を見つめる。どんなに目を懲らしたって、カカシさんの目に赤い糸は写らない。
「ここ?それって、ずっと右手に付いてるの?」
「そうです」
「左腕に移ったりもするの?」
「しません。みんな、糸が現れたらずっと同じ位置にあります」
「いつから見えるの?どんな風に?」
まるで尋問だ。細かく質問して、俺がボロを出すのを待っているかのようだ。
(信じられないのなら、俺を切り捨てればいい)
怒りにも似た気持ちが沸き上がる。
「イルカ先生のは?オレの糸はイルカ先生に繋がってないの?」
一番聞かれたくない質問に口の端がぴくっと引き攣ったが、続けさまに聞かれた質問に首を縦に振った。
刹那、クナイを抜いたカカシさんが自分の右腕に宛がう。
「やめっ…!」
咄嗟にカカシさんの腕に飛び付いて、クナイの刃から庇った。止めなければ、カカシさんの腕は肘の下から切り落ちていた。ためらいのないカカシさんの行動に心臓が痛いほどドキドキした。
「退いて、イルカ先生」
「嫌です!やめてください!」
煩さそうに腕を振って、俺を振り払おうとするカカシさんに必死にしがみついた。カカシさんが傷付くのは嫌だ。自分の身を切られるより痛い。
「もういらない。イルカ先生と繋がってないなら必要ない。こんなのがあるからイルカ先生に好きになって貰えないんデショ」
「ちが…っ!だめ!だめです!!」
どっと涙が溢れた。どうしてこんなことを。俺の言うことを信じたのか。
カカシさんの想いが大きく俺を包んだ。こんなにあっさり自分の体の一部を捨てられるほど、愛されていたなんて。そのことに初めて気付いて、胸が洗われた様な気がした。
――でも、俺はその気持ちに応えることが出来ない。
どんなにカカシさんに想われても、赤い糸がある限り、俺はずっとその存在に怯え続ける。
「あ、そっか」
ふいにカカシさんが呟いた。その全身から身の凍るような殺気が立ち上がる。
「あの女がオレの運命の相手なんだ。だからイルカ先生、こんなにも頑なにオレを拒むんだね」
腕に俺をぶら下げたまま、カカシさんがふらりと立ち上がった。
「……どこに行くんですか?」
聞かなくても答えが分かる気がした。これほどの殺気を身に纏って、正気とは思えない。歩き出すカカシさんの体にしがみついた。
「やめてください、カカシさん!だめです!そんなこと止めて下さい!」
「なに?イルカ先生、あの女のこと庇うの?」
「ヒッ!」
そのままの殺気を向けられて息が詰まった。カカシさんの手が喉に掛かる。乱暴に床に押し付けられて、簡単に気道が塞がった。
「憎いよ、イルカ先生。オレのことは簡単に切り捨てたクセに、あの女の事は庇うんだ」
カカシさんの指が喉に食い込む。遠退いていく意識の中で『違う』と思ったけど、声には出せなかった。
「イルカ、センセ…」
ポタポタと顔に涙が落ちてきた。カカシさんの指が俺を死へと導いていた。
(あぁ……)
とても穏やかな気分になった。
(カカシさんは泣き虫だなぁ…)
降ってくる涙にクスリと可笑しくなるほど。
(このまま、カカシさんが殺してくれるんならいい)
目を閉じて、その瞬間を待ったが、ふいに喉を掴んでいたカカシさんの手が緩んだ。
「ホラ、またイルカ先生はオレを置き去りにする」
目を開けると、カカシさんが泣きはらした顔で俺を見ていた。迷子になった子供の様な稚い顔で。
「…カ…カシ、さ……?」
ふっと口許に笑みを浮かべると、カカシさんが右目を閉じた。赤い瞳に捕らわれて、指先一つ動かせなくなる。
カカシさんが恭しく俺の手を掬い上げると、指先にキスした。
「イルカ先生、オレはね。どんなに嫌われたってアナタを手放す気は無いんです。一緒にいられなくなって、誰かにアナタを盗られるぐらいなら、アナタを殺した方が良い」
カリ、とカカシさんが俺の指先を噛んだ。血が滲み出て、カカシさんの唇を赤く染める。
(……うん、それがいい。俺もカカシさんに殺されたい)
全身の感覚を失っても怖くはなかった。カカシさんが愛おしむ様な目で俺を見ていた。いっそ、すがすがしさを感じるほどの温かい眼差しだった。
「……ずるいなぁ、イルカ先生は。死ぬ覚悟があるなら、どうしてオレと一緒に生きてくれないの?……オレはね、もうイルカ先生に置いて行かれるのはイヤなんです。……今際の際に『愛しい』なんて言われても嬉しくないよ」
(え…?)
あれは心の中で想ったはず……。
聞き返したかったけど、声が出せなかった。何も出来ない俺の前でカカシさんが服を脱いでいく。
(……なにするんだろ?)
最後に抱いてくれるのかな?と気の抜けたことを考えていたら、カカシさんが血に濡れた俺の手を取った。傷付いた指を筆代わりに、自分の胸に術式を書き込んでいく。
「……ぁ、……ぃゃ……」
その図柄に見覚えがあった。遠隔操作用の起爆札に似ている。胸に『爆』の文字を見て、焦燥感が沸き上がった。
心中でもするつもりだろうか?死ぬなら俺だけで良い。カカシさんには生きていて欲しかった。
「ぁ…!ぁぁっ……!!」
動かない体に発狂しそうになる。止めさせたいのに、俺は見ているだけしか出来なかった。
術式を書き終えたカカシさんが俺の頬を撫でた。優しく微笑むカカシさんに瞳で訴えかけた。
やめてくれと。お願いだからやめてくれ、と。
「ぁ…、ぁ…っ」
願いは届かず、カカシさんが印を結ぶ。カッ!と胸の文字が赤く光って、発動した術が煙草の火のようにカカシさんの胸を焼いた。
「くっ…」
ジリジリと肌の焼ける音と共に焦る匂いが辺りに立ち込める。術はカカシさんの肌を焼いて体の中へと浸透していった。カカシさんが痛みに顔を歪める。
「ぐぅ…、かはっ!」
カカシさんの吐いた鮮血が俺の顔に掛かった。
「いやだーっっ!!」
ぐらりとカカシさんの体が傾いで、俺に掛かっていた術が解けた。
「カカシさん!カカシさん!!」
倒れ込むカカシさんの体を返して安否を確かめるが返事は無い。気を失ったカカシさんの顔は青ざめ、まるで死んでいるようだった。
(俺を、遺して……?)
涙腺が壊れたように涙が溢れた。
「いやだっ!!……誰か!!お願い……誰か助けて……!!」
あらん限りの声で泣き叫ぶと、窓から暗部が入ってきた。監視が付いていたのだろうか。俺とカカシさんの様子を見ると事態を察したのか指笛を吹いた。新たな暗部が部屋に入り、俺の腕の中からカカシさんを奪い取る。
「病院へ」
最初に入った暗部が指示して、もう一人が頷いた。カカシさんが心配で堪らない。去っていく暗部について行こうとしたが、萎えた足では上手く歩けなかった。
「カカシさん…!カカシさん…っ」
転けながら、それでもついて行こうと床を這いずっていると、見かねた暗部が俺を抱き上げてくれた。
「行きますよ」
頷くと、瞬身されて辺りの景色が消えた。
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