すこしだけ 62



 肩を揺さぶられて目が覚めた。目蓋を開けるとカカシさんが顔を覗き込んでいる。
「イルカセンセ、起きられる?朝ご飯の時間だよ」
 食欲は無かったが、体を起こそうと腕に力を入れると、胸に激痛が走った。
「痛っ!」
 胸だけじゃない。両足も千切れるように痛い。
「誰か来て!イルカ先生が!」
 すぐにカカシさんがナースコールした。痛みで生理的な涙が勝手にポロポロ出てくる。
(なんで…?幻覚だって言ったのに……)
「イルカセンセ!イルカセンセっ」
 痛みに蹲っていると、カカシさんがオロオロと手を振り回した。俺に触れていいのか悩んでるみたいだった。
 急ぎ足で入ってきた医師が俺の様子を見ると鎮痛剤を打った。痛みが徐々に引いていく。
 医師はカカシさんを外に出すと、症状の説明をしてくれた。
 俺の足は限界を超えて走ったせいで筋肉がボロボロになっていた。おまけに1週間昏睡していた為に筋力が落ちて、傷が治った後はリハビリが必要だと言う。
 胸は今の医学では上手く説明できないそうだ。胸に刺さった矢は幻覚だったが、幻覚は本人が『そう』と思い込めば死に至る。俺の場合、あれが本物の矢だと信じたから、傷は無くとも矢は心臓を貫いた。
 実際、俺の心臓は数分間止まっていたらしい。カカシさんが心肺蘇生して、それでも動かず、絶望的だったところに急に俺が動き出した。きっと、カカシさんが人工呼吸して脳に酸素を送り続けたのが良かったのだろうと医師は締めくくった。
 医師が出て行くと、入れ替わりにカカシさんが入ってきた。
「イルカセンセ、先生なんて?」
「……しばらく入院だそうです」
「そう……」
 しょぼんと項垂れたカカシさんが、ぱっと笑顔を浮かべた。
「イルカ先生、ご飯食べる?オレ、貰ってきてあげる」
 俺の返事を待たずにテーブルの用意をすると、さっとカカシさんが病室を出ていった。戻って来ると、手に持っていたトレイをテーブルに置いた。見ると、重湯と白湯しかない。
「…今はこれしかダメなんだって」
 まるで自分の甲斐性を責められたように悄気るカカシさんに、布団から手を出すとレンゲを持とうとした。
「あ、オレがやる」
「いいです」
 重湯のお椀とレンゲを持って待ち構えるカカシさんに口を固く閉ざすと、すごすごとお椀とレンゲを渡してくれた。
 口に含んだ重湯は糊みたいで味気ない。カカシさんの見守る中、黙々とそれを口に運んだ。


 動けない俺の面倒をカカシさんが見た。
 朝は髪を梳いて顔を拭いて、昼はカーテンを開けて外を見せたり、本を持って来たりする。夜には体を拭いて明かりを消すまで俺に話しかけた。
 食事が固形物に変わると、カカシさんは果物や甘い物を買って来た。「おいしい?」と聞かれて頷くと、何度も同じものを買って来た。
 部屋から離れないカカシさんに、任務に行かないのかと聞けば、俺の世話をすることが任務だと言った。なんらかの処分があるんじゃないかと聞いたら、イルカ先生は心配しなくても良いと言われた。
 夜中、ふと目を覚ますと胸にカカシさんの手が乗っていることがあった。ジンジンと温かなチャクラを送り込んで、傷の無い胸を癒やそうとする。夜中に目を覚ました時は、いつもカカシさんが俺を見ていた。いつ寝ているのだろうと不思議になった。
 リハビリが始まると、カカシさんはリハビリ室までついて来た。すぐに筋肉を解すマッサージを覚えるとカカシさんが担当を申し出た。
 硬くなった関節を曲げて伸ばして、動くように足を揉み解す。歩行訓練に移ると、専門のトレーナーに任せて、離れて俺を見ていた。
 訓練に疲れて部屋に戻ると、冷たいお茶を出してくれた。
「イルカ先生、昨日より歩けるようになったネ」
 頷くと、カカシさんが優しく疲れた足を撫でた。病院で目が醒めた時以来、カカシさんは俺に謝らない。それでも悪いと思っているのが見て取れた。

 退院の日が決まると落ち着かなくなった。俺には何も無い。賭けと言え、俺は一度里を捨てた忍びだ。教職には戻れないだろう。受付の仕事も無理だろう。任務を受けようにも、こんな足でどこまで役に立てるのか…。


「大変お世話になりました」
 俺を支えながら、カカシさんが深く頭を下げた。俺も頭を下げると、担当医は笑顔を浮かべて見送ってくれた。
 病院を振り返ると、カカシさんの歩いた後を示すように赤い糸が病院の中へ消えていた。
(…まだ居るんだ)
 込み上げる思いを瞬き一つで打ち消すと、病院に背を向けた。揃って歩く俺達をあの人はどこかで見ているかもしれない。
 家に帰る道すがら、カカシさんはとても静かだった。足を引き摺って歩く俺に肩を貸して歩調を合わせてゆっくり歩く。
 完治しなかったワケじゃない。自宅療養に切り替わっただけだ。
 任務もまだしばらくは休みという事になっていた。いつ、復職出来るのか分からないが。
 久しぶりに歩いた家路はいつもと違って見えた。季節が変わってしまったからかもしれない。肌に当たる風は冷たく、いつの間にかカカシさんの誕生日が過ぎてしまったのを思い出した。
(約束してたのに…)
 あの時、カカシさんは何を約束しようとしてたんだろう…?
 河原に通りかかって、ここでキスしたのを思い出した。思えば俺達は、あの頃から随分遠くへ来てしまった。あの時は彼女の存在もなく、初めての恋にただただ幸せだった。赤い糸への不安はあったけれど、それでも俺は幸せだった。
「…イルカセンセ、足痛む?おんぶしようか?」
 顔を覗き込もうとするカカシさんに首を横に振って、いつの間にか止まっていた足を動かした。もう、あの頃に気持ちに戻れない。


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