すこしだけ 61



雨が降っていた。
ぱたぱたと温かい雨が。
雨は幾粒も降って頬を濡らす。
心地良くて、すーっと意識が深い眠りへと引き込まれそうになった。

「イルカセンセ……!…イルカ……っ」
 遠くで人の言い争う声が聞こえた。
「カカシセンパイ、離れてください!」
「今すぐ病院へ――」
「イルカ先生に触るな!!」
 強く抱き締められて骨が軋んだ。
「……殺してやる。お前等全員殺してやる!!」
 チチチチと鳥の囀りが聞こえて、目蓋の向こうが青白く染まる。冷たい気が満ちて、雪の中に放り出されたように寒くなった。
「なにが木の葉だ……。滅ぼしてやる。里なんかなくなってしまえ……!」
「はたけ上忍、落ち着いてください!!」
 周囲を凍らせていた気が、ふっと緩んで俺に向き直った。
「イルカ先生、少しだけ待っててネ。みんな殺したら、すぐに戻って来るから。そしたら一緒にいこう。ネ?少しの間だけだから。それまで一人になるけど待ってて」
 甘えた声で頬ずりされる。濡れた唇が重なって、しょっぱい味がした。手甲を嵌めた手が何度も頭や頬を撫でた。
「イルカ、センセ……」
 体を包んでいた力が緩んで、にわかに落ち着かない気分になった。
(この人は何をするつもりだろう?)
 里を滅ぼすとか言っていた。
(俺の里を……)
 そんなことはさせないと、焦燥感が膨らんだ。
(止めないと)
 力の抜けた手で拳を握りしめた。
「ヒィッ!」
 俺から意識が逸れると、周りに幾つかあった気配が弾けるように遠離った。
「はたけ上忍、馬鹿なことはやめてください!これ以上争うのは無駄です」
 昔から、悪い子には拳骨と決まっていた。
「…クッ、オレからイルカ先生を奪っておいて、今更どの口が――」
 腕を振り上げると、ガツッと手応えがあって、何か固いものが傾いだ。
「イ、イルカセンセ?!」
 それだけの動きに疲れ切って脱力していると、体が浮遊感に包まれた。凄いスピードで移動して、それっきり意識が途絶えた。



 目が覚めると薄暗い部屋の中、白い天井と白いカーテンが見えた。
(……病院か)
 窓が開いているのか、風がふわりとカーテンを持ち上げた。隙間から黄色く丸い月が見えた。ゆっくりカーテンが戻って行くと窓の影が濃い線を描いた。
(どうしてこんな所にいるのだろう?)
 視線を横にやると支柱に吊られた点滴が腕に繋がっていた。手当をされている。反逆者なのに、何故。
 反対側の手に重みを感じて、視線をやると毛だまりが見えた。風が吹くと、月の光を反射して銀色に輝く。ふわふわ揺れるそれをぼんやり見ていると、ふいに腕が軽くなった。
「…イルカセンセ?」
 顔を上げたカカシさんが、はっと目を見開いた。立ち上がり、俺の顔を覗き込むと震える手で頬に触れた。月の明かりのせいか、カカシさんの頬が翳って見えた。
「イルカセンセ…、気が付いた…?」
 カカシさんが枕元に手をのばすとコールボタンを押した。その手に繋がった赤い糸が見て目蓋を伏せた。
「イルカ先生が目を覚ましたから、すぐに来て」
 短く告げると、カカシさんが俺の首筋に顔を埋めた。
「良かった……、イルカ先生が生きてて良かった……」
「…………」
 パタパタと足音が聞こえて、顔を入り口に向けるとカカシさんが離れた。医師と看護師が入って診察を始める。
 聴診器を胸に当てられてハッとした。傷跡がない。肺と心臓を貫いた筈なのに、その痕が無かった。
(どうなってるんだ…?)
 口の中を溢れかえった血の味を覚えていた。痛みも、――死を前にした、解き放たれる開放感も。
(全部嘘だったのか?)
 ぼうっと身を任せていると、診察を終えた医師がカカシさんを伴って部屋を出て行った。看護師が腕に刺さった針を抜く。残った点滴の液を見ていると、カカシさんが部屋に戻ってきた。
「明日、精密検査するって」
 イスを移動させてカカシさんが枕元に座ると、「お大事に」と看護師が出て行った。カカシさんと部屋に二人きりになる。
 カカシさんが右手を伸ばして俺の頭を撫でた。
(どうして……)
「…どう…なってるんですか」
 窓の外に視線を向けて聞いた。喉が渇いて掠れた声しか出なかった。カカシさんが水差しを口の前に持って来てくれる。少し迷い、諦めると水を吸った。今俺が生きているという事は、里が俺を生かしたという事だ。
「……オレ達は勝ったんですよ、イルカ先生」
「……勝つ?」
「ウン。…賭をしたんです。オレ達の恋が一時のものだって決めつけるから…。里と朔家と、オレとで。もし、イルカ先生がオレについてきたら……、二人で里抜け出来たら認めるって……」
 カカシさんが叱られる子供の様に俺の胸に顔を伏せた。
「イルカ先生がオレを助けようと命を懸けてくれたから、里は諦めたんです」
(なんだ…、芝居だったのか)
 里抜けの話も、森でのことも……。
「……矢は?胸に刺さったのに……」
「あれは暗部が作った幻覚です。イルカ先生を追い詰めるための。でも胸に刺さる予定は無かったんだよ。イルカ先生を傷付けないのが大前提だったから……」
 顔を上げたカカシさんがじっと俺を見ていた。頭を撫でる手が小刻みに震えている。
「イルカセンセ……」
 震える声で名前を呼ばれた。
「イルカ先生は死にたかったの?」
 みるみるカカシさんの瞳に涙が盛り上がり、くしゃりと顔が歪むのを見たくなくて目を閉じた。背を向けると、カカシさんがシーツを肩まで引っ張り上げてくれた。
「あの女との婚約は正式に解消されたよ。朔家は火の国に帰ったし、あの女も研修期間が終われば帰るって。……ゴメンネ、イルカ先生。こんなことして怒ってるよね。ゴメンなさい……」
 繰り返し聞こえる謝罪の声に頭までシーツを被ると、カカシさんの声は聞こえなくなった。


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