すこしだけ 60
「イルカセンセ、疲れてなーい?大丈夫?」
走りながら何度もカカシさんが俺を振り返った。俺の体力を心配している。障壁を越えてから二時間、ずっと走り通しだった。この森は警備忍が警護している。障壁を越えたからと言って安心は出来なかった。
「平気、です」
「ウン。もうちょっと先に進んだら休憩するから、それまでガンバってね」
「…はい」
握る手に力を込めて深く頷くと、カカシさんはニコッと笑って前を向いた。
カカシさんの後ろ姿しか見えないことが有り難かった。疲れた顔なんて見られたくない。普段ならもっと長い時間走れるが、いつもより速いスピードでの移動が俺の体力を奪っていた。食欲が減って不摂生していたのもいけなかったかもしれない。
足が縺れそうになりながらも、必死にカカシさんについて行った。置いて行かれたくない。でも俺の方が早くチャクラが尽きるのは目に見えていた。
(…カカシ、さん)
名前を呼びたかったが、息をするのが精一杯で声が出せなかった。
(カカシさん…)
休憩を取りたかったが、この森が俺達にとってどれほど危険な場所か理解していた。見つかれば死罪だ。
(カカシさん…)
いよいよチャクラが尽きてくるのを感じた。カカシさんは、ここまで俺に体力が無いとは思って無かったに違いない。
「うぁっ」
「イルカセンセ、あともう少し頑張って」
枝を踏み外し、落っこちそうになった俺を半ば引っ張るようにしてカカシさんが走った。気力だけで足を前に踏み出す。
酸素不足になって意識が次第に遠退いていった。自分の喘ぐ呼吸音ばかりが耳に大きく響く。
(カカシさん)
やがて周りの音も全て消えて、意識は前を行くカカシさんだけに集中した。
(カカシさん)
風に流れる銀色の髪に。
(カカシさん)
ベストに覆われた広い背中に。
(カカシさん)
俺を引っ張る逞しい腕に。
(カカシさん…)
もう一度、笑った顔が見たかった。あの時二人で見た花火のような、満開の笑顔を。
「カ……」
終わりは突然やって来た。カカシさんの腕の中に抱き留められて木の幹に押しつけられた。ようやく止まることが出来て、走りすぎた馬のように喘いでいると、カカシさんの声が聞こえた。
「絶対に動かないで。オレが守るから!」
(え…?)
顔を上げると、カカシさんが俺を庇うように構えていた。手を動かす度に夜の闇を裂くように火花が飛び散る。
ザッと血の気が引いて周りに目をやると、いつの間にか俺達は囲まれていた。闇の中から白い面がぽつぽつと浮かび上がる。
(……暗部!)
どっと絶望に包まれた。逃げ切れない。
雨のように降ってくるクナイの中、俺はただ木の幹に這いつくばっていることしか出来なかった。限界を超えて走ったせいで体が震えて動かない。
(俺も……クナイを……)
手に取ろうと体を浮かせたところで、頭を狙ったクナイが飛んできた。
「動かないで!」
すんでの所でカカシさんがクナイを弾いた。
攻撃が明らかに俺を狙ったものに変わった。俺に出来ることと言えば、カカシさんが守りやすいように小さくなっていることだけだ。
カカシさんは良く戦ったが、俺を庇いながらでは限界があった。防ぎきれなかったクナイがカカシさんの体を切り裂いた。ぽたぽたと流れ落ちる血が、木の幹にいくつもの血だまりを作った。それでもカカシさんは一歩も退かない。
(嫌だ!嫌だ!嫌だ!)
どっと涙が溢れて目の前を見えなくした。このままではカカシさんが死んでしまう。
「おい、中忍。取引をしないか。行くなら一人で行け。そうすれば、カカシを殺さずにおいてやる」
俺の動揺に付け入るように、暗部が声を掛けてきた。
「だまんなさいよ。オレを殺す?しばらく会わない内に随分偉そーな口を利くようになったね」
カカシさんから木の皮が爆ぜるような殺気が込み上げた。
「イルカセンセ、聞かなくていーよ。必ずオレが守るから」
振り向かないままカカシさんが言った。いっそう激しくなった攻撃がカカシさんを切り裂いた。
(カカシさん…!)
俺を守る大きな背中を見上げた。
もう、充分だった。
立ち上がり、俺を守る背中をとんっと押した。不意を突かれたカカシさんはあっけなく落ちていく。
それからは時間が止まったようだった。
ゆっくり落下しながら振り返ったカカシさんが、信じられないものを見るように俺を見上げた。最後に俺を見る目が哀しげなのが、少しだけ寂しい。
「アンタ邪魔なんですよ。アンタがいるから暗部がしつこく追ってくるんでしょう。ここまで来たらう一人で充分です。ついて来んな」
言って背を向けるとカカシさんの声が追い掛けて来た。
「ダメ!イルカ先生!!オレから離れないで!」
数人の暗部が俺を追う気配がした。油の切れた機械のような手足を動かしてカカシさんから遠離る。
ひゅーっと矢羽が風を切り裂く音がして、振り返るとまっすぐ胸に鏃が吸い込まれて背中に抜けた。全身から力が抜け、次の枝に届く前に落下が始まる。
受け身を取ることも出来ずに地面に落ちると、気管を逆流した血が口から溢れた。すぐに痛みは遠退き、意識も薄れていく。
「イルカセンセーッ!!」
悲痛な声が聞こえた。体を抱き上げる気配がして、もう目が何も写さないのに気付いた。
「イルカセンセ!イルカセンセイ!」
「…さわ…るな……」
俺を抱くカカシさんの腕を振り払った。
(これで、俺がカカシさんを嫌ってるように写るといいな…)
そんなことを考えていたら温かな闇が迎えに来て、酷く穏やかな気持ちになった。
なかなか良い人生だったんじゃないだろうか。
一生恋が出来ないと思ったのに、命を賭けても良いと思える人に出会えた。
幸せだった。
さよなら。
さよなら、俺のいとしい人…。
意識が途切れ、すべてが暗闇の中に包まれた。
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