すこしだけ 59



 久しぶりに収まったカカシさんの腕の中は心地良くて、いつまでもこうしていたくなるが、一際強く抱き締めた後、カカシさんは体を離して「行こう」と言った。
 甘く切なく緩みかけていた心が引き締まる。
(俺はこれから里を捨てる)
 互いの決心を確かめる様に見つめ合った。
(俺にはもうカカシさんしかいない。どこまでもカカシさんについていく)
 今なら赤い糸の存在を忘れられた。例えこの先にあるものが破滅でも構わない。
――俺はカカシさんと生きていく。
 漲る決意を瞳に込めると、カカシさんがもう一度俺を抱き締めた。少し、震えてるみたいだった。俺よりもカカシさんの方が里を捨てる罪悪感が強いかもしれない。
「…行こう、カカシさん」
 罪を犯すのは俺の方だ。
(それでも…それでも……)
 ぐいっと手を引くと、カカシさんが踏み留まった。この期に及んで……と脳裏を掠めるが、違った。
「イルカセンセ、荷物は?持って行かなくていいの?両親の形見とか大切なものあるデショ?」
「あ……」
 両親の形見は無くはないが、彼らは里を愛して亡くなった人達だ。俺が連れて行くのは申し訳ない気がした。大切なものは……、
(大切な人は、目の前にいる…)
「……ないです。行きましょう」
「いいの?……ゴメンネ、オレのせいで」
 慰めるように頭を抱きかかえられて首を横に振った。
 カカシさんのお陰で、俺は一生手に入れる筈の無かったものを手に入れた。身一つでついて行く。それで充分だった。
 それに部屋は触らない方がいいだろ。出来るだけ里抜けの発見を送らせたかった。
「……カカシさん、監視は?」
 式まであと2日なのに、拒否し続けるカカシさんに里が用意してると思った。
「付いてないよ。だってオレ、出来るだけ良い子にしてたもん。好きな素振りまで見せてさ」
 嫌そうに顔を顰めて言うカカシさんに胸がちくりとした。新聞の写真を思い出す。カカシさんはあの人に優しく接しただろうか。
「…………」
 いきなりぷすっと頬を突かれた。突然のことに吃驚してしまう。
「な、なんですかっ?」
「……イルカセンセ、ヤキモチ焼いてるの?」
 下から顔を覗かれて、かあーっと火照った。
「や、焼きもちなんて焼いてません!」
「そう?でもぶすってしてたよ?」
「してません!ぶすっとなんて、してないです!」
 からかいの笑みを浮かべたカカシさんの胸を叩いた。恥ずかしい。カカシさんを俺のものだと自覚した途端、もの凄い独占欲が生まれた。羞恥から怒る俺を見てカカシさんが楽しそうに笑う。
「だいじょうぶ。オレがスキなのはイルカ先生だけだーよ」
 カカシさんが俺を抱き締めながら言った。
(俺もです。カカシさん)

 俺も貴方だけが好きです。



 人目に付かないように東の演習場から森に入った。巨木が立ち並び、生い茂る葉に僅かな月の光しか届かない中をカカシさんは俺の手を引いて走る。ぴょん、ぴょんと枝から枝へ。こんな時じゃなかったら、まるでピクニックにでも行くような足取りだった。
「イルカ先生、里を抜けたら温泉に行こうね。イルカ先生の好きな露天風呂のある所。それから海もいーね。イルカ先生はどこか行きたいとこある?」
「俺は…」
 行きたい所なんて考えられなかった。里抜けでさえ考えてなかったのに。それより無事障壁を越えられるのか心配になった。俺の方が絶対にカカシさんの足手まといになってしまう。不安で胸が押し潰されそうになっていると、カカシさんがぐんっと俺の手を引いた。
「大丈夫だよ。イルカ先生はオレが守ります。必ず里を抜けるから。信じて」
 力強い言葉に「うん」と顎を引いた。
「…カカシさんと一緒に行けるなら、どこでもいいです」
 気を取り直したところを見せるためにさっきの質問に答えると、カカシさんの呼吸が一瞬止まって、ぐわんと腕を引っ張られて体が浮いた。
「うわっ」
 気付いたらカカシさんの腕の中で、カカシさんは俺を抱きかかえながら走っていた。
「ちょっと!自分で走れます!下ろしてください」
「いやーだよ。イルカ先生はとっても大事だから、オレが抱えて走ります」
「そんなことしたら、カカシさんが疲れるじゃないですか」
 無理矢理腕の中から抜け出すと、俺を下ろしたカカシさんが「ちぇ」と呟いた。でもその顔は楽しそうにニコニコ笑っていた。
 いよいよ障壁が見えてくると緊張に体が硬くなった。カカシさんはこっちを見ると「しっ」と唇に指を当てて、気配を消すから俺も真似て気配を消した。繋いだ手がじっとり汗に濡れる。辺りに忍びの気配は無かった。
「この時間はね、西の見回りに行くからコッチは手薄なんです」
 俺の不安を和らげようとしたのか、カカシさんがそっと耳打ちした。どうしてそこまで?と障壁の警護に詳しいカカシさんに疑問が浮かんだが、カカシさんなら有り得そうですぐに忘れた。
 それよりも目の前に迫る巨大な障壁に圧倒される。今まで頼もしかった壁が、行く手を阻む檻に見えて怖かった。
(どうか、誰にも見つかりませんように)
 壁のすぐ側まで来るとカカシさんは俺の手を離して印を結んだ。音も立てずに地面の土が動いて空洞が出来る。みるみる階段が現れて、障壁の下を通るトンネルが開通した。
 カカシさんに手を引かれて地下を走る。あっと言う間に障壁の向こうへ出られて呆気に取られた。
 狐に摘まれた気分だ。障壁の向こうにも誰もいない。
 カカシさんは通ってきたトンネルをすぐに塞いで消した。後には草が生え、そこにトンネルがあったなんて窺えない。
「さ、行くよ」
 再び走り出したカカシさんに手を引かれつつ、今まさに抜けようとしている里の警備体制に不安を覚えた。


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