すこしだけ 58
カカシさんの結婚式がいよいよ二日後に迫り、俺は部屋に置きっぱなしだったカカシさんの荷物を纏めた。
カカシさんの荷物は少なく、カカシさんが俺の部屋に来るときに持って来たリュックにすべて収まった。
(……取りにくるだろうか?)
送ることも考えたが、新しい生活が待っているカカシさんに、ここで使った物は不要だろう。置いてあることすら忘れているかもしれない。
「…………」
(…………もう、いいだろう…?)
ぽろっと頬から零れ落ちた透明な水が、コロコロとリュックのキャンバス地の上を転がった。
「……ぅっ…ぅっ、…ひっく…」
結婚式まであと2日だ。今更泣いたからと言って何も変わらない。
「う〜っ、うぅっ、えっ…」
リュックを引き寄せると胸に抱いた。溢れる涙で前が見えなくなる。この中には大切な想い出がたくさん詰まっていた。捨てることも出来ない。
「うあぁぁっ、あぁぁっ、あぁぁぁっ」
叶うなら、俺もこの中の一つになりたかった。この中の一つになって、いつまでもカカシさんとの想い出に包まれていたい。
「あぁぁっ」
好きだった。まだ、カカシさんが好きだ。好きで好きで仕方ない。前に出会わなければ良かったと言ったが、あんなの嘘だ。俺は何度だって繰り返すだろう。最後に別れると知っていても、俺は何度だってカカシさんに恋をする。
会いたい。カカシさんに会いたくてたまらない。
「カ…カシ…さん…」
「なぁに」
「!!」
そこに聞くはずのない声を聞いて、ばっと顔を上げた。
「……」
信じられない。そこにカカシさんが立っていた。いつもと変わらない様子で。眠たげな目を細めて。
(……俺は幻覚を見ているのだろうか?)
ひっくと喉を振るわせた。腰を屈めたカカシさんの手がそうっと伸びて、濡れた俺の頬を撫でた。
「良かった。泣いてる。イルカ先生泣き虫なのに全然泣かないから、もう本気で飽きられたのかと心配しました」
カカシさんの唇が頬に触れて、確かめるみたいに俺の涙を吸い上げた。
(温かい…)
でもこれは夢だろう?
すっと立ち上がったカカシさんがリュックを背負った。
「荷物纏めてくれたの?準備いーね。…さ、行くよ」
「……どこに?」
力強く腕を引かれて呆けた。なにがどうなっているのか。訳も分からぬまま立ち上がる。これは幻覚じゃないのか。
「……里をね、抜けようと思います」
「なに…言ってんですか…!」
急にぎゅるんと脳みそが回転したみたいになって、掴まれた腕を振り解くとカカシさんを突き飛ばした。硬いベストと確かな手応えに、目の前にいるカカシさんが現実だと知る。
「な、なにやってんですか!アンタこんなとこで……。もうすぐ結婚式でしょうっ?!」
「ウン。だからネ、イルカ先生迎えに来ました。いくら言ってもあのヒト達分かってくれないんだもん。これはもう里を抜けるしかないなーって」
軽い調子で言うカカシさんに目の前がチカチカした。そんなこと出来るワケないじゃないか。
「冗談は止めてください、はたけ上忍。そんなこと許されないですよ」
咄嗟に隠し持っていたクナイを抜いて構えた。そんなこと絶対にさせない。里に背いて忍びが生きていけるワケ無い。
クナイを構える俺を見て、カカシさんがコテンと首を傾げた。
「イルカ先生が止めるの?オレを?」
クスッと笑われて、かぁっと頭に血が上った。中忍だと思って馬鹿にして――。
「イルカ先生が殺してくれるなら、それでもいーよ」
「え?」
ずんずん無防備に近づいて来たカカシさんが、クナイを持つ俺の手を掴んで自分の喉元に向けた。
「あっ!」
慌ててクナイを手放す。手がカカシさんの喉に当たり、落ちたクナイがトスッと畳に刺さった。掴まれた手がブルブル震え出す。
(この人は、何をするつもりなんだ……)
「もぉ…、ダメじゃないですか。ちゃんと持ってないと」
畳に刺さったクナイに手を伸ばそうとするカカシさんに、クナイの柄を蹴って遠ざけた。部屋の端に飛んでいくクナイを見てカカシさんがふぅっと溜め息を吐いた。それから自分のポーチに手を入れて新たなクナイを取り出すと、俺に握らせようとした。
「今度はちゃんと持っててね」
「い…、嫌だ、嫌だ嫌だ!」
逃げようとしたけど手首を掴まれて離れられず、暴れて手を固く握りしめた。
カカシさんを殺すなんて、そんなことしたくない。
「イルカ先生は我が儘だなぁ…。一緒に逃げるのもイヤ、殺すのもイヤ」
困ったように言われて、どっと涙が溢れた。
「そんなこと出来るワケないじゃないですか!」
俺はカカシさんに幸せに生きていて欲しい。ただそれだけが俺の願いだった。
「選んで、イルカ先生」
「出来ないって言ってるじゃないですか!どうしてそんなことばっかり言うんですか!!」
どうすることも出来ずに、わんわん泣いているとカカシさんが立ち上がった。置いて行かれようとする子供みたいに心細くなって、カカシさんを見上げた。
「イルカ先生、一緒に行こう?…オレはもう、この里で生きていたくなくなりました。里をとても大切に思っていました。里や仲間のためなら命を捨てても惜しくはないと…。でも好きな人はダメです。イルカ先生はオレの魂です。だから一緒に居られないのなら、里を捨てます。止めても行くよ?イルカ先生が来てくれないなら、一人でも抜けます。でもイルカ先生が一緒じゃなくても里を抜けるなら、一緒に抜ける方がいいデショウ?ねぇ、イルカ先生、ウンって言って?」
「……」
差し出された手をじっと見つめた。
(なんだその理屈は。無茶苦茶じゃないか)
呆れながら、ぐすんと鼻を啜った。
「イルカ先生、オレが居ないと寂しいデショ?独りぼっちだと、泣いちゃうデショ?」
『独りぼっち』の言葉に、止まりかけていた涙がまたぽろりと零れた。本当に寂しかった。もう二度と、あんな思いはしたくないと思うほど。
「ネ、一緒に行こう?」
甘い言葉に気持ちが揺らぐ。
でも、もう決心はついていた。差し出された手を捕まえる。
「……一緒に、いきます」
俺はカカシさんと生きていく。
コクンと頷くと、手を引かれてぶつかるように唇が重なった。唇を塞がれたまま、痛いほど抱き締められて窒息しそうになる。それでも唇を離せなくて深く重ね合わせていると、満足したカカシさんが唇を離して、額を合わせながら言った。
「イルカ先生、オレのこと好きデショ?」
「す、好きじゃありません!」
つい、いつものクセで否定すると、カカシさんはくしゃりと照れ臭そうな笑顔を浮かべた。
(ああ、本当にこの人が好きだ)
カカシさんとなら、里抜けだってやり遂げられそうな気がした。
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