すこしだけ 57



 すっかり軽くなった弁当箱片手に家に帰った。
 カンカンと階段を上る音がやけに大きく響く。鍵穴に鍵を差し込んでドアを開ければ、通路の明かりが部屋の中に差し込み、居間の卓袱台を浮かび上がらせた。
 ドアを閉め、サンダルを脱いで部屋に上がる。卓袱台に置いたままになっていた、イルカのキーホルダーの横に空になった弁当箱を置いて息を吐き出すと昼間のことを思い出して、どっと全身が重くなった。
(きっともう、あれが最後だ……)
 カカシさんはあのヒトとの婚約を解消すると言っていたけど、期待していなかった。
(……疲れた)
 膝を曲げて座ろうとしたが足が杭になったように動かなかった。しんと静まりかえった部屋はどこかよそよそしくて、自分の部屋じゃない気がした。どこを見ても慣れ親しんだ部屋なのに、ここはもう俺の居場所じゃ無くなっていた。
 そこかしこにカカシさんの柔らかな想い出があって俺を苛む。意識しなくても、卓袱台を挟んでニコニコしていたカカシさんや座布団に座って俺を振り返るカカシさんが容易に思い浮かぶんだ。目を逸らしても、廊下や部屋の隅にまでカカシさんとの想い出があった。
(思い出したくないのに!!)
 もう二度とカカシさんはこの部屋に来ない。もう二度と会わない。もう二度と話しかけない。
「……っ!」
 全身を締め上げるような痛みが走った。
 どうしてカカシさんのことを好きになったのだろう?
 こんな日が来るのが分かっていたのに。出来ることなら時間を戻してやり直したかった。カカシさんを好きになる前から、……カカシさんと出会う前から。
「…っ!……っ!」
 痛い。消えてしまいたかった。この痛みから逃れたい。
(どうして俺は存在するんだろう……?)
 誰とも繋がることが無いのなら、存在する意味なんてないじゃないか。
(消えたい、消えたい!消えたい!!)
 カカシさんと出会う前は、どうやって生きてきたのか思い出せなかった。これからどうやって生きていけばいいのだろう。
(生きてても、意味ないのに)
 俺は誰からも必要とされない。俺を好きだと言ってくれたカカシさんにもいつか忘れられる。
(……カカシさん)
 無意識に唇が動いて、声が漏れようとしたときだった。遠くで気配が揺らいだ気がして、はっと我に返った。改めて周囲の気配を探るが何も感じ無い。
「……」
 よろよろと台所に向かうと冷蔵庫を開けた。俺は生きていかなくてはならない。ご飯を食べて風呂に入り、眠って起きてアカデミーへ向かわなければならない。
 いつかカカシさんが俺のことを忘れる日まで。それが俺の生きる意義だ。
 義務的に飯を食って風呂に入る。することが無くなると、ぼんやり立ち尽くした。神経が張り詰めて眠れる気がしない。それでも寝室に向かって布団に入った。眠るフリだけでも必要だ。
 だけど枕に顔を埋めると、やはり疲れていたのか全身から力が抜けた。息を吸い込む度に心地良さに包まれて、やがて眠りが訪れた。





 日々は淡々と過ぎて、カカシさんとの別れから3週間ほど過ぎた頃、カカシさんとミツバ先生の婚約が発表された。
 式の日取りも決まり、里中が祝福ムードに包まれた。新聞には笑顔で並ぶ二人の写真が掲載された。
(……早かったな)
 想像していたもののショックを受けた。
 たった3週間。
 会わずにいれば、いずれカカシさんは彼女に惹かれると思っていたけど、こうも早いとは。可笑しくて、涙も出てこない。


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