すこしだけ 56



 周囲の物言いたげな視線に耐えきれず、昼休みになるとアカデミーの裏庭に逃げた。ここはあまり人が来ない。古びたベンチにどっさりと腰を下ろし、頭を抱えた。
 ちゃんと説明すれば良いのに逃げてしまった。朝も、同僚の質問に別れたと答えれば済むことなのに、俺は言葉を濁した。
(言いたくないのかな……)
 周囲にそう知らしめることは必要だと分かっているのに、どうしても言えない。言えば、カカシさんとの別れを確実なものへと歩を進めてしまうから。
(…未練がましい)
 そんな自分を嫌悪して、頭を抱えたまま横に倒れた。歯を噛み締めて胸の中を渦巻く苦痛に耐える。俺は未だにカカシさんと別れたくないと思っていた。
(昨日決めたのに。それしか道は無いのに…。クソ!クソ…っ!)
「…イルカセンセ、具合悪いの?」
 突如聞こえた声に跳ね起きた。目の前に、憔悴しきったカカシさんがいた。わぁっと込み上げた喜びをひた隠して、俺は声を荒げた。
「な、何の用ですか!近くに来ないで下さい!」
「イルカ先生が具合悪そうだから…」
「なんでココに居るんですか!俺のこと付けてるんですか!?」
「違うよ!職員室に行ったらイルカ先生がいなかったから探して…。ねぇ、そんなに怒らないで…?どうして急にそんなにオレのこと嫌うの?ちゃんと訳が聞きたいです」
 みるみる赤くなっていくカカシ先生の瞳に胸がズキズキした。嫌ってなんていない。こんな状況になって、苦しいばかりだ。泣きそうなカカシさんを見ているのが辛くて俯いた。こんな時間、早く過ぎ去って欲しい。
「………俺は面倒臭いことは嫌いです。もういいじゃないですか。あの人と結婚したら。逆玉ですよ。出世街道間違い無しですよ」
「そんなことに興味ありません!…それに、あの女とは結婚しないよ?何度も言ってるデショ?オレがスキなのはイルカ先生だけだって。どうして信じてくれないの?」
「それでも、あの人は婚約者じゃないですか。結婚の話だって進んでる……」
 それに、運命の赤い糸の相手だ。
 望みも希望も失って項垂れた。運命は着々とカカシさんとあの人を繋げようとしている。カカシさんの気持ちなんて関係なかった。
(きっと…、こんな風に繋がっていくカップルもいるんだな……)
「それはあっちが勝手にしていることだよ! オレは話があった時からずっと断ってる! あの女とは、まともに話したことすらないんです」
「え……?」
(そうだったんだ……)
 火影室で親しげに呼びかける彼女の姿に、前からの知り合いなのかと思っていた。
「……こういう事、ちゃんとイルカ先生に話して無かったのがいけなかったの?」
 俺が反応したことに希望を見いだしたのか、カカシさんが縋るように俺を見た。
「でもオレは自分で解決出来ると思ったんです。余計な話はイルカ先生の耳に入れたくなかった…」
 カカシさんが苦渋の表情を浮かべた。膝を折って俺の足下に跪くとぎゅっと手を握る。
「…ちゃんと話すから、聞いてくれる?」
 まっすぐ見つめられて目を伏せた。聞いたところでどうにもならない。だけど彼女との事が気掛かりだったから、握られた手を振り払わずに黙り込んだ。
 カカシさんが話し出す。
「あのね、春の任務であの女が婚約者だと紹介されたの話したデショ。あの時オレ、女の顔も碌に見ないで断って帰って来たんだよ。だってオレにはイルカ先生がいるのに、何言ってるんだと思って。ずっとスキで、やっと付き合えそうだったのに、あんな女と婚約なんてするワケないじゃないですか」
 カカシさんが何度も俺の手を握り直した。
「……不安はあったんです。任務って聞いて行ったのに、コレだったから。里が絡んでるなって…。だから戻ったら釘を刺しておこうって…、オレにはイルカ先生がいるんだって言っておこうって思いました。……でも、まだ恋人じゃなかったから、イルカ先生の返事を先に聞こうとしたら、どこにも居なくて、男ばっかりのバーで飲んでて…。オレは焦って…、こんな話が持ち上がってる時なのに、イルカ先生はよそ見してて…、自分勝手なのは分かってるけど、イルカ先生がこんなんじゃ里に太刀打ち出来ないって…。イルカ先生が強くオレを想ってくれないと、里に引き離されちゃうって…。…だから、オレは、イルカ先生を無理矢理抱きました」
 カカシさんが握った手にぎゅうっと額を押しつけた。
「許されることじゃないのは分かってたんです。でも一刻も早くイルカ先生を自分のモノにしたかった。イルカ先生にオレのこと恋人と思って欲しくて…。だけど翌朝泣いているイルカ先生を見て、オレはとても酷いことをしてしまったんだと自覚しました。でも泣かせてしまった分、これからイルカ先生を大切にしようって…、一生大切にしようって心に誓ったんです。…ゴメンなさい。あの時、酷いことをして、ゴメンなさい」
(…そうだったんだ。そんな風に思ってたんだ……)
 違う。俺が泣いたのは、俺とカカシさんの赤い糸が繋がっていないのが悲しかったからだ。夢で繋がっていると思ったから、余計に悲しくなった。
 それに、強引に行為に及ばれたのは嫌だったけど、抱かれること自体は嫌じゃなかった。でなければ、その後も抱かれたりしない。
 カカシさんが初めて婚約の事を話してくれた時に、怒ったりせずにちゃんと話を聞けば良かった。あの時俺が「嫌だった」と言ったのは、カカシさんの誤解を深めただろう。
 カカシさんの心を傷付けている誤解を解いてあげたかった。
 でもそれをすることは、二人の関係の修復に繋がることだから言えなかった。
(…ごめんなさい、カカシさん。ゴメンなさい…)
 懺悔するように膝の上に乗せられたカカシさんの頭が愛しかった。銀色の髪を撫でてあげたい。でもそうすることが出来ずに、めったに見ることのない左巻きのつむじをじっと見つめた。
 もう二度と誤解を解いてあげられないのが心残りだった。
(だけど、真実は俺が知ってる……)
 それで充分だった。
 あの時、カカシさんは泣いていた。こんなつもりじゃなかったと、泣いていた。夢かと思っていたけど、あれは夢じゃなかった。
「…もう、行っていいですか」
 はっとカカシさんが顔を上げた。その目に混乱や哀しみが渦巻いていた。必死に糸口を探そうと揺らめく。カカシさんが、俺を引き留めようと両腕を掴んだ。
「ま、待って。まだ話は終わってないよ。女が里に入ってから、火影室で会ったとき意外は一度も会ってません。設けられた会席も式場も全てキャンセルしました。ね?分かるでしょう…?オレに、あの女と結婚する意思はないんです!」
 カカシ先生の瞳が必死に訴えかけた。俺の信頼の回復の兆しを探して、瞳の奥を覗き込む。そっと目蓋を伏せた。
「…ええ、良く分かりました」
「イルカセンセ…」
 鷹揚に頷いて目蓋を開けると、カカシさんがホッとした表情を浮かべた。緩んだ手を解いて、カカシさんの両頬を包む。それから子供に言い聞かせるように、じっくり瞳を合わせた。
「はたけ上忍、その結婚は逃れられませんよ」
 凍り付くカカシさんを押し退けて立ち上がった。これ以上話すことはない。いつか、カカシさんが幸せだと思える日がきっと来る。
「待って!イルカ先生、まだ行かないで!話すことがあります!まだ…!」
 泣きそうな声が追い掛けて来た。振り返らずに歩いていると、カカシさんが前に回った。立ち塞がろうとするのを避けて歩く。
「何度も言いますが、しつこくしないでください!これ以上は時間の無駄です!」
 伸ばされた手を睨み付けると宙に浮かんだ手が止まった。俺に触れるのを躊躇し、やがてだらんと垂れ下がった。握りしめられた両手がぶるぶる震えていた。
「…わかりました」
 随分経ってからカカシさんが言った。
「このままじゃ、イルカ先生が納得してくれないのも理解出来ます。だから、きっちりカタを付けて来ます。完全に、彼女との婚約を破棄してきます。…それまではイルカ先生の前に現れません」
 弱り果てながらも、笑顔を浮かべようとするカカシさんの前から立ち去ろうとすると、再び前に回ったカカシさんがぐいっと固い物を押しつけてきた。温かい。どこから取り出したのかお弁当だった。
「食べて。イルカ先生、昨日から何も食べてないデショ?」
「いらな……」
 更に弁当を押しつけられて思わず受け取ると、カカシさんが瞬身で消えた。辺りを探っても、もう気配は無い。手の中に温かいお弁当だけ残った。
「……」
 どっと疲れが押し寄せて、その場に立ち尽くした。貰ったって、弁当なんて食べられない。予鈴が聞こえてきて、弁当を持ったまま職員室に向かった。誰かにあげればいい。
 しかし午後を過ぎると、興味深げだった周囲は腫れ物にでも触るように距離を開けて、必要以上に俺に話しかけてこなくなった。仕方なく弁当を持ったまま帰路に就いた。
 途中、路地の隙間から、くぅくぅと鳴き声が聞こえた。奥を覗き込むと子犬が蹲って震えていた。野良犬なのか俺を見ると警戒したように唸る。
(……丁度良い)
「……来い来い、ホラ、ご飯だぞ」
 包みを解いて、すっかり冷たくなった弁当箱の蓋を開けて見せた。仕出しかと思っていたのに、カカシさんの手作りだった。俺の大好きな卵焼きが入っている。
「……くぅん」
 匂いに吊られたのか子犬が近くまで来ていた。弁当を地面に置くと、俺を警戒しながら弁当の匂いをしきりに嗅ぐ。俺が何もしないでいると舌を伸ばしてペロリと舐めた。それから勢い良く食べ始める。
「…旨いだろう?いっぱい食えよな」
 そうっと手を伸ばして頭を撫でても犬は逃げなかった。卵焼きを咀嚼しながら俺を見上げて、また弁当に顔を突っ込む。
 次第に弁当が空になっていく。そうしてカカシさんの想いが消えていくのを膝を抱えて眺めた。


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