すこしだけ 55



 ずっと抱えていた膝から顔を上げた時には夜中になっていた。
(明日の為に風呂に入って授業の準備をしなくてはいけない…。)
「…ふ」
 こんな時なのに普段の生活を気にする自分が可笑しくなった。きっと俺には恋愛に関する感情が欠けているに違いない。だからカカシ先生を簡単に振った。
 指先が手首を撫ぜて違和感に気付いた。そこにあるものが無いのは、俺が引き千切ったからだ。そこから指を遠ざけて、早く動かないとと思うが億劫で動けない。しばらくすると指先が手首に戻って苛立った。
 いつの間にか、紐を弄ぶのが癖になっていたようだ。有るときには意識してなかったのに、無くなってから気付かされるなんて。
 立ち上がると居間に戻った。畳に視線を落として千切れた紐を探す。
「…あれ?」
 紐が無い。そんな筈は無いと四つん這いになって卓袱台の下を覗き、座布団をひっくり返した。
(ない…、ない…。…もしかしてカカシさんが…?)
 卓袱台の上を見ると鍵はあった。紐だけ持って帰ったなんて考えられない。そんな暇も無かった。
 タンスの隙間を探し、台所や寝室も見て回る。
(ない、見つからない…。無くした……)
 その瞬間、ごそっと俺の中から何かが抜け落ちた。体の中に黒く大きな穴が開く。
「あ…」
 そうなってようやく、俺はカカシさんを失ったのだと実感した。もう二度と、今までのように付き合えない。
 穴がどんどん広がっていく。何も無かった。残っているものは何も。俺のすべてがカカシさんで出来てたみたいに、彼を失って空っぽになっていく。
(どうせなら、全部無くなったらいいのに…)
 ふっと自嘲気味な笑みが零れた。そうはならないことを知っている。やがて俺は立ち直る。両親の時がそうだったように。カカシさんのこともいつか忘れる。
(俺は一人でも生きていける。)
 ずっとその覚悟をしていた。
 日が昇って部屋が明るくなると風呂に入った。身支度を調え、少し早いが家を出る事にした。いつもと同じ時間に出て、隣にカカシさんが居ないと周りが変に思うかもしれない。早く着いてしまえば、どうとでも言い訳が出来る気がした。
 サンダルを履いて玄関を開けると地面に黒い棒みたいな物が見えた。
(違う、人の足だ。)
 それが気配を消したカカシさんのものだと気付いて、きゅっと心臓が小さくなった。咄嗟にドアを引いて中に入ろうとしたら、手甲を嵌めた手がドアを止めた。玄関脇に背を預けて座っていたカカシさんが立ち上がる。見た事ないほど険悪な顔をしていた。
 怒っている。それももの凄く。
 その顔を怖いと思うのと同時に嬉しいとも思った。カカシさん傍に居てくれた。だけど喜びはすぐに胸の奥に押し込めた。もうそんな風に思ってはいけない。
 押し問答しても力では勝てないから、中に入るのは諦めて外に出ると玄関に鍵を掛けた。
「イルカ先生」
 聞こえないふりして通り過ぎようとしたら腕を掴まれた。容赦ない力に顔を歪めて腕を上げた。振り払おうとすると、掴む手にますます力が入った。
「痛いっ!離して下さい!」
 話さないつもりだったのに、つい声が出た。いつもはそれで緩むカカシさんの力も今日は緩まない。怒りの激しさを知って、また心が歓喜した。
(カカシさんが俺を怒ってる!カカシさんの関心がまだ俺にある!)
「離せ!」
「別れるってなに?ふざけるな!!」
 号怒されてビクッと体が跳ねた。こんなに怒られた事無い。カカシさんを突っぱねようと張り詰めていた心がぐにゃりと曲がって許しを請いたくなる。
(…駄目だ。出来ない。)
「イルカ先生、オレ達の繋がりはそんな簡単なものじゃ無かったでしょう?ちゃんと話を――」
「フッ、繋がり?そんなもん俺達に有ったんですか?…有りませんよ、最初から。繋がりなんて…」
 本当の事だったから淀みなく言えた。強く睨み返すと、一瞬カカシさんの瞳が揺らいだ。俺の真意を探るみたいに、…不安げに。
「イル――」
「昨日も言いましたが、しつこくしないで頂けませんか?…誤算だったな。はたけ上忍ってこう言うの後腐れ無いって聞いてたのに」
「え…?」
「とっかえひっかえしてたんですよね?だったらもう他あたって頂けませんか?それとも中忍ごときに振られるのは心外でしたか?」
 今まで見せた事無い様な冷たい顔で言った筈なのに、カカシさんの表情がほっとしたものに変わった。
「やっぱりイルカ先生何か言われたんだ?そうだよ…、イルカ先生と付き合う前はそうだった。でもイルカ先生と付き合ってからは他の誰とも付き合ってないよ。浮気なんてしてないから安心して?オレにはイルカ先生だけだよ」
(嫌だ!嫌だ!嫌だ!……そんな言葉、聞きたくない…!)
「馬鹿じゃないですか。誰も何も言ってきませんよ。俺がもうアナタに飽きたんです。好きじゃなくなったんです。ただそれだけですよ」
「ウソだ!」
「また殴りますか?」
 全然そんな素振りは無かったけど、脅すと俺の腕を掴んでいたカカシさんの手が緩んだ。目に見えるほど狼狽して、また昨日のカカシさんに戻って行く。
「ち、違うよ…、昨日はゴメン。あんなコトするつもりじゃなかったんだよ?あんまりビックリしたから…いえ、全部俺が悪いんです。ゴメンなさい。イルカ先生怒ってるの?だからこんな意地悪言うの?お願い…イルカ先生、オレのこと許して…。…どうしたらいいの?どうしたら許してくれるの…?」
 俺に縋らんばかりのカカシさんにニコッと笑いかけた。
「…そうですね。昨日はあまりに急すぎましたもんね」
「イルカセンセ…!」
「じゃあ、しばらく会わないことにしましょう。お互い距離を置いて、二人の関係を考え直しましょう」
「イヤだ…イルカ先生…待って!」
 話は終わったとばかりに歩き出すとカカシさんがついて来た。俺は最低な人間だ。俺の言葉で傷付くカカシ先生を見て、嬉しいと思っている。……だけど、それがいつまで続くのか。
「イルカ先生待って…、ねぇ、どうしちゃったの?お願いだからちゃんと話しよう?………会わないって、どのぐらいの期間なの?いつになったらイルカ先生に会いに行っていいの?……イヤだよ、イルカ先生に会えないなんてイヤだ。淋しい。辛いよ…」
 カカシさんに追い越されないように足早に歩いた。

 アカデミーの門を潜って校舎に入っても、カカシさんはまだついて来た。仕方ないと次の手を打つ。
「ねぇ、イルカ先生」
 職員室に入ったところで振り返った。
「いい加減にしてください!」
 騒がしかった職員室が水を打ったように静まりかえった。
「ここは俺の職場です!こんなところまで私情を持ち込まないで下さい!」
「ゴ、ゴメンなさいっ、オレが悪かったです。…あの、また後で来ていい?休憩の時に――」
「だから止めて下さいって言ってるじゃないですか!会いたくないっていってるのが、どうして分からないんですか!」
「お、おい、イルカ――」
 俺達の只ならぬ気配に同僚が割って入った隙にカカシさんに背を向けた。これで、俺達が別れようとしてることが皆に伝わっただろう。
「どうしたんですか?」
「ウン、ちょっと…」
 痛いほどカカシさんの視線を背中に感じたが、振り返らずに席に着くと、「ゴメンネ」と呟いたカカシさんの声が聞こえて気配が消えた。
「…どうしたんだよ、イルカ?喧嘩か?」
「いや、ちょっと…」
 それ以上話すことは無いと出席簿を広げた。戸惑う同僚の気配がしたが無視した。


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