すこしだけ 54



 無事に会議を終えて、ほっとした顔で出て行く先生方を見送った後、俺は会議室の後片付けを手伝った。会議の準備は当番制だが、一人ではなかなか大変なので手の空いた者が手伝うようにしていた。
 俺とその日担当だった同僚で不要になった資料を集め、円形にした机を元に戻した。それから湯飲みを集め、黒板を消していると同僚から声が掛かった。
「悪いな、イルカ。午後から授業だろ?あとは俺一人でやっとくよ」
「そうか?」
「ああ、早く飯食わねぇと時間無くなっぞ」
「わかった。…この資料、戻しとくな」
「サンキュ」
 手を上げる同僚に応えて会議室を出ると、火影の家にある資料室に向かった。
(これを戻したら昼飯にしよう。)
 ぐぅと音を立てる腹を撫でて宥める。朝食べなかった分の空腹が今になってやって来た。カカシさんにチャクラを貰ったお陰だろうか?
(カカシさんはもうお昼食べたかな…?)
 随分急いでたな、と今朝のカカシさんの様子を思い返している内に資料室に着いた。特別な印を結んで解錠をする。扉を開いた瞬間、湿気の独特な匂いがして、中に入ると窓を開けて換気した。一度書類の陰干しをした方がいいかもしれない。
 今度の会議の時に提案してみようと思いながら書類を棚に戻した時、突然外からカミナリの様な老齢な声が轟いて、ビクリと肩を竦めた。
「一体どういうつもりだっ!!!」
(な、なんだ!?)
 声は上の階から聞こえてきた。資料室の上は火影室だ。任務のクレームでも来ているのだろうかと耳を澄ませると、思わぬ人の名を耳にした。
「はたけカカシは何時になったら現れるんだ!」
 イライラと床を踏み鳴らす音が聞こえる。カカシさんがどうしたのだろうと、嫌な感じに心臓がドキドキした。静かに気配を潜めて上の様子を窺う。
「何が不満なんだ!結納をすっぽかしたばかりか、勝手に式場までキャンセルしよって!」
 カカシさんとあの人との話が結婚にまで進んでいた事にショックを受けた。全然知らなかった。カカシさんだって、そんな素振りを見せなかった。
「朔家に入ることになんの不満がある。我が一族は代々将軍家に使えてきた家柄ぞ。名誉なことと思えど、拒絶される謂われはないわ!」
 朔家と云えば、木の葉の忍びの中でも名門中の名門、由緒正しい一族だった。
 ――存在すれど存在せず。
 姓を捨て、生涯を将軍の影として生きる。『朔』とは、姓の無い彼らの総称に過ぎない。一切表舞台に出ず、火の国を裏から支えてきた一族だ。
(…そんなところに婿入りしたら、もう二度とカカシさんに会えなくなる…!)
 どうしても嫌だった。いつかカカシさんが結婚するのは仕方がないとしても、一生会えなくなるのは嫌だ。なんとしてでも結婚を阻止したい気持ちが強くなる。
「ミツバもあの通り美しく、年の頃も釣り合うておる。本来なら、はたけ家など、婚姻を結ぶ家柄ではないわ。それをミツバがどうしてもと云うから…」
 あの人がカカシさんを好きだと云う事に、またしてもショックを受けた。やっぱりあの人はカカシさんを好きだった。それは赤い糸の作用だろうか?それでも俺はあの人にカカシさんを渡したくない。
 俺はカカシさんと離れて生きていけない。生きていたくない。
 話を聞くだけなら、まだ望みがあるように思えた。カカシさんは朔家に望まれていない。それなら――、
「この婚姻は上様も認めておる。断われるものではないと、はたけカカシに伝えておけ」
 老人の声は俺の希望を打ち砕いた。
 この婚姻は断われない。
 だったら。そうだとしたら、――俺と一緒に逃げてくれないだろうか。今なら、今頼めば、きっとそうしてくれる。カカシさんが俺の事を好きな今なら――。
「……まったく、親が親なら子も子だ。自分の父親が自害したのを目にしておきながら、何故分からん。里に逆らって生きていくことなど出来んことを…」
(え?)
 忌々しげに吐き出された老人の声に頭の中が真っ白になった。
(カカシさんのお父さんが…?自害?)
 一体何があったんだろう。カカシさんのお父さんの身に起こったことが気になった。それをカカシさんが見ていたなんて。
 当時の事を調べたいと思った。
(ああ、だけど――)
 大切なのは、そこじゃない。
 どっと全身から力が抜けた。
 赤い糸があの人と繋がっていても、カカシさんは俺のことを好きだと言ってくれた。けど、きっとこんな形で繋がるカップルもいるんだろう。


 一人で家に帰ると玄関に鍵を掛けた。カカシさんと付き合うようになって、カカシさんが帰ってないのに鍵を掛けるなんて初めてのことだ。
 日が暮れている部屋の中で一人佇む。何もする気になれなくて、卓袱台の前に座って玄関を見詰めた。ぼうっと物思いに耽る。
 例えば、急な任務に出てくれないだろうか?そうすれば、別れを告げるのが一日遅れる。一番良いのは、このまま会わなくなることだ。別れをはっきりさせないまま、終わりにして欲しい。そしたら俺は、心の中でカカシさんと繋がっていられる。
 部屋いっぱいのオレンジ色が消えて青い光が壁を染める頃、カンッとアパートの階段を駆け上がる音が聞こえた。その音だけで、俺を捜してくれた事が窺えた。ズキンッと胸の中が捩れる。
 玄関前まで来たカカシさんがドアを引いた。鍵が掛かっているのにガチャガチャとノブを回す。
「イルカセンセ?」
 カカシさんが不思議そうな声で俺の名を呼んだ。気配は消さなかった。俺が居るのに、ドアを開けない事を示す為に。
 しばらくガチャガチャノブを回した後、音が止んだ。鍵を差し込む音が聞こえて解錠される。
(ああ…)
 影に縁取られたカカシさんの姿を見つめた。大股で部屋に入り込むと明かりを点ける。
「イルカセンセ?どうしたの?何かあった?」
 かちゃりと卓袱台に置かれた鍵に視線をやった。イルカのキーホルダーの付いた鍵。カカシさんが使うを見るのは初めてだった。
(最後の最後で使うなんて…)
「イルカセンセ?」
 額に向かって伸びてくる手を横に払った。甲に当たる手甲のざらつきを手が克明に覚えた。これから起こる出来事に反して、俺の目が、耳が、体が、カカシさんを刻みつけようとする。
 訝しげに眉を寄せるカカシさんの顔をまっすぐに見つめた。その目は、あの時の目だった。俺に危害が加えられたんじゃないかと心配する目。
 俺が別れを言い出すなんて、これっぽっちも疑って無いのが嬉しかった。だから勇気が持てた。
「カカシさん、俺と別れてください」
 声は震えなかった。カカシさんの顔に驚愕が広がっていくのを眺めた。
「ど、どうしたの?イルカ先生…、何かあった?誰かに何か言われたの?」
 カカシさんは俺の言った事を信じてなかった。話をすればどうにかなる、と信じている。
「何も。もうカカシさんと付き合うのが嫌になったんです。だから別れて下さい」
 目を見てじっくり話す。『別れて』と云う度に変な自信が付いた。俺は何度だって繰り返せる。
「イルカ先生、本気なの?どうしてそんなこと言うの?」
 ようやくカカシさんの瞳に動揺が見えた。
「イルカ先生ちゃんと話して。今日何かあったんでしょう?そこから話してくれないと分からないよ。そしたらオレがちゃんとするから…」
「何も無いですよ。ただもう、カカシさんと別れたくなったんです」
「そんなはず無い!朝、別れる時はいつも通りだった!どうして急にそんなこと言うの?ねぇ?ちゃんと話ししてよ!」
「……そんなこと言われても、もうカカシさんと話する事ないです」
「イルカセンセイ!!」
 怖いぐらいの力で引き寄せられた。両腕に食い込む指がカカシさんの激情を物語っていた。痛い。でも、カカシさんはもっと痛い。
 俺は眉を顰めて身を捩った。
「痛いです。離して下さい」
「ゴ、ゴメン…」
 オロオロしたカカシさんが指を緩めたが、手を外しはしなかった。可哀想なほど狼狽えて、俺を見ている。
「……もぉ、面倒臭いなぁ。しつこくしないでくださいよ。理由なんていいじゃないですか。終わりにして欲しいって言ってるんだから、終わりでいいじゃないですか」
 正直なところ、理由なんて思いつかなかった。カカシさんと別れたい理由なんて無い。これっぽっちも、砂の一粒さえの理由も見つからなかった。
「イルカ先生、そんなんじゃ納得できないよ。別れたくない。…オレは、別れないよ」
「しつこい!!」
 ばっとカカシさんの両手を払った。
「もう出て行って下さい!金輪際二度とここに来ないでください」
「イヤだ!」
 体を押して外に出すとすると、カカシさんが踏みとどまった。狭い居間で押し合いになる。
「どうして?そんなの納得出来ないよ」
「うるさいっ…、あっ!」
 押し合っていたところに不意に力を抜かれて、カカシさんの胸に倒れ込んだ。強い力で抱き締められて、体中の力が抜けそうになる。
(カカシさん!カカシさん!カカシさん!)
 背中に腕を回したくなるのを必死で堪えた。離れようと腕の中で藻掻く。カカシさんの胸を強く叩いた。
「は、なせ…!」
「イルカ先生、別れるなんてウソだよね?オレの事、スキでしょう?」
「好きじゃない!!」
 反射的に叫んで思いだした。
(そうだ。俺はずっと自分に言い続けてきた)
「カカシさんなんて好きじゃないです。好きになった事なんて無いです。勝手に決めつけないで下さい。今まで、一度も好きだなんて言わなかったでしょう。……こんなもの、もう要らない」
 その時視界に入った紐に指を掛けて引き千切った。カカシさんとお揃いの、俺とカカシさんを結ぶ紐を。
 その瞬間、パン!と頬が音を立てて、俺は部屋の隅に転がった。何が起こったのか分からなかった。顔を上げると、己の手を見て呆然と立ち尽くすカカシさんが居た。
(叩かれた…)
 猛然と怒りが沸いてきた。ジンジンと叩かれた頬が火を放つ。
「ゴメン!イルカ先生、オレ…」
「どうして俺が叩かれなくちゃあいけないんですか!!!」
(どうして!どうして!どうして!)
 こんなに辛い思いをしているのに!!!こんなに痛い思いをしているのに!!!
 まだ痛みが足りないとでも言うのか。
「ゴメン、イルカ先生ゴメン」
 慌てて俺を助け起こそうとするカカシさんを突き飛ばした。
「出てけ!!」
 勢いに任せてカカシさんを玄関の外まで押し出す。ドアを閉めると外からカカシさんが叩いた。
「イルカ先生、ゴメンネ。今日は帰るけど、オレは諦めるつもりはないよ」
「うるさい!」
 鍵を掛けると部屋の奥に引っ込んだ。しばらくカカシさんは居たようだけど、時間が経つと気配が消えた。
(…終わった)
 カカシさんは諦めないと言っていたけど、俺を忘れるのは時間の問題だろう。そしてあの人と結婚する。
(…それでいい)
 あの人にカカシさんを盗られるのは嫌だと思った。カカシさんに会えないのは嫌だと思った。
 だけど会えない痛みより、もっと辛い事がある。
 例え二度と会えなくても、俺はカカシさんが生きている方がずっといい。


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