すこしだけ 5



「せんせい、さよなら!」
「おう!気をつけて帰れよ」

ばたばたと教室から走り去る後姿に声を掛けながら窓を閉める。
中途半端に引かれたカーテンを纏めると、窓の下に並んで帰っていくミドリとノボリが見えた。
もう足は平気なのかミドリの歩き方におかしなところは無い。
少し離れて歩く二人を赤い糸が繋いでいた。
二人の距離の分だけ短くなって赤く揺れる。
苺みたいな赤い色だった。
誰も居なくなったのを確認してから教室にカギを閉めた。
一旦職員室に戻ってカバンを取ると受付所へ移動する。
これから七時までは受付勤務だった。
受付所に入ると、帰ってきたタイミングが重なったのが帰還した忍びが列を作っていた。
急いで席に着いて、「どうぞ」と声を掛けると二列に並んでいた列が三列になった。
滞っていた列が流れ出して、ホッとする空気が帰ってきた忍びからも受付忍からも感じられた。
書類に目を通して判を突くと「お疲れ様でした」と任務の完了を告げた。
一人去って、また次の書類を受け取る。
忙しくしていると、中の様子を伺いながら一人の忍びが入ってくるのが見えた。

(…カカシ先生だ……)

視線が合う前に書類に目を戻した。
期待しているように思われたくない。
カカシ先生と食事に行く約束をしてから半月が経っていた。
その間、一度も食事に誘われたことも無ければ会うこともなかった。
分かっている。
あれは酒の席の約束だ。
真に受けてなんかいない。
だから俺はカカシ先生を待っては居なかったし、ガッカリもしていなかった。
約束なんて元々なかったのだから、傷付いてもいない。
大体『ずっと』なんて迷惑なことを言った。
カカシ先生が覚えてないなら、その方が良かった。

「お疲れ様でした」

顔を上げた時、さりげなくカカシ先生を探した。
隣の列にも、隣の隣の列にも居ないのを確認して胸が重くなった。
カカシ先生が俺の列に並んでる。

(………普通にしよう)

いつもやってることだ。
「お疲れ様です」と声を掛けて、手を出して書類を受け取る。
そして下を向いていたらすぐに時間が過ぎる。
後は「お疲れ様でした」と言って、また次の人に視線を向ければいい。

「お疲れ様でした」

次の書類に手を伸ばして、自分の列を見た。
三人後にカカシ先生が並んでいるのが見えて鼓動が跳ねた。
俺のことを伺うみたいに横から顔を出していた。
急に目の前がぐるぐる周って、書類を持つ手が震えそうになる。
四散して行きそうな意識を集中させて一文字一文字追いかけた。

「……どこか間違えているのか?」
「あ、いえ!」

真剣に見すぎて処理が遅くなっていた。
ポンと判子を押すと完了を告げた。
次の書類を受け取る時、もう後を見なかった。
目が合いでもしたら困る。
まるで意識しているみたいに取られたら嫌だった。
一人去る毎にカカシ先生の順番が近づいて来る。
あともう一人でカカシ先生の番になった時、

「はたけ上忍、こちらへどうぞ」

隣にいたタツミが声を掛けた。
見ればタツミの列は誰も居なくなっていている。

(そんな……)

内心のショックを隠して判子を握り締めた。
さっきまでとは矛盾した気持ちが頭の中を駆け巡る。 会って約束を忘れられているのを確信するのは辛いけど、会えないのは嫌だった。
少しでいいから話がしたい。
心の奥底がふるふる揺れて、隠しきれない想いが溢れ出した。
本当は…、とても楽しみにしていた。
カカシ先生といっしょにご飯を食べるもんだと思って、ずっとカカシ先生が来るのを待っていた。
次の日も待っていたし、次の次の日も待った。
俺から連絡を取ろうにもカカシ先生がどこに居るか知らなかった。
前に一緒に行ったことのある定食屋や居酒屋を覗いたりもしたけど、カカシ先生はどこにもいない。
任務かな?と思ったけど、中忍の俺には確認の取りようが無かった。
最後は結局一人でご飯を食べて、――それは期待していた分、とても淋しかった。

「はたけ上忍、どうしました?」

タツミの不思議そうな声に顔を上げると、タツミの列は空いたままだった。

「あ、うん。待ってるからいーよ。アリガトね」

タツミの申し出をカカシ先生がそっと断る。
目が合うと、にこっと目を細めて俺を見た。
タツミの不思議そうな目がそのまま俺に向けられる。
かーっと体温が上昇して耳まで熱くなった。
期待にトクトクと鼓動が早くなって息が上がりそうになる。

カカシ先生と話せる。
カカシ先生が待っていてくれる。

「はい、大丈夫です。お疲れ様でした」

目の前の忍が去って、カカシ先生の番が来た。

「お、お疲れ様です」

幾分上ずった声に咳払いをした。
顔を見ようとしたけど、緊張で顔を上げれなかった。
ベストの辺に視線を彷徨わせながら手を伸ばして書類を受け取る。
最初に一番知りたかったところに目を通して――、

(あ、なんだ。任務に出てたんだ……)

ホッとして、ずっと待っていたことなんてどうでも良くなった。
それにあれから随分経ったから、カカシ先生が約束のことを忘れてしまっていても構わない。
約束を面倒がられて避けられてるのかと心配だったから、そうじゃないことが分かって安心した。
他の部分にも目を通すと、ぽんと判を突いてにっこり笑った。

「お疲れ様でした、カカシ先生」

無事役目を終えたことにホッとして、書類を規定の箱に入れる。
カカシ先生の後ろに人が並んでいるのが見えて、手を伸ばそうとして(あれ?)と思った。
カカシ先生が動かない。

「……イルカ先生、怒ってるんですか?」
「へ?」

思いがけないことを言われて首を傾げた。
俺がカカシ先生を怒らないといけないようなことなんて何もない。

「なにをですか?」
「ご飯一緒に食べる約束してたのに、いきなりすっぽかしたから……。急に任務が入って連絡が出来なかったんです。ゴメンなさい。オレのこと、怒ってますか…?」
「怒るなんてとんでもない!任務だったら仕方ないです。なんとも思ってません!」

平気だという事を伝えたいのに、見てるこっちが哀しくなるほどカカシ先生がしょげ返った。
俺はと言えば、約束を覚えていてくれたことが嬉しくて、――それだけで十分だった。

「……じゃあ、まだあの約束は有効ですか?それとももう他の誰かと約束しちゃった?」
「俺なんか誰も誘いませんよ。カカシ先生がよろしければ、またいつでも誘ってください」
「…いつでもじゃなくて、今日。今日誘っていいですか?」
「はい。でも、今日は七時までの勤務なので大分遅くなりますが…」
「ん、待ってます。時間になったら校門のところにいるから」
「はい、ではまた」
「うん」

柔らかい声で返事したカカシ先生が、ようやく笑顔を浮かべて受付所を後にした。
と思ったら戻ってきて、手に持っていた紙袋を机に置いた。

「お土産です。皆さんでどーぞ」
「ありがとうございます、カカシ先生」

隣からもお礼の声が掛かって、カカシ先生が照れながら去っていった。
ちょうど受付が途切れたこともあって、皆で集まって袋の中を覗き込むと、タツミが「うおっ」と声を上げた。
「松風庵の抹茶羊羹だ!」
「うまいのか?」
「ったりめぇじゃないか。一日限定二十本で並んでもすぐに売り切れて買えないんだぞ!」
「へぇー」

俺の気の無い返事に焦れたのか、タツミがそそくさと箱を開けた。
蓋を取ると、抹茶の羊羹の上にキラキラと金箔が揺れる。

「おぉー、すげぇ」
「イルカ、お茶」
「おう」

三人分のお茶を用意している間に羊羹が切り分けられ、お茶の時間が始まった。
金箔はともかく抹茶の羊羹はとてもおいしかった。
のほほーんとお茶を飲んでる間も忍が帰ってきて、羊羹は彼らにも振舞われた。

「カカシがお土産を買ってくるなんて珍しいな」

羊羹を口に運びながら上忍の一人が言った。

(……そうなんだ)

また改めて御礼を言っておこうと決めて最後の一欠けを口に入れる。
ずっと凹んでいた事なんて、いつの間にかすっかり忘れていた。


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