すこしだけ 49



 雪崩に飲み込まれたように胸が冷たく塞がっていく。カタカタと指先が震えだして、全身に広がった。
(カカシさんが婚約した…?)
 遅ればせながら、ようやく頭の中に到達した出来事に目の前が暗くなった。相手はミツバ先生だろうか?
(彼女しか有り得ない…)
「カ、カシさん――」
「イルカ先生、忙しいとこゴメンネ。待機所に行ったら噂になってたから。オレが婚約したって噂が流れてるの聞いた?」
 焦ったように問いかけるカカシさんに、こくんと顎を引いた。
「でも、そんなのウソだから」
「ウソ…?」
「そうだよ。イルカ先生がいるのに婚約なんてするワケ無いデショ。あんなのデタラメです」
「でも――」
「ネ、信じて。……ゴメン。ちゃんと話したいんだけど、今から任務に出なくちゃいけないんです。帰ったら説明するから、それまで誰の言うことも信じないで。ね、出来るデショウ?」
 俺に口を挟む暇を与えずカカシさんが言いきった。隠してるけど、苛立ちを感じてるのが透けて見える。
「イルカセンセ」
 返事を促すように、じっと瞳の奥を覗き込まれて頷いた。
「…信じます。カカシさんの言うことだけ聞きます」
「はぁ…、良かった。イルカ先生ならそう言ってくれると思った」
 ホッとした笑顔を浮かべると、カカシさんが俺の頬を撫でた。
「冷たくなってる…。ゴメンネ、心配したデショ。絶対に大丈夫だから。なにも心配しなくていいよ」
 カカシさんは温める様に俺の両頬を揉むと唇を親指で擦った。
「唇まで冷たくなってる…」
 哀しげに眉を寄せた顔が近づいて唇を吸った。
「イルカセンセ、オレのこと、信じてね。嫌いにならないでね」
 甘えた声でカカシさんが言う。
「大丈夫です。俺、カカシさんのこと信じてます。嫌いになったりしません」
「ウン…ウン。絶対だよ?」
 ぎゅっと俺のことを一際強く抱き締めると、カカシさんは体を離した。
「ネ、任務すぐに片付けてくるから、帰りは一緒に帰ろ?今日は受付の任務引き受けないで?早く帰ろ?ネ?」
 俺を一人にするのを恐れるようにカカシさんが強請った。
「わかりました。今日は残業しません。早く迎えに来て下さいね」
「ウン!…じゃあ、そろそろ行くね」
「はい、いってらっしゃい」
「いってきます!」
 しゅん、と煙も上げずにカカシさんが消えると、誰も居ない部屋に一人残された。校庭を駆ける子供達の声が教室の中に響く。左目からぽろっと涙が一粒零れて頬を濡らした。乾いた手の平でそれを拭うと、ズボンに擦りつけてから職員室に戻った。
 ドアを開けると、またしても一斉にみんながこっちを向いた。
「イルカ、はたけ上忍なんだって…?」
 気遣うように聞いてくれたのは、一番中の良い同僚だった。
「うん、デタラメだって」
「デタラメって…。でも、かなり確かなスジからの情報らしいぞ…?」
「でも噂だろ?カカシさんは違うって言ってたし、それに帰ったらちゃんと説明してくれるって言うから……」
 ……『説明』することがあると言うことは、カカシさんは今回の件を何か知っていたのだろうか?俺に隠してる、何か――…。
 はぁっと溜め息を吐いて、疑念も一緒に吐き出した。俺までカカシさんを疑おうとしていた。
ちゃんと話してくれると言ったんだ。だから俺は、カカシさんだけを信じていれば良い。
 同僚の言いかけた『確かなスジ』が気にならない訳じゃなかったが、耳に栓をして遮断した。

 周りの反応は様々だった。カカシさんが婚約したと言う噂は里中に広まっているらしく、会う人会う人が俺を興味深そうに見ていった。同情して声を掛けてくる人も居れば、嘲りを含んだ言葉を掛けてくる人もいた。特に女の人は辛辣だ。「いい気味」と聞こえよがしに言われて、じっと耐えた。
(カカシさんは違うって言ってた)
 呪文の様に何度も唱える。針の筵のような空気の中で、そのことだけが心の支えだったが、その支えはあまりに細くて折れてしまいそうだった。考えないようにしようと思っても考えてしまう。
 ――噂の出所はどこだったのか。
 昨日まで何事も無かったのに、急に里中に広まるなんて不自然だ。誰かが意図的に広めたのか。俺が居るのに婚約しないと言ったのはカカシさんの本心だろう。だが怖いのは、上からの命令だった時だ。カカシさんが上忍と言えども、上からの命令には逆らえない。
(カカシさん…っ!)
 流れ落ちる砂の音が聞こえるようだった。俺とカカシさんの時は満ちてしまって、後はもう落ちるだけなのかもしれない。さらさら、さらさら流れ落ちて、あとどのぐらいの時間が俺たちに残っているのだろう…?
(カカシさん…!カカシさん…!)
「イルカセンセ」
 不安に押し潰されそうになっていると、背中に腕が回った。
「遅くなってゴメン。任務終わったから一緒に帰ろ?」
 イスに座る俺の背中を抱いて、カカシさんが覗き込むようにして言った。
「カカシさん…」
「帰ろ」
 片目しか出していないカカシさんの額当てはホコリに塗れ、忍服も煤けていた。
 頷いて、机の下からカバンを出すと肩に引っかけた。カカシさんは遅くなったと言ったけど、まだ陽は高く、放課後になったばかりだった。先生方はまだたくさん残っていて、興味深そうに俺たちを見つめていた。カカシさんに背を支えられながら立ち上がるが、体が疲弊しきったように重い。
「はたけ上忍」
 凛とした声に振り返ると、一番仲の良い同僚がまっすぐカカシさんを見ていた。
「イルカのこと、よろしくお願いします」
「…言われるまでもなーいよ」
 いきなりそんなことを言い出した同僚に吃驚していると、にかっと笑った。
「お疲れ!また明日な!」
「お、おう…。お疲れ…!」
 心が軽くなって笑みを浮かべたら、ずっと笑って無かったように頬が強ばった。
(そっか、俺…笑ってなかったのか)
 そんなことにすら気付かなかった。もう一度笑顔を浮かべて、「またな」と手を振ると、カカシさんについていった。帰ったら、ちゃんと話さなくてはならない。

 カカシさんの話は驚くべきものだった。カカシさんの婚約話は、俺が知らないだけで以前から持ち上がっていたらしかった。
「でも、きっぱり断ったんです。オレはイルカ先生が好きだったしから、そんなつもりはないって」
「いつですか?いつそんな話があったんです?」
 呆然として問い返すと、カカシさんの歯切れが悪くなった。
「……春ごろ…」
「春?春って…俺たちまだ付き合ってませんよね?」
「…キスはしてました」
「…キスって…。それって俺たちがこうなる前ってことですか?後ですか?」
 体の関係を指して聞くと、カカシさんは居心地悪そうに視線を逸らした。
「カカシさん!」
「……警護の任務だって言われて火の国の大名屋敷に行ったら違ったんです。お見合いの席が用意されてて、それで騙されたと思って、断って帰って来たんです。そしたらイルカ先生家に居なくて…その……」
 朧気に思い出した。4日間の任務に出ると言ったカカシさんが予定より早く帰って来たことがあった。ハッテン場のバーにいたら、怖い顔したカカシさんに連れ戻されて…、
「……初めて、抱かれた…」
 呟いたら、カカシさんが正座した膝の上に置いた手をぎゅっと握った。
(ウソだろう…?)
 あの時なのか?
「……俺、嫌だって言いましたよね?したくないって…。それなのに、そんな話出てたのに、俺のこと抱いたんですか!?」
 確認する内に腹が立ち、いつの間にか立ち上がるとカカシさんを罵っていた。許せない。抱かれる前なら、こんな想いをしなくて済んだのに…!
 激昂して部屋を飛び出そうとすると、一歩も進まない内にカカシさんの腕の中に抱き竦められていた。
「は、離せ!」
「ちゃんと断ったんです!それでもう終わった話だって…。オレにはイルカ先生以外考えられないし、他の誰かと結婚なんて――」
「断ったって、任務だって言われてお見合いが用意されていたなら、上が知らない訳ないじゃないか!アンタも上忍なら分かるだろう…!!上が決めたお見合いを断れるワケ無い…!」
「イルカ先生!信じて!!絶対断るから!何とかするから…!」
「断れ無い…!断れるワケ無いじゃないか…」
「断ります!イルカ先生…、オレはイルカ先生じゃないとダメなんです。ちゃんと断るから、オレのこと信じて…?お願い…」
 お願い、お願いと繰り返すカカシさんの弱々しい声と強い腕が俺の激情を飲み込んでいく。
「イルカ先生、約束します。ちゃんと一緒にいれるようにするから」
 骨の軋む腕の中で、俺は微かな希望を感じてその言葉に縋った。
「……本当ですか…?」
「本当です!オレがイルカ先生以外の人と結婚するなんて出来るはずないじゃないですか。明日、火影様の所に行って正式に断ってきます。……もっと早くそうすれば良かった。ゴメンネ、心配掛けて」
「…絶対ですよ」
「ウン!」
 俺が納得したと思ったのか、カカシさんの腕が緩んだ。


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