すこしだけ 43
シャッとカーテンの開く音がして、光が目蓋を射した。
「イルカセンセ、朝だーよ」
のしっとベッドが沈み、頭に触れた唇がちゅっと音を立てた。
「起きて」
冷たい指先が乱れた髪を撫で回して、俺を起こそうとする。明け方になってようやく眠った頭はまだ眠りを欲していて、布団の中に深く潜り込んだ。
「あと5分だけだよ」
明るい声に感情が起こされ、じわっと揺らぐ。どうしてあんなに元気でいられるのか。何も知らないカカシ先生に恨めしい気持ちが溢れて、唇を噛み締めた。
何も答えずにいると、ぽんぽんと背中を叩いてベッドが浮き上がり、台所を使う音が聞こえてきた。卵焼きの甘く香ばしい香りが届き、食器の音が聞こえる。
いつから起きていたのだろう?
隣を探ると布団は冷たい。夜が白むまでは確かに一緒に寝ていたと言うのに…。
眠れなかった。これからのことを思うと、気分が重く沈んで考えずにはいられなかった。火影室で会った女の人のこと、カカシさんのこと、自分のこと。幾ら考えても答えなんか出るはず無いのに…、答えはもう決まっているのに考えることを止められなかった。
(あの人は誰だったんだろう…?)
見たことない人だった。里の人間ではない。カカシさんといつ知り合ったのか。里外任務の多いカカシさんに、俺の知らない人がいても不思議じゃないのに、いつまでもそんなことを考えた。
あの人のことをどう思っているのか聞きたい。あの人を見て、どう感じたのか。少しぐらい良いなと思ってるんじゃないだろうか?いや、あっちの方が運命の相手なんだから、俺よりずっと気になってる筈だ。
でも、昨日抱いてくれたから、まだ俺のことの方が好きだ。
じくじくと胸の奥が痛くなる。距離を置こうと決めたのに、一晩経つとショックが薄れて欲が出た。
(嫌だ、カカシさんと別れたくない。)
「イルカセンセ?朝ご飯出来たーよ。…もしかして、具合悪いのー?」
布団の中でぐずぐずしていると、声が届いた。
「…………起きます」
「ん。ご飯注いでるねー」
むくりと体を起こして畳に足を着けたが、腰に根が生えたように立ち上がることが出来なかった。胸に渦巻く重苦しさに両手で顔を覆う。
起きたくなかった。起きて、時間が進むのが嫌だ。時間が進めば、いつかカカシさんはあの人に惹かれてしまう。今ならカカシさんは俺を好きなままだ。時間が止まればいいのに。カカシさんをこの部屋から出したくない…。誰にも見せずに、俺だけのものに出来たらいいのに――。
「大丈夫だよ」
突然聞こえた声にびくっと顔を上げれば、カカシさんが俺を見下ろしていた。
「え…?」
何が大丈夫だと言うのだろう?俺の悩みをカカシさんが知ってる筈ないのに。……それとも、カカシさんは何か知っているのか?
優しい顔で俺の足下に跪くと、手を上げて頬に触れる。
「カカシ――」
「―――ちゃんとアカデミーには連絡してあげます。だからゆっくり休んで」
にっこり笑ったカカシさんに首を横に振った。俺の思い違いだ。カカシさんが何か知ってる筈無い。一瞬俺の秘密を知っているのかと思って、どきりとしてしまった。その上で、『大丈夫』と聞かせてくれたら、――どれほど心強かっただろう。例え、それが一時のものでも……。
「なに言ってんですか。眠たいだけです。行きます。行きますよ」
「え〜、そうなの?またヤリ過ぎちゃったのかと思った。イルカ先生のココ、痛いのかなーって」
楽しそうに笑うカカシさんに、さわさわと尻を撫でられて飛び上がった。拳を挙げて怒ってみせると、ひょいっと笑いながら避けたカカシさんが俺の手を引いた。
「ご飯にしよ。早く食べないとご飯が硬くなっちゃーうよ」
先導するカカシさんの手が俺の手を強く握る。
「カカシさ……」
いつもと同じ朝の始まりに思えたが、その手から伸びる赤い糸が普段と違う方向を向いていた。今まではカカシさんの歩く後を付いてきてたのに、今日は窓の外へと向かっていた。
(……あっちに彼女が居るんだ)
律儀に教えてくる糸に、そっと目蓋を伏せて目線を逸らした。
バイバイと手を振るカカシさんに見送られて校門を潜った。校庭で振り返ると、まだカカシさんが手を振っている。
「さっさと行ってください!」
(行かないで)
思ったことと反対のことを言うのは、俺の得意分野だった。振り返ってカカシさんが居なかったらと思うと凄く寂しい。今日は特にだ。
歩調を早めて足早に校舎に入ると、後は振り返らずに職員室に向かった。
「おはよう」
カバンを置いて席に着くと一限目の準備を始めた。不安はあったが気持ちを切り替え、子供達のことを考える。
昼食の時、それとなく火影室にいた女の人のことを周囲に聞いたが、誰も知ってる人はいなかった。
(もしかしたら、もう帰ったかも……)
何かの用事で火影様に会いに来ただけかもしれない。だとしたら、今はそれほど心配しなくてもいいかもしれない。カカシさんがあの人を知っていたのは前からの様だし、会わなければ、きっと変わらない毎日が続く。
そう思うと、心が少し軽くなった。
(でも糸が……)
朝、二人の糸は引き合っていた。それは彼女がまだ里にいる証拠だろうか?それとも遠離ってる間も、しばらくの間は引き合うのだろうか?
分からない。
次第にイライラして丼を掻き回した。あの人がどこに居るのか知りたい。
(カカシさんが、二度とあの人に会わなければいい…)
ふと閃いて箸が止まった。俺が会わないで、と言ったらどうなるのだろう?カカシさんに頼み込んで、あの人に会わないようにして貰えば好きになることは無いんじゃないだろうか?いつも一緒に居たユリとクヌギの時とは違う。
それにカカシさんと居れば、あの人の場所は糸が教えてくれる。糸が伸びる方に進まなければいい。
(でも、一緒に居ない時は……?)
今、この瞬間、カカシさんがあの人に会ってないと言えるだろうか?
刹那、かあっと腹の底から沸き上がってきた怒りに吃驚した。こんな感情知らない。
(なんで腹が立つんだ?)
戸惑いに箸を置くと席を立った。
「お、俺、午後の授業の準備したいから、先行くな」
「あぁ」
急に立ち上がった俺を同僚達が不思議そうな目で見ていた。説明の付かない感情に、俺は逃げるように食堂を後にした。
午後の授業は野外だった。子供達と一緒に走って汗を流すと、苛立ちは薄れて不思議になった。
(なんだったんだ……?)
あの時の気持ちを整理すると、もの凄くカカシさんに腹が立って、あの女の人が邪魔に思えてならなかった。あの人のことを嫌いだと思った。昨日ちらっと見かけただけで、どんな人か全く知らないのに。
(でも嫌いだ…!)
強い感情がわき上がる。俺には珍しいことだった。初対面で人を嫌うことなんて無かった。だけど、それが何故か考えるとまたイライラしてくるが、
(……そもそも俺に、二人の仲をどうこう言う権利ないのに)
熱い鉄を水に浸けたように頭が冷えた。カカシさんとあの人と俺では、俺こそが部外者だ。
それなのに卑しいことを考えた。
(カカシさんをあの人から遠ざけるなんて、そんなの意味ない……)
再び心にのし掛かってきた重苦しさに息を吐いた。
滞りなく一日が過ぎていったが、放課後、泣いている子を連れて子供達が入って来た。
「おい、どうしたんだ?」
「せんせい、ヨロイの鼻血が止まらなくて…」
聞けば、遊んでいた時に肘が当たったらしい。鼻血が出て、良くあることだと様子を見ていたが、いつまで経っても鼻血が止まらず、怖くなって職員室に来たらしい。
「せんせぇ〜…」
「大丈夫だよ。よし!病院へ行くか」
赤く染まったティッシュを換えてヨロイを抱き上げると、連れてきた子の一人がベストの裾を引いた。
「先生…」
「任せとけって。もう遅いから、先に家に帰っていーぞ」
空いた手で頭を撫でてやるが、俯いて動こうとしなかった。恐らくこの子の肘が当たったのだろう。
「大丈夫だよ」
ぽんぽんと頭を撫ぜて背中を押すと子供達と一緒に職員室を出た。
病院に着くと混み合っていたが、事情を話すとすぐに診察室に通してくれると言う。
「良かったな」
「う…うん…、ひ、ひっく…」
ぽろぽろと涙を零しながら、ぎゅっと目蓋を閉じて泣くのを堪えようとする様子に愛しさが込み上げる。
名前を呼ばれて診察室のドアを開けると子供を下ろした。イスに座らせ、忙しなく書き物をしていた医者の背中に声を掛けた。
「先生、子供の鼻血が止まらないんです。診てやってください」
「はい。あら…?」
「あ!」
振り返ったその姿を見て、心臓が止まりそうになった。そこに居たのはカカシさんの運命の人だった。
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