すこしだけ 42



(…ついに、この日が来た。ついに……)
 何度も思い返していた。カカシさんが部屋に入って来た時のことを。部屋に入って俺を見て、嬉しいって目を細めて、彼女を見た。カカシ先生の糸が持ち上がり、あの人のと繋がっていた。
 気持ちは否定したいのに、何度思い返しても記憶は俺を裏切った。
 分かっていた。いつかこの日が来るのを知っていた。知っていたから、いつも心の準備をしていた。いつ、今日の日を迎えてもいいように。その日が来てもショックを受けないように。
 だけど俺はショックを受けて、何度も思い返していた。間違いであって欲しいと、何度も記憶を確かめた。だけど何回思い出しても記憶は一緒で、カカシさんの糸はあの人と繋がっていた。
(……振られる)
 それは漠然とした予感じゃなく、確信として心に刻み込まれた。
 俺はカカシさんに振られる。糸の繋がった相手と出会ったから、俺はもう用済みだ。カカシさんはあの人に惹かれて、俺が邪魔になって、「別れてくれ」って言われるんだ。
(……どうしよう、……どうしよう……)
 不安ばかりが胸に膨らみ、どうする手立ても思いつかなかった。だって考えたって無駄だ。俺は必ず振られるんだから。どう足掻いたって、カカシさんに捨てられる。
(俺なんかいらないって、いらないって――。)
 ガタンと玄関が音を立てて飛び上がった。視線を向けたら、カカシさんが怖い形相で部屋に入ってきた。
(捨てられる、捨てられる…!)
「イルカ先生!」
「ヒッ!」
 カカシ先生の手が伸びて、首を竦めた。
「どうしたの?何かあった?どこにも居ないから心配したよ。何があったの?」
 抱き締められて呆然とした。
(……そうか。いきなり振られるんじゃないんだ……)
 カカシさんはあの人を、徐々に好きになっていくのだろうか?一目惚れは感じなかったのだろうか?
(違う…。カカシさんは、あの人を知ってた…)
 あの時カカシさんは、『あ』と言った。
 二人はいつ出会ったのだろう?初めて会った時、何も感じなかったのだろうか?二人はどういう関係なのだろう?
「イルカセンセ!」
 揺さぶられて焦点をカカシさんに合わせれば、カカシさんは心配そうに俺を覗き込んでいた。乾いた手が何度も頬を撫ぜる。
「カカシ、センセ…?」
 カカシ『さん』と呼べなかった。そう呼ぶことを心が拒否する。ずっとそう呼ぶことは出来ないから、…辛いから、『先生』と呼んだ。
 準備を始めていた。カカシさんと距離を置く準備を。
 その上で、俺は知らん顔することにした。カカシさんがまだ彼女に惹かれてないなら、俺は赤い糸に目を瞑る。見えなかったことにする。
 胸の中に嵐が吹き荒れていた。
「…どうしたんですか?怖い顔して…。何にも無いですよ?なんにも…」
「ホントに?」
 俺の目を覗き込むカカシさんは、嘘を探してるようだった。
(自分が嘘付いてるから、そう思うんじゃないか?)
 カカシさんとあの人の間に何かあるんじゃないか?それは恋の始まりじゃなくても、予感みたいなものを。
 俺の中に猜疑心が芽吹く。だけどカカシさんが疑っていたのは、そんなことじゃなかった。
「一緒に帰ると思ったのに…。イルカ先生が部屋を出る時に、オレが『一緒に帰ろう」って唇動かしたら、『うん』って…」
(…そんなことしたのか)
 全然覚えてなかった。どうやって家に帰ってきたのかも思い出せない。ちゃんと火影室から退室出来たのだろうか?
「…ご、めんなさい。俺、てっきり帰るように言われたのかと思って…。任務なのかな…って…」
(…一緒に帰ろうと思ってくれたのか。彼女がいたのに、俺のこと想ってくれたんだ…)
 じわじわと胸の中に哀しみが広がった。喪失を予感して、ぽっかりと胸に穴が開いていく。
「…そうだったんだ。オレ、てっきり一緒に帰るものと思ってたから、イルカ先生が居なくて慌てちゃった。一度家の傍まで帰って来たんだけど、明かりが点いてないからまだ帰ってないと思って…。イルカセンセ、具合悪いの?」
 カカシ先生の話を聞きながら、(あ、そっか)と思った。カカシ先生は俺が連れ去られたと思ったんだ。前に絡まれたから、それで心配して探してくれた。窓の外はいつの間にか真っ暗だった。部屋の中も暗くなっている。
(だからあんなに怖い顔で入って来たんだ…)
 まだ心配してくれるのが嬉しかった。いずれ心配もされなくなるから。
「イルカセンセ…。疲れてるのかな?ちょっと横になろう?」
 カカシ先生の手が俺を立たせようと体に回った。強く抱き締められる形になって、思わずカカシ先生にしがみついた。
「イルカセンセ?」
「カカシさん…、抱いてください。抱いて欲しい…」
 胸に顔を埋めて言うと、一瞬動きを止めたカカシ先生が俺を抱き上げた。荒々しくベッドに運ばれ、布団に背を付ける。
「どうしたの?イルカセンセ…」
 俺を見つめる瞳に戸惑いと荒々しさが入り交じっていた。それでも優しく額の髪を掻き上げられて、カカシ先生の首に手を回すと引き寄せた。何も考えたくない。忘れさせて欲しい。
「…酷くしてください。痕が付いてもいいから…、強く、抱き締めてください」
「…イルカセンセ!」
 願いはすぐに聞き入れられ、慌ただしく服を脱がされると性急に繋がった。激しく突き上げられて嬌声を上げるが、――心の奥は乾いていた。
 繋がれば、あんなに一つになれると感じていたのに、もうその感覚はどこにも残ってなかった。



「イルカセンセ…」
 事後、カカシ先生が俺の髪を撫でていた。俺は目を閉じて眠ったフリをした。カカシ先生の指先が何度も何度も髪を梳いて、時折、愛しげに指は耳の縁を撫でた。
 そして離れた指先が俺の腕に触れた。そこには俺が強請って付けて貰った痕が残っていた。抱かれるだけじゃ足りなくて、腕を強く掴んで貰った。痛みと共に指の痕がくっきり残っている。
「イルカ」
 カカシ先生が俺を引き寄せた。眠ったフリで擦り寄りながら、胸に顔を埋める。
 昔のことを思い出していた。
 ユリとクヌギが結婚する三月前のことを。
 夜、ユリが突然俺の家へ訪ねてきた。暗い表情で、俯いたまま。そして、クヌギが長期の里外任務に就くことになったと告げた。驚く俺に、ユリは言った。
『私、ついて行こうと思うの』
 プロポーズされたのだと、涙を零した。
『ゴメンね、イルカ。でも待ってても、ダメなのでしょう?どんなに好きでいても、イルカは応えてくれないのでしょう?』
 『うん』と言う以外、なんと言えば良かったのだろう?子供の頃、初めて俺を好きだと言ったあの日から、ユリが言い続けてきてくれた言葉は嘘になったのに。

『ねぇ、イルカ。好きだよ。イルカが私のこと好きじゃなくても、ずっと好きでいる。ずっと、傍にいるよ』



「イルカ先生、スキ」

 その言葉が、嘘に変わると俺は知っている。


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