すこしだけ 40



 カカシさんが俺の手を引いて歩いた。毎朝するみたいに、指を絡めて手を引く。今日は機嫌がいいみたいだ。小さく鼻歌が聞こえてくる。
「イルカセンセ、良いお天気だーよ」
 カカシさんが繋いだ手を、ポンポンと自分の足に当てて教えてくれる。そんなことは明るい地面を見ていても分かったが、お日様が恥ずかしくて顔が上げられなかった。
 セックスって不思議だ。すべてを飲み込んでしまう。昨日の傷付いた気持ちも、不安な気持ちも、カカシさんとのセックスで飲み込まれてしまった。それだけじゃなく羞恥心まで…。
 昨夜したあーんな事やこーんな事が蘇って頬を熱くした。
(なにもあんな格好でしなくたって…!)
 カカシさんに言われるまま手足を動かしていたら、とても破廉恥なことになってしまった。だけど、そのどれもが気持ち良かったから夢中になった。そうやって望まれることで、…そうすることでカカシさんがすごく嬉しそうな顔をするから、次第に胸の痛みは消えていった。カカシさんと繋がって気持ち良くなったことで、他の事なんて、どうでもよくなってしまったのだ。後に残ったのは体をさらけ出した事と、「もっとシて」と自分から強請ってしまった事への気恥ずかしさだけだ。
 カカシさんがきゅっと指を握った。
「イルカセンセ」
 名前を呼ばれても俯いていたら、カカシさんが言った。
「イルカ先生は立派な先生です。全然ダメなことないし、受付の仕事だってちゃんとこなしてること、オレは知ってるよ。内勤だからって恥じること無いんです。オレは――」
「わーっ!もういいです!」
 カカシさんが勘違いしている。穴があったら入りたくなった。昨日の醜態を思い出して赤面する。
「イルカセンセ?」
「違うんです!昨日のは…、その、八つ当たりしただけで…。俺は自分の仕事に誇りを持ってます。だから大丈夫です。……ごめんなさい」
 呆れてるかと思って顔を上げてカカシさんを見ると、嬉しそうに笑っていた。
「カカシさん?怒ってないんですか…?」
「ん、どうして?オレは嬉しいんです。八つ当たりするってことは、それだけオレに気を許してるってことデショ?」
 どこまでも前向きなカカシさんの意見にカーッと頬が熱くなる。
「そ、そうかもしれませんね」
 俯いて赤くなっているだろう頬を隠したら、カカシさんの手が触れた。
「心配だな…。今日のイルカ先生、色っぽいんだもん。他のヤツがヘンな気起こしたらどうしよう…」
「何言ってんですか。そんなことあるワケないでしょう」
 昨日だって散々言われたばかりじゃないか。頬を撫でていた皮の手甲を押し退けると、カカシさんが唇を尖らせた。
「イルカ先生は分かってないんだから」
「分かってないのはカカシさんです」
 もう行くと繋いでいた手を離すとカカシさんが微笑んだ。
「いってらっしゃい」
「行ってきます」
 こんなやりとりをしても、もう胸は痛まなかった。



 カカシさんと別れたりしなかったから、彼女達が何か言ってくるかと思ったが、何事も無く日々は過ぎていった。
 それどころか、姿さえ見ない。
 帰る度に姿を見せていた彼女たちを見なくなったのは、待ち合わせ場所が変わったせいかもしれないが、受付所付近ですら見なくなったのは、カカシさんが何かしたのかもしれなかった。例えそうだとしても、俺は彼女たちに同情しない。
 今回の件で俺は強かになった。
 俺はカカシさんに好かれていたい。いつかカカシさんに運命の人が現れるとしても、今カカシさんが好きなのは俺なんだから、好かれていても良いはずだと開き直った。誰にもこの場所を譲りたくない。

「イルカ、はたけ上忍待ってるぞ」
「ありがと」
 職員室でコツコツと小さく机を叩いて教えてくれた同僚に礼を言って、書類を片付けた。
 カバンを提げて職員室を出ると、廊下の端に備え付けられたベンチにカカシさんが座っていた。
「カカシさん」
 声を掛けるとカカシさんは読んでいた本をパタンと閉じて俺を見た。その目が柔らかな弧を描く。
「お疲れさま。もう帰れるの?」
「はい」
 どんなに早く終わっても、カカシさんは俺を置いて帰ったりしなかった。きっと俺が同じ目に遭うのを心配してるから。俺はそんなカカシさんの優しい気持ちを利用して、迎えに来てくれるのを断ったりしなかった。疲れて、ゆっくりしたい日だってあるだろうに。
 そのくせ俺はカカシさんが遅くなると分かってる時は待ったりしなかった。先に帰って風呂を沸かして、ご飯を作る。俺に出来ることはそんなことしか無かったから、疲れて帰ってくるカカシさんを温かく迎えたかった。
 それでもカカシさんは俺に文句を言わないし、俺が居ないと分かっている日でも、念のためと職員室を覗いてから帰るから、そのうちカカシさんの方が俺に惚れていると噂が立った。そんなこと全然ないんだが、その方が都合いいから黙っておいた。


「ね、イルカセンセ。今日は久しぶりに外で食べませんか?」
 残業で遅くなった夜、カカシさんが俺を誘った。きっと今からご飯を作るのは大変だからと気遣ってくれたに違いない。
 向かった先は鉄板焼き屋さんだった。のれんを潜ると「いらっしゃいませ!」と、女の子の明るい声が掛かる。「あ」と声を上げたのはカカシさんだった。
「忘れてた。女の子が入ったんだった」
「…どうしたんですか?早く入ってください」
 入り口で踏鞴を踏むカカシさんの背中を押した。席に案内されて腰を下ろすと、すぐにおしぼりを渡された。前に来た時は入ったばっかりだった女の子は、店に慣れたのか緊張した面持ちは無く、ニコニコして注文を待っている。
「何になさいますか?」
「はい、えっと…」
「イルカ先生、お肉食べるデショ?」
 壁に貼られたメニューを見ていると、カカシさんが袖を引いた。紙のメニューに書かれたステーキの項目をコレと指差されて大きく頷く。
「あとお魚も食べよ?お刺身にする?野菜は…?」
 どれがいい?と聞かれて額を付き合わせる。これこれと指を指すとカカシさんが注文した。その後の注文もすべてカカシさんがした。
 面倒を掛けてるなと思っていたら、店のお客さんと店主の間でカカシさんはヤキモチ焼きだと言う話が持ち上がり、それでようやく思い違いに気付いた俺は、それがどうしたと胸を張るカカシさんの隣で顔を赤くした。
「美味しかったね」
「…はい」
 夜の風が酒に火照った頬を優しく撫ぜた。いささか酒を過ごしすぎて、ふわふわ歩く俺の手をカカシさんが引いた。
「遠回りだけど、川沿いを歩いて帰ろ?」
 冷たい風と清涼な流れを思い浮かべて、こくんと頷いた。雲のない空は星が瞬き、月が夜道を照らす。川の流れる音が聞こえてくると、カカシさんが俺の手を引いたまま土手を下りた。膝まで伸びた草を掻き分け流れに近づくと、水面が月の明かりを跳ね返していた。キラキラした流れに目を向けていると、カカシさんが「あのね」と言った。
「あの…、あのね、イルカ先生…」
 後の続かないカカシさんの顔を覗き込む。余程話しにくい事となのか、カカシさんが言い淀むなんて珍しいことだった。
「どうしたんですか?」
 繋いだ手をぎゅっと握って先を促した。早く言えと手を揺すると、意を決したようにカカシさんがこっちを向いた。
「あ、あのね、イルカ先生。来月、オレの誕生日なんです」
 なぁんだと笑みが零れる。きっと大人だから言うのが恥ずかしかったのだろう。
「じゃあ、誕生日しましょうね」
「う、うん…、アリガト。それでね…」
 まだあるのかと首を傾げた。どうやらこっちの方が本題らしい。カカシさんの喉がごくりと大きく鳴った。
「それでねイルカ先生、オレ欲しいものがあるんです。どうしても欲しいもの…」
「プレゼントですか?いいですよ。何でも言ってください。…俺に買える物だったらいいんですけど…」
 俺に言わなくても、カカシさんなら何でも買えるだろうにと頭を過ぎる。
「ち、違うんです!物とかそんなんじゃなくて!……あの、「うん」って言って欲しいんです。誕生日になったら、イルカ先生にお願い事するから、「うん」って…」
「…?そんなことでいいんですか?いいですよ」
(なんだろ…?プレイとかかな…?)
 あんまり変な事だと困るなぁと思いながらも快諾すると、カカシさんがホッと息を吐いた。
「…イルカセンセ」
 口布を下ろしたカカシさんが、顔を近づけたから目を閉じた。ちゅっと河原に濡れた音が弾けたけど、川の流れと草の音が隠してしまった。カカシさんの手が両頬を挟んで頭を固定する。柔らかく唇を食まれて、ぽぅっとしているとカカシさんが聞いた。
「…イルカ先生の誕生日はいつ?」
「え?俺ですか、俺は5月の26日です」
「え?」


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