すこしだけ 32



 花火大会の日が近づいてくると、カカシさんがそわそわと落ち着かなくなった。顔を合わせる度に残業を入れたらダメだと念を押してくるし、待ち合わせの時間を確認してくる。
 同僚に同じことをされたら煩く感じたかも知れない。だけどカカシさんに言われるのは嬉しかった。
 俺は今まで誕生日とかクリスマスとかを恋人と過ごしたことがない。花火大会は言わば、初めてのイベントデートだったので、俺は内心、カカシさんに負けず劣らず楽しみにしていた。
 当日、アカデミーの前で別れる時、カカシさんがまた確認してきた。
「イルカ先生、4時半にここで待ち合わせですよ。迎えに来るから一緒に帰って、それから浴衣に着替えて花火大会に行きましょうね」
「そんなに何度も言わなくても分かってます!」
「ウン。それじゃあ行ってくるから、また後でね」
 軽く手を振るとカカシさんは瞬身で消えた。気配はもう無い。くるりと回れ右すると校舎に向かった。
 職員室へ向かいながら、壁に掛けてきた二着の浴衣を思い出す。浴衣は、カカシさんが買ってくれた。
 夕飯の買い物をしてる時見つけて買ってくれた。別にいらないと言ったけど、カカシさんが着たいからと俺のも買った。自分がと言いながら、カカシさんは自分のより俺の生地を一生懸命選んでくれた。
 凄く嬉しかった。
 足取り軽く職員室へ向かうと授業の準備をした。今日は絶対早く終わらせる。頼まれそうになった残業はすべて断ったから、何事も無ければ待ち合わせに遅れることはない。
 誰も彼もがこの日を楽しみにしていたので、特に問題も起こることなくスムーズに授業は進んだ。最後の時間になると、花火大会が待ちきれない子供達に急かされて、「今日だけだぞ」と授業を早く切り上げた。
 戸締まりをしていると、校庭を走って過ぎっていく子供達が見えた。笑いながら帰って行く姿に、昔の自分の姿が重なる。
(祭りが楽しみだなんて、いつぶりだろう?)
 子供と同じように浮かれている自分に苦笑しつつも、カカシさんに会える時が待ち遠しかった。
 まだ早いのは分かっていたけど、職員室を出ると門へ向かった。もしかしたら、カカシさんがもう来ているかもしれないと思ったけど、そんなことは無かった。
 校門で待っていると、同僚達が「お先に」と帰って行く。後ろ姿を見送って、カカシさんを待った。時々もうすぐ見えるんじゃないかと、通りの向こうに目を懲らした。
 浴衣に着替えた子供達が手を振って、出店のある神社へと向かっていく。子供の手を引いた親子連れが楽しげに通り過ぎていった。
(…まだ時間じゃないもんな)
 表側に立っていると目立つから、裏側に回った。出店では何を食べようかと想像を巡らせてるうちに、時間が過ぎて日が傾いた。
(…どうしたんだろう?)
 何かあったんじゃないかと不安になってくる。ちらちらと顔を覗かせて通りを見るが、カカシさんの姿はどこにもなかった。しゃがんで膝を抱えた。
 きっと任務が長引いてるだけだと、何度も言い聞かせる。カカシさんは今日を楽しみにしていた。だから絶対来る。
「あら、アナタ……」
 女の人の声が聞こえて、はっと顔を上げた。見たことがある。前にカカシさんと話していた女の人だった。
「……お、お疲れ様です」
 さっと立ち上がって挨拶すると、真っ赤な口紅が笑みの形を取った。
「もしかして、カカシを待ってるのかしら。聞いてない?今日はカカシ、里外任務に出てるから帰って来ないわよ」
「え…?」
 吃驚してぽかんとすると、女の人は意地悪く笑った。
「そうよね、アナタに言う必要ないものね」
 トゲのある言葉に、むっとすると同時にそんなこと無いと思った。カカシさんは俺にそんなこと言ってなかった。ここで待ってろと言った。
 だけど女の人の言葉に動揺して、頭の中が混乱した。
(急な任務が入った?なら忍犬が知らせに来てくれる。どうしてこの人は知ってる?任務は前から決まってた…?もう花火大会に行けない…)
 怒濤のように押し寄せてきた思考に、不意に泣きそうになるのをぐっと堪えた。
「アナタ…、カカシと付き合ってるのかしら…?」
 動揺に追い打ちを掛けるように女の人が問い詰めた。
「そ、そんなんじゃ…」
「そうよね。カカシがアナタみたいなの相手にする訳ないものね。なら、もう少し距離を置いて貰えないかしら。カカシは優しいからアナタみたいなのが付き纏っても相手してくれるでしょうが、はっきりいって不釣り合いなのよ。少しは自分の身分を弁えたら?アナタ、カカシに似合わないわよ」
「……!…だから、違うって言ってるじゃないですか!…失礼します!」
 カッとなって踵を返すと、相手を見ずに走り去った。
(ちくしょう!ちくしょう!ちくしょう!)
 どうして俺があんなこと、言われなきゃあいけないんだ。俺を好きだと言ったのも、付き合うって決めたのもカカシさんじゃないか。
 女の人の酷い言葉に悔しさが込み上げる。
(もうカカシさんとは付き合わない…!)
 花火大会なんて行くもんか。帰って来たら別れるって言ってやる。


 真っ暗な部屋で、じっと膝に手を置いてカカシさんの帰りを待った。胸の中がズキズキ疼く。こんな気持ちになるぐらいなら、カカシさんとなんて付き合わなければ良かった。
 しばらくすると慌ただしく階段を駆け上る音が響いて、バンッと扉が開いた。
「イルカセンセ!」
 どたどたと駆け込んできたカカシさんにビクッと背中が震えた。
(別れるって、言ってやる……)
「良かった…。先に帰ってたんだね。ゴメンね、遅くなって。さあ行きましょう。まだ間に合いますよ」
 その言葉に、凝り固まっていた心がふわっと解けた。悔しさが無くなると、心の底に隠しておきたかったものが顔を覗かせる。安心した声とともに肩に置かれた手を、さっと弾いた。
「イルカセンセ…?」
「……行きません」
「怒ってるの?ゴメンね、いっぱい待たせて。機嫌直して…?お願い、イルカ先生…」
 カカシさんの声に膝に置いた拳がぶるぶる震えた。堪えようとしても涙が溢れて来る。
「ふ…、ふぇ…っ、い、行かないって、言ってるじゃないですか…っ、行きませんっ!」
「えっ!イルカ先生、泣いてるの?」
 前に回り込んだカカシさんが不安そうに俺の顔を覗いた。
「もしかして、具合悪い……?」
 額当てを外すと手を当てる。ひやりと冷たい手に、涙がいっそう零れた。おろおろとカカシさんが頬を拭う。
「どうしたの?イルカ先生……」
 心配そうなカカシさんの様子に、知られたくなかったことが口から零れた。
「…………って言われました」
「え?」
「似合わないって……。カカシさんと居るには、俺は不釣り合いだって……、だから行きませんっ、…えっ、ひっ…」
 何よりも俺を傷つけたのは、その言葉だった。そんなことは言われなくても分かっている。だって俺はカカシさんの運命の相手じゃない。似合う訳がなかった。だけど他人から言われると、いっそう違うと言われているようで、深く胸を突いた。
「…誰がそんなこと言ったの?」
 ひくっとしゃくり上げた胸が詰まるほど、冷たい声でカカシさんが言った。
 顔を上げたら、心配そうに俺を見る表情は弱り切っているのに、目は鋭く強い決意に満ちていた。
「…知らない、人です……ひっく…」
 なんとなく、言ってはいけない気がして嘘を吐いた。
「…もう平気です。泣いてごめんなさい」
 ごしごし顔を拭くと、カカシさんの腕が頭を包み込んだ。
「ゴメンね、イルカ先生。オレのせいで嫌な思いさせて」
「えっ!?カカシさんのせいじゃないです…!」
「…ウン、ゴメンね」
 これではどちらが泣いているのか分からなくなるほどカカシさんが悄気た。とんとんと背中をさすって宥める。
「…今日は、家でゆっくりしてようね」
 きっと俺のことを思って、カカシさんは言ったのだろう。だけど俺はカカシさんがどれほどこの日を楽しみにしていたか知っている。
「嫌ですよ。俺、花火見るの楽しみにしてたんですから。カカシさんが行かないなら、一人で行きます」
「えっ!?イヤですよ!イルカ先生が行くならオレも行きます!」
 慌てるカカシさんにニシシと笑うと、涙の乾き始めた頬が引き攣った。


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