すこしだけ 31
目を開けたら白い腕が頭の下から伸びていて、カカシさんに腕枕されていた。もう片方の手は体に巻き付いて、背中からカカシさんの体温が伝わってくる。
朝の白い光の中、ぼんやり昨夜のことを思い出して、自然と頬が熱くなった。
昨日、俺は後ろでイった。
カカシさんにどんどん体を作り替えられている。誰とも経験の無かった俺の体は、カカシさんを知って花開いた。思い出すとジンと体の奥が疼く。腹にたっぷりと蜜を吸い上げた蝶のように幸せだった。
カカシさんだって、きっと同じ気持ちだと思う。俺を撫でる指はいつまでも離れていかなかったし、眠りに就くまで、ずっと抱いててくれた。今だってそうだ。なのに…。
眠っているカカシさんの右手首に触れた。そこから伸びる赤い糸に触れてみるが、実際には触れない。手首を掴んで隠しても赤い糸はどこかへと続いている。絡んだ様に見えないかと、カカシさんの手に手を重ねてみても、糸は俺の手を素通りした。
(…大切にされてるのに……)
「なにしてるの?」
ぎゅっと重ねた手を握って、カカシさんが小さく笑った。
「お、起きてたんですか?」
「イルカ先生がいたずらするから目が覚めちゃった」
「いたずらなんかしてません…!」
「んー」
くすくす笑いながら動き出したカカシさんが俺に抱きついた。首筋に熱い息が吹き掛かって、落ち着かなくなる。手は裸のままの胸を這い、密着した体に頬が火照った。体を起こしたカカシさんがこめかみに口吻ける。もしかしたらこのまま始めるんじゃないかと思ったが、カカシさんはそんなことしたりしなかった。
「目が覚めたらイルカ先生がいるなんて幸せ」
「な、なに言ってんですか……!」
臆面のないカカシさんの言葉が照れくさくて、ふいっと顔を背けた。でも駄目だ。顔だけじゃなく体まで熱くなる。
「朝ご飯用意しとくから、お風呂入っておいで」
「はい…っ」
これ幸いに風呂場に向かうと、頭から熱いシャワーを浴びて熱を紛らせた。
「イルカ先生、約束覚えてる?」
「約束?」
ほっこりご飯の盛られた茶碗を受け取りながら首を傾げた。
「花火大会。一緒に行こうって約束したデショ?」
「ああ、覚えてますよ。でもまだ先ですよ」
「そうだけど…。イルカ先生、残業入れたりしないでね。オレ、すごく楽しみにしてるから」
「分かってます」
また熱くなりそうな頬に、ご飯を口に運びながらそっけなく答えた。口をもぐもぐさせて横目でカレンダーを確認すると、その日は水曜日だ。きっと大丈夫だだろう。
食事を終えるとカカシさんが風呂に入って、その間に俺が片付けをした。窓を開けて布団を抱えるとベランダに持って行く。布団からカカシさんの匂いがする様な気がして顔をうずめた。くんと大きく息を吸う。
(…やっぱりカカシさんの匂いがする。一晩一緒にいたから、布団にカカシさんの匂いが移った)
途端に布団を干すのが勿体ない気がして足を止めた。動かない足に馬鹿なことをと自分を戒める。
(これからだって一緒にいられるんだ)
そう確信して、青空に向かって布団を広げた。
玄関先でカカシさんと別れてアカデミーへ向かった。いつもの道を通いながら体がふわふわするのを押さえられない。浮かれていた。どっぷり恋に浸かるのは危険だと頭の中では分かっているのに、感情がそれを理解しない。
(きっと大丈夫だ。もし本当の彼女が現れても、カカシさんは俺を選んでくれそうな気がする)
根拠のない自信が胸を満たす。今までの俺には無いことだった。
カカシさんとの同棲生活はおおむね順調で、喧嘩することなく日々が過ぎていった。ただ困ったことに、いつもカカシさんが俺を迎えに来るから、それが周囲に知れ渡ってしまった。
同僚にからかわられるのはいい。嫌なのは、待ち合わせの場所に行くと女の人がいることだ。毎日違う人が楽しそうにカカシさんと話している。
「カカシさん、もう迎えに来なくていいです」
帰り道、唐突に言い出すとカカシさんがビックリした顔をした。
「えっ、どうして?迷惑だった?」
「そんなんじゃ……」
そんなんじゃない。ただ、俺が行くとカカシさんが話を切り上げるから、女の人が俺を嫌って睨み付ける。それは一瞬の事だったけど、なんでこんなのが?と顔や体を品定めする視線が堪えた。彼女たちの言いたいことも判る。俺は彼女たちみたいな綺麗な顔も体も持っていない。
でも救いなのは、誰もカカシさんの赤い糸が繋がっていないことだ。こんな時、少しだけ糸が見えて良かったと思う。
「でもオレ、一日が終わってイルカ先生に会えるのがすごく楽しみなんです。少しでも早く会いたい。だから…ダメですか?」
「……!」
眉尻を下げてカカシさんが俺を見た。ずるいな、と思う。そんな顔されたら駄目だと言いにくいじゃないか。それに、俺だってちょっとはカカシさんが迎えに来てくれて嬉しいと思ってるんだ。
はっきり駄目と言えずにいると、カカシさんが「いいよね」と話を終わらせた。
いや、良いような悪いような……。
話は有耶無耶に終わってしまったが、夕飯を作っている時に大切なことを思い出した。
今まで一緒に行き帰りしていたから気が付かなかったが、これが無くてはカカシさんが一人で帰ろうにも帰れない。
「イルカ先生、レタス洗ったよ。次なにしたらいーい?」
「カカシさん!買い忘れたものがあるので行ってきます」
「え?それならオレが行こーか」
「いえ!いいです。授業で使うものだから、俺が行ってきます?」
深く追求される前に鍵と財布を引っ掴むと家を飛び出した。まだ開いてるといいなと思いながら商店街に向かう。頭の片隅にあった記憶を頼りに角を曲がると目当てのお店が見つかった。
「すみません。鍵を作って貰いたいのですが」
店の奥から出てきたおじいさんに鍵を渡す。5分程で出来ると言われて了承した。キーンと固いものを削る音に火花が散る。重ねられた鉄の棒が部屋の鍵の形に変わっていった。鍵はすぐに出来上がって、二つの鍵が手元に戻ってきた。
傷だらけの鍵と、真新しいぴかぴかの鍵。
これだけじゃあ寂しい気がしてキーホルダーを探した。大きすぎず邪魔にならないものを――。
ふと、青い魚が目に入った。いや、魚じゃない。大きな背びれと弧を描いた体は俺と同じ名前を持つイルカだった。手に取るとしっくり馴染む。
「……すみません、これください!」
付いていた鈴を外して貰うと輪に鍵を通した。袋を断ってお金を払うと店を出た。
(なんて言ってカカシさんに渡そう?受け取って貰えるかな?)
きっと断られることは無いと思う。
(自分と同じ名前の動物をキーホルダーにして渡すなんてやり過ぎじゃないか?)
そう考えると猛烈に気恥ずかしくなって、ポケットから鍵を取り出すとキーホルダーを外そうとした。
「イルカ先生!」
「カ、カカシさん!?」
目の前に現れたカカシさんに慌てて鍵を隠した。
「どうしたんですか?」
「遅いから心配になっちゃって……」
(遅いったって、そんなに時間経ってないのに……)
心配性なカカシさんを呆れて見てしまう。自分でもそう思っているのかカカシさんは弱ったように頭の後ろを掻いていた。
「買い忘れたのあった?」
「あっ、なかったです」
鍵に夢中ですっかり裏工作するの忘れてた。オレが探してこようかと言うカカシさんの申し出を断って家に帰った。頭の中はいかにカカシさんに鍵を渡すかでいっぱいだ。キーホルダーだって外さなきゃならないし……。
その夜、カカシさんは執拗だった。俺が隠し事をしているのを感じるらしく、話せ話せと迫り来る。それでもシラを切り通したら散々泣かされた。エッチをそんなことに使うなんてどうなんだ!と憤りを感じなくは無いけど、それはそれで気持ち良かったから許すことにした。
「カカシさん、行きますよ」
「…………」
まだ昨日のことを引き摺っているのか、カカシさんは朝から拗ねていた。朝ご飯とか着替えとか、俺の世話は焼くくせに口を利いてくれない。
あんまりしつこくするから、だんだん俺も腹が立ってきた。
「来ないんだったら、俺一人で行きますよ!」
サンダルを履いて部屋の奥に呼びかける。それでも来ないから、サンダルを脱ぐとドシドシ足を踏み鳴らして部屋の奥に進んだ。
カカシさんが怯んだ顔で俺のことを見たけど、すぐにふいっと顔を背ける。
「もう俺一人で行きますから!鍵はカカシさんが閉めて下さいね!」
べしっと格好良く、カカシさんに鍵を押しつけるつもりだったのに、怒って咄嗟に取り出したのは昨日作った鍵だった。
「あぁ…っ!」
手を引っ込めようにも鍵はカカシさんに押しつけた後で取り戻せない。カーッと顔が火照り、立ち上がると勢いのまま部屋を飛び出そうとした。
「……いつもの鍵と違う」
慌ててサンダルを履いているとカカシさんの声が聞こえてきた。
「ねぇ、イルカ先生!鍵が違うよ!」
「そ、それはっ、カカシさんのです!カカシさんが…!カカシさんの…!」
(あーっ!もう!うまくサンダルが履けない!)
もういいやとサンダルを掴んで玄関を開けるが、光を見た瞬間すぐに引き戻された。腕の骨が軋みそうなほど強く抱きしめられる。
「…コレ、オレの?」
「…………そうです」
「持ってていーの?」
「………そうだって言ってるじゃないですか!」
「うれしい」
いっそう体を抱く力が強くなって息を詰めた。苦しいけど、何故か幸せだ。俺が息を止めていることにすぐに気付いて、カカシさんは腕を緩めてくれた。玄関に背中を預けて向かい合わせにされると、額が合わさりそうなほどカカシさんが顔を寄せた。
「イルカ先生、もしかして昨日、コレを用意してくれてたの?」
「…だったらなんですか」
我ながら可愛くない返答だ。だけどカカシさんは気にする風もなく、もう一度「うれしい」と言うと、顔を傾けて唇を合わせた。
「イルカ先生、すごくうれしいです」
ちゅっ、ちゅ、と玄関先で濡れた音が響く。そのせいで、あともう少しで遅刻するところだった。
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