スキマ 7




 トントンとまな板の上の鰯を包丁で叩く。本当は秋刀魚を買って帰りたかったが、閉店間際の魚屋で手に入ったのは小さな鰯だけだった。それを身だけにすると叩いて薬味と合わせ、また叩く。
 季節的にはちょっと早いかもしれないけど鍋にしようと思った。前にカカシさんが冬になったら鍋を食べようと言っていたから、それを思い出して。
 出来上がったつみれを丸め、野菜を切り、土鍋に湯を沸かすと卓袱台に運んだ。あとはカカシさんが帰ってくるのを待つだけ。
 することがなくなると落ち着かなくて、朝見た新聞をもう一度広げた。時折帰ってきたらすぐ食べれるようにと何度か冷めた湯を沸かしなおした。
 だけど日が落ちてもカカシさんは帰ってこない。俺が邪魔したから演習がなかなか終わらないのかもしれない。あの時のことを思い返すと気が沈んだが、ちゃんと謝ろうと心に決めてカカシさんを待つが――。
(――もうここには来ないのかもしれない)
 夜が更け、いつもなら布団に入るような時間になって、漸く俺はその可能性を考えた。昼間の冷たかったカカシさんの態度を思うとそれも頷ける。
 アスマさんは怒ってないって言ってたけど、カカシさんは俺を拒絶した。「話しかけるな」と意思を持って。
(きっともう嫌われた。やっぱり俺のことが嫌になったんだ)
 否定したいけど、それが納得できるだけの理由が俺にはある。
 昼間のことはカカシさんが俺をきっぱり切り捨てるには十分な理由になったのだ。
 氷が砕けた。
 この一週間、幸せだったけど氷の上にいるようだと密かに感じていた。いつ砕けてもおかしくない、薄い氷の上に出来た幸せ。俺を傷つけたことを気にしたカカシさんがくれた幸せ。怪我さえなければ、俺はもっと早くカカシさんに捨てられてたかもしれない。
 そうされても仕方ないことを俺がしたから。
 あのコンドームの一件は、――俺がしたのは裏切りだ。何の罪もないカカシさんを疑い、傷つけた。信じることを全くしなかった。
 これが逆だったら。
 同じように俺がカカシさんから謂れのない疑いを掛けられ信じて貰えなかったとしたら、――俺はカカシさんを信頼出来なくなるだろう。簡単に不信を抱く心に、俺への気持ちはそんなものだったのかと相手への気持ちが冷めてしまうだろう。
 俺がしたことはそういうことだ。きっとカカシさんも同じように感じた筈だ。
(ごめんなさい)
 何度も心の中で謝った。償いたかった。カカシさんに謝って、何度だって謝って許しを乞いたかった。でも優しくしてくれるカカシさんにもう一度話を持ち出すことが出来なかった。謝って、「許せない」と言われたら、と思うと怖くて、――それで、俺は気づいてないフリをした。すべてが終わって元通りになったフリをしてカカシさんに甘えた。
 だけど――。
「馬鹿だなぁ・・・」
 戻れる筈がないのに。一度失った信頼は容易く回復しない。謝ったって済むことじゃなかった。本当に悪かったことに謝罪の言葉なんて通用しない。
 何も考えずにいられた頃に戻りたかった。馬鹿な考えを起こす前に。布団の中でじゃれ合っていた頃に。もしかしたら体が合わないのかも、と悩んでいたことすら幸せの内にあったなんて。失くして初めて気づいた。
 苦しい想いが胸の中でせめぎ合う。
 全部自分で壊した。とても大切だったのに、馬鹿で浅はかだから失ってしまった。
 苦しみは渦を捲いて溢れそうになるなのに、不思議と涙が出てこない。いつもなら簡単に溢れる涙は流し方を忘れしまったかのように溢れる兆しを見せず、堰き止められた感情が胸の奥を切り刻んだ。
 痛む胸を押さえて膝を抱える。
 それに俺の体。この汚い体。あんなところでしかカカシさんを受け止めることが出来ないうえ、コトが終わった後にあんな世話をしなくてはいけないのなら誰だって嫌気がさすに決まってる。
 心も駄目。体も駄目。
 いいところが一つもないのだから嫌われたって仕方ない。
 それでも優しかったカカシさんを思い出しては一縷の望みが捨てきれない。
 許して欲しい。




 体の浮き上がる気配に意識が浮上する。逞しい腕を背中と膝の下に、ごわついた布の感触を頬に感じて抱き上げられたのを知った。だけどそれも一瞬で、柔らかい布団を背に感じ、離れていく体に慌ててしがみ付いた。
「・・カカシさん・・・」
 背中にぎゅっと手を廻し、額を胸に押し付ければ安堵と共に強い哀しみが競り上がる。
 帰って来てくれて嬉しい。
(でもこれからどうしたらいいのだろう…)
 そのままじっとしていたらカカシさんの手が両腕に掛かった。引き離されそうになり服を掴む。いやだと首を横に振ってしがみ付くが、カカシさんが後ろに下がってあっけなく腕を外された。
「あのっ、怒ってますよね、ごめんなさい、任務の邪魔して・・俺・・っ」
「どうしてイルカ先生が謝るの?関係ないでしょ?」
 言われた言葉に息が詰まる。あの場に居たのに関係ないなんて言わないで欲しい。
「でも・・俺がアスマさん引き止めたから・・」
「・・そう。イルカ先生が・・・」
 しつこくしているからか次第にカカシさんの気配がイライラしたものに変わっていく。見上げても、右目しか見えないカカシさんからは表情が消え、感情が伺えない。
「すいません・・、今日は帰ります」
「どうして・・?いやです・・帰らないでください・・・・」
「・・すいません」
 目も合わせぬまま背を向けるカカシさんにベッドから降りて追いすがる。離してしまえばこれが最後になりそうで、みっともなくても捕まえた手を離せない。
「イルカ先生、今日は帰らせてください。明日になったらいつもと同じようにするから・・」
「え・・」
 どういう意味だろう・・?
 考える間もなくカカシさんの手がすり抜けていく。強い力でもって俺の手を振り解いた。
 カカシさんの背中が遠ざかる。
 追いかけてくるな、と拒絶しながら。
「・・・カカシさん・・、俺たちもう駄目なんですか・・・?俺に触られるのは・・、もう嫌なんですか・・?」
 問いかければ、チッと舌打ちされた。その鋭い音が胸を突き刺す。
 やはり許して欲しいなんて都合が良すぎた。
 もう駄目だ。

「・・・ごめんなさい」

 目の前が暗く翳る。意識が辛い現実から目を背け、自分の中へと堕ちていこうとするのを止められない。それでも良かった。
 だけど体を抱きしめる強い力に意識が舞い戻る。
「カカシさん・・・・?」
 目の前を覆う銀色の髪を不思議に思う。
 どうしてここにいるのだろう?行ってしまうのではなかったのか。
 状況が把握できずその名を呼べば更に強く抱きしめられた。
「・・どうしてイルカ先生が謝るの。謝らないといけないのはオレの方なのに・・ごめんなさい、イルカ先生ごめん・・」
 強い力で締め付けられて苦しくなる。だけど胸の中を締め付けていたものはふっと緩んで解けた。堰き止められていたものが溢れ出し目の前が歪む。
「カカシ、・・さん・・っ」
 溢れ出したものが頬を熱く濡らし、嗚咽に息が吐けなくなった。
「ひっ、ひっ、っく、カカッ・・さ・・っ、うぅっ、うぅーっ」
 歯を食いしばっても声が漏れる。
 耳元で騒がれたカカシさんはさぞかし煩さいだろうと思ったが、堪えることが出来ずカカシさんにしがみ付いて必死に泣いた。




「落ち着いた?」
 カカシさんの入れてくれたお茶を口に含む。頷くと熱いお茶に気が緩んでまたぽたっと涙が落ちた。それに慌てたようにカカシさんの手が伸びて頬を拭う。
「す、・・ませ・・・」
 言う度に涙が落ちてカカシさんが慌ててた。一人の時流れなかった涙は今度は涙腺が壊れたように溢れ出し止める事が出来なかった。
「ああ、ごめんね・・」
 背中に回ったカカシさんに抱えるように抱きしめられてほっと息を吐く。
「ゴメン・・イルカ先生・・」
(どうしてそんなにカカシさんが謝るのだろう・・?)
 湯飲みを両手で抱えているとカカシさんがぽつぽつと話し始めた。
「気にしましたよね・・、昼間のこと。あんな態度取るつもりなかったんだけど・・・感情が抑えられなくて酷いこと言いそうだったから・・」
「でも・・、あれは俺が悪かったから・・。演習の邪魔したから怒られても――」
「違う!・・違うんです。イルカ先生に怒ったんじゃなくて・・オレが腹を立てたのは・・イルカ先生が楽しそうだったから・・、アスマと幸せそうに話すから・・・、傍にいるのはオレじゃなくてもいいんじゃないかって思えて悔しくて、それで――」
 袖を引いて首を横に振った。違う。俺が幸せそうに見えたならそれはアスマさんと一緒にいたからじゃない。
「・・カカシさんの話をしてたんです。カカシさんとのこと聞かれて、それでカカシさんのことすごく大事だって思ったら、嬉しくって幸せで・・」
 その時の感情が蘇ってぽろっと涙が落ちた。胸の中が熱くなって心が震える。
 どうか分かって欲しい。
「すごく大事なんです」
 たった一つ、命に代えても揺が無い想いが胸の中にあることを。
「カカシさんが、すごく大事で、だから、傍に居てくれるのはカカシさんじゃないと駄目なんです」
 はぁっと深い溜息が肩に落ちた。続いてぽふっとカカシさんの頭が乗ってお腹の上にあった腕が強く締まる。そのまま動かなくなったカカシさんの腕に腕を重ねて、願いを込めて抱き締めた。
「・・・許して下さい。お、俺は、なんの取り得もなくて、男で、その上馬鹿だからカカシさんのこと傷つけて、償い方も知らなくて、浅はかで、カカシさんに好きになってもらえるようなところが一つもないけど、それでも俺にとってはカカシさんが、一番大事で、すごく大事で・・、傍にいてもらえないのは辛い・・。嫌いにならないで・・っ」
 うーっと込み上げる嗚咽に呻くと、「どうして?」と呟く声が聞こえた。
「どうしてそんなに自分のこと責めるの。別にいいんですよ。イルカ先生はオレに何したって。オレのすべてはイルカ先生を思う気持ちで出来ているから。イルカ先生の一部みたいなもんだから、イルカ先生がオレをどう扱おうといいんです。ムカついたなら殴ればいいし、気に入らなければ光玉でもなんでも・・。だけど、どうしてオレのこと一言も責めないの?あんな酷いことしたのに・・。許されないよ・・、オレはイルカ先生のことレイ――」
「違うっ!あれはそんなんじゃない!俺が悪かったんです。俺があんなこと言い出さなかったらあんな風にならなかった。カカシさんは悪くない、俺が馬鹿だったんです!俺が――」
「聞いて、イルカ先生。あの時オレがしたのはレイプですよ。力でイルカ先生を押さえ付けたんです。嫌われたと思って、手放したくなくて、オレから離れないように無理矢理犯したんです。そんな風にしなくても他に方法があっただろうにね・・。こんな風にしたらイルカ先生を傷つけるって分かってたのに、自分では抑えられなかった。いつも優しくしたいって思ってたのに・・。・・イヤだったでしょう・・?ゴメンネ。・・・ゴメンなさい・・」
 深い痛惜の声に言葉を失くす。そんなにカカシ先生が自分のことを責めてるなんて思わなかった。自分のことばっかり考えてカカシさんの気持ちに気づいてあげられなかった。
 俺はどうしようもない馬鹿だ。
 カカシさんはこんなに優しい人なのに。俺のせいで傷ついて――。
「あの時俺が抵抗したのはカカシさんが嫌だからじゃなくて、カカシさんに他にもこんなことする人がいると思ったから、一緒にされたくなかったからです。どうでもいいみたいに扱われるのが哀しかった。・・でもカカシさん、泣いてて、・・泣いてたから、おかしいなって思って・・、もしかしたらまだ俺のこと好きなんじゃないかって思ったら――」
 体が先に変化した。気持ちはまだカカシさんのこと疑ってたけど、体はカカシさんを受け入れて悦んだ。いままでにない感覚でもって――。
「――あの時カカシさんは俺のこと好きでしたか?好きで俺のこと抱いたんですか?」
 伏せていたカカシさんの顔が上がり、真摯な瞳と目が合う。その瞳に涙の跡はないが泣いたように真っ赤になっていた。
「あ・・当たり前でしょう?いつだって・・、イルカ先生のこと嫌いだなんて思ったことないですよ」
「なら、いいです。カカシさんも俺に何したっていいんですよ?俺の全部はカカシさんのだから・・」
 言って、すぐ傍にあるカカシさんの唇に口吻けた。重なる瞬間心が軋む。
(拒まれたらどうしよう・・)
 だけどそれはすぐに杞憂に変わり、触れるだけの口吻けはカカシさんの荒々しい口吻けに取って代わった。舌先が唇を割って入り、口腔を掻き回す。触れ合った舌は絡んできつく吸い上げられた。求められる歓喜に体が震える。
 これならもっと早くに口吻けていれば良かった。気に病む前にこうしていたら、こんなに悩むこともなかったかもしれない。俺もカカシさんも。
「イルカセンセ・・」
 唇の角度を変える合間にカカシさんが名を呼んだ。
「怖くない・・?オレのこと怖くない?」
 唇から逸れたカカシさんの唇が頬を濡らし、耳の付け根へと移動する。顎の下に入り込んだカカシさんの頭を抱きしめて、きっぱり言った。
「怖くありません」
 顔を上げたカカシさんが額を合わせて、瞳を覗き込む。
「・・・オレは怖いよ。執着が強すぎて自分が抑えられなくなる。絶対離れられないよ・・。いいの?またこんなことあったら、オレ何しでかすかわからないよ?」
「かまいません」
 嬉しくなってふふっと笑った。カカシさんが言葉を重ねるたび、告白されているようで心が軽くなる。ずっと不安に思っていたことが嘘みたいに消えていく。
 俺はカカシさんに嫌われてない。むしろ、深く――。
「笑い事じゃないよ?イルカ先生のこと好きすぎて、今度は――」
 辛そうに言葉を続けるカカシさんの唇を塞いだ。
(構わない)
 この時俺はカカシさんになら殺されたって構わないと心の底から思った。



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